02 ガナッシュ


 パパの名前はウィリアム・ヴェンシア。遠い島から、船でお砂糖を運ぶ仕事の一番偉い人。
 ママの名前はナタリー・ヴェンシア。子供が好きで、港で子供たちに絵本の読み聞かせをしているところに、船を迎えに来たパパが通りかかって、パパが一目惚れして結婚した。
 それから一年たって、私が生まれた。キャロル・ヴェンシア。今は八歳。夏になったら九歳になるけれど、パパとママは永遠に、三十九歳と二十九歳なのだ。
 腰かけていた木の旅行かばんを、久しぶりに開ける。中身は空っぽ。ここへ来たとき、伯爵が全部出して、タンスにしまってくれた。でもひとつだけ、このかばんには、出せないものが残っている。
 蓋の裏に描かれた、パパとママと私の絵だ。六歳の誕生日、初めてパパの船に乗って旅行に行く私のために、二人が用意してくれたかばんには、写真を元にした肖像画が描かれている。私の髪のまっすぐなところはパパ譲りで、金色なところはママ譲り。目の色の明るい琥珀色なところはパパ譲り。でも、アーモンドみたいな形はママに似ている。
 去年の春、私が自分では持てないこのかばんを馬丁さんに持ってもらって、パパの書斎に一通だけあった、仕事のものではなさそうな手紙を頼りに門をくぐったとき、パパの妹のアカシアおばさんはちょっと引き攣った顔をした。でも私を引き受けると言ってくれて、馬丁さんとはそこでお別れになった。
 アカシアおばさんの家は大きな果樹園で、子供が三人いて、子供たちはみんな一つの部屋で暮らしていた。私のベッドを入れるから、部屋は今より狭くなる。そのかばんは納屋に片づけてしまったら、と言われたけれど、だったらこれの上で寝るからベッドはいらないと断った。
 兄弟たちは男も女もなく、揃いの服を着た入れ子人形のようなそっくりで、私の持ってきたものに興味津々で、何でも見たり触ったりしたがる。それが何となく厭で、いつも守るようにかばんの上に座って、一人で本を読んだり絵を描いたりしていた。旅行かばんの上で寝て、何でもそこから取り出して使い、そこにしまいたがる私を、兄弟たちは代わる代わる観察して「あいつ、ヘン」とアカシアおばさんに告げ口した。
 やがて、私を引き取りたいという人が見つかった。良かったわねキャロル、と、アカシアおばさんは最初から決まっていたことのように言った。
 アカシアおばさんの夫の、無口なおじさんに連れられて、私は汽車を乗り継いで街から街へ運ばれていった。そうして辿り着いた駅の、最後の看板は〈ベンバート〉。そこからさらに汽車で向かった先は、看板のない小さな駅で、ひとけのないホームを下りたところに、一台の馬車が停まっていた。
 その馬車の前に立っていたのが、伯爵ことオスカー・アンダーソン氏だ。おじさんの親戚の、遠縁の親戚で、つまるところ私とはなんの血縁に当たる人でもない。彼の後ろの馬車の小窓の、臙脂のカーテンが透けて見えるのを眺めて、汽車の中で聞いていた通りだと思った。
 おじさんが彼と挨拶をして帰ろうとしたので、私は裾を引っ張って、かばんを馬車に積んでほしいと頼んだ。おじさんはかばんのことなど、そのときになって思い出したようだった。その顔を見たとき、無性に腹が立って、私はおじさんの手からかばんをひったくろうとしがみついた。
 おじさんは困ったように、持てないだろうと言った。私の手とおじさんの手の間に、白い手袋をした手が入ってきて、かばんを持った。ずっと黙って立っていたその人は、私の代わりにかばんを受け取ると、シルクハットを頷かせて、片手にかばんを持ち、もう片手を私に差し出した。
 そうして荷台ではなく、座席に私のかばんを置いて、馬車を出させた。
 あの日から、私はここで暮らしている。
 そろそろ三時だ。伯爵が今日のおやつを用意している時間である。壁の呼び鈴が鳴る前に下へ行こうと部屋を出たら、ドアの前に、白いジャケットが立っていた。びっくりして、ぶつかりそうになった私を支えるように腕が伸ばされる。
「伯爵」
 顔を上げると、すみれ色のリボンをかけた白地のシルクハットが、どうしたと訊くように首を傾げる。その手が緩く握られているのを見て、もしかして、私を呼びに来たのかな、と思った。
「伯爵、チョコレートの匂いがする。もしかして、おやつはチョコケーキ? それともココア?」
 シルクハットが首を振る。差し出された手を握ったとき、じゃあガナッシュ、と言ってみたら、正解と頷いた。この人は私の家族ではなくて、ついでに言えば、伯爵でもない。伯爵みたいなお邸に住んでいて、伯爵みたいな恰好をした、私を引き取った、不思議な翻訳家だ。
 それでも、伯爵が旅行かばんを開けたとき、厭じゃなかった。透明な顔はパパとママを見つめて、何も言わなかった。私の部屋には変わらずかばんがあるけれど、私は今、夜はベッドで眠っている。使ったものはタンスに戻す。
 階段を下りると、チョコレートの香りが強くなった。さて、今日の紅茶は何だろう。



[ 2/14 ][*prev] [next#]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -