01 クグロフ
それは、蛇の目型と呼ばれる型に収めて焼き上げられるお菓子で、表面に、きっちりと整列したうねりがある。うねりの溝には振りかけられた粉砂糖がたまっていて、フォークとナイフを使って切り分けると、銀色のカトラリーの表面もうっすら雪が降ったようになるのだ。
クグロフを食べる前に、いつも、粉砂糖のついたフォークを舐める。しゅわっと甘くて、あっというまに消えてしまう。そうして綺麗になったフォークには、クグロフの断面の、ぱらぱらと入ったレーズンが映り込む。クリームが少しと、真っ赤なドレンチェリーが真ん中にいて、桜の木を模したテーブルランプの桃色がかった光に照らされて、古い宝石のようにつやつやと輝いている。
「伯爵。食べないの?」
声をかけると、ワゴンの前で丸まっていたチョコレート色の背中が振り返った。白い手袋を嵌めた手が、ワゴンの上に並んだカップやポットを指し、私を示し、フォークを持つ仕草をする。紅茶を用意しているんだ、先に食べていていい。多分そういう意味だ。
そういえば、飲み物がなかった。待っていたほうがお行儀よかったかな、と思ったが、もう切り分けてしまったので、先に食べ始めることにする。
深いこげ茶色をした、長い木のテーブルに、かじったところから粉砂糖がこぼれて雪を降らせた。お皿の上で食べなさいと、昔ママによく言われていたことを思い出して、身を乗り出す。ここの椅子は高くて、足が床につかない。一度座ってしまうと、一人では上手に引けない。
テーブルの下には深い赤色の、白や緑で花を描いた絨毯が敷き詰められている。よく見るとハチドリが交ざっているのも、私は知っている。花の隙間に時々現れるハチドリを、二十羽くらい数えた先に暖炉がある。去年の年末、私の来たときには赤々と火を燃していた暖炉だけれど、一週間くらい前から温かくなって、すっかり使われなくなった。
食堂の壁には東向きに窓があって、風が吹くと窓越しにざわざわと、薔薇の葉の鳴く音が聞こえる。昼間にはそれもよく見えるのだが、今は暗くて、目を凝らしてもほとんど分からなかった。
窓と反対側にあるドアを隔てて、キッチンがある。広くて立派だけれど、飾りのない、物静かで使い込まれたキッチンだ。北側に大きなドアをひとつ持っていて、開けると外に繋がっている。目の前に裏門があって、届けられた食材がそのまま運び込める造りになっているのだ。
邸には週に一度、馬車で色々な食材が届けられる。伯爵は、料理が上手だ。この邸で出てくる食事は、みんな伯爵が作っている。サラダもマリネもスープもムニエルも。パンも焼くし、このクグロフだって。
えい、と腕を伸ばしてフォークを刺したとき、椅子が一歩、前に出された。
「伯爵」
見上げると、彼はとんとん、と手袋を嵌めた指で自分の口の辺りを叩いた。私は手の甲で、自分の口の周りを拭ってみる。粉砂糖が少しついていた。
取れた? と伯爵の顔を見る。ダークチョコレート、ミルクチョコレート、ホワイトチョコレート。三段重ねのチョコレートのようなレースを、カーテンのように纏ったこげ茶のシルクハットが頷いた。同じチョコレート色で揃えたスリーピースの、襟に煌く赤い石は、私のドレンチェリーに似ている。
一口で食べてしまうのがもったいなくて、半分に切り分けたドレンチェリーを口に運ぶ私の前に、白い花びらのようなカップに注がれた紅茶が置かれた。向かいに、同じものがひとつ。伯爵がゆっくりと、腰を下ろす。
彼の前にあるクグロフには、緑色のドレンチェリーがのっている。伯爵は紅茶に、ブランデーで香りづけした角砂糖をひとつ入れて、私にはミルクとブラウンシュガーを勧めた。貝殻を模したティースプーンは、私の専用で、ここに来るとき大切に持ってきたもののひとつだ。1912.6.28キャロル――後ろに誕生日と、名前が彫られている。
すい、と伯爵のナイフがクグロフを一口に切った。フォークで迷わず運ばれたそれは、茶色いシルクハットと白いシャツの襟の間、ちょうど口があるくらいの場所に、とぷんと消えて見えなくなる。この瞬間はいつも、不思議だな、と思う。伯爵の後ろの壁紙は、百合の模様が綺麗に透けて見えるのに。
私の視線に気づいたのか、伯爵が首を傾けた。なんでもない、とクグロフを切って、真似して左手でフォークを持って食べる。
「美味しいね」
初めてここに来た日の夜も、デザートがクグロフだったことを思い出した。
シルクハットがこくりと頷く。これは透明伯爵と、彼に引き取られた私、キャロル・ヴェンシアの話。
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