10 カヌレ
バレエを習い始めた。ベンバートの裏路地でひっそりと教えている若い女の先生を、伯爵がどこからか見つけて、私を連れて行ってくれることになったのだ。先生が言うには、私はバレエを始める年齢には少し遅れを取っているけれど、体が柔らかいから練習すれば上達するだろうとのことだ。頑張って、早くあの絵本の女の子のように、高く跳べるようになりたいなと思う。
バレエ教室には毎週、火曜日に通うことになった。ローズレッドのタフタのリボンがついた白い帽子を被って、革のかばんにあの丸くて小さな靴と、たんぽぽみたいなドレスを詰めていく。
お邸には馬を飼っていないから、伯爵は毎週月曜日の夜に、馬車を貸してくれる業者へ電話をかけるよう私に教えた。言われた通りに電話をすると、火曜日のお昼過ぎ、正門の前に馬車がやってくる。伯爵と私はその馬車に乗って最寄りの駅まで行き、汽車に乗りかえてベンバートへ向かった。
レッスンは一回に二時間ある。二時間踊っているのは疲れてしまうので、途中でバレエの歴史を習ったり、音楽を聴いたりする。先生はレコードをたくさん持っていて、バレエの音楽について色々なことを教えてくれた。私は二回目からノートを持参するようになって、先生の話を書き留めることが多くなった。
バレエでは、色々なものに変身した。可憐な妖精から、いたずらなリス、湖の白鳥、悪い魔法使いまで。音楽に合わせて、踊りで何かを表現するなんて初めての経験だ。最初は戸惑っていたけれど、ハチドリを演じるシーンを練習したとき、リビングの絨毯で遊んでいたときの気持ちを思い出して踊ってみたら、先生がとてもいいと褒めてくれた。以来、私は少しずつ、何かになったつもりで踊るということが分かるようになってきている。
今日は、ちょっと難しい。
人間に恋をして、何百年も忘れられずに夢の中にいる、水の精の役だ。
「そう、そこでまっすぐ手を伸ばすでしょ。幻を見て、うっとりする。指先はきちんと合わせてね」
「はい」
「ああ、そんなに硬い顔をしちゃだめよ。この場面は、愛しい人を前にして手を伸ばしているところなんだから」
愛しい。それは、どういう感覚なのだろう、と思う。おとぎ話のお姫様が王子様を見つめるつもりでやってごらん、と先生は言った。どうにか思い描いてみるけれど、ハチドリのときのような「これだ」と思える何かはなかなか見つからない。
「あなたを愛してる、って囁くイメージでね。永遠に、永遠に……」
「永遠に、愛してる……」
「そうよ。Je t’aime pour toujours…」
思わず、私は先生のほうを見た。
「『Je t’aime pour toujours.』?」
「そうよ。さっき話したでしょう、かつてバレエが栄えた国の言葉でね、あなたを永遠に愛していますっていう意味なの」
にこにこと、先生はその他にもいくつかの言葉を教えてくれた。けれど私には、そのどれも、頭に入ってこなかった。
青い檸檬の匂いがふと、漂った気がした。そのとき、ちょうどレッスンの終わりを告げる鐘が鳴って、私を迎えにきた伯爵がドアをノックした。
来たときと同じように、汽車に乗り、馬車に乗りかえて私たちは帰る。私がレッスンのあいだ、じじいブレンドを飲んで待っていた伯爵は、カフェで居合わせたお客さんに教わったというメモ書きのレシピを見せてくれた。カヌレ、と書いてある。バレエが栄えた国のお菓子で、クグロフに似た形をしているけれど、味と食感は別物だ。
今夜はデザートに、それを作る予定らしい。がたごとと揺れる馬車の中、メモを畳んでポケットにしまった伯爵の肩に頭を預けて、私は口を開いた。
「ねえ、伯爵」
シルクハットが、傾く。
「『Je t’aime pour toujours.』って、知ってる?」
問いかけに、一瞬グレーのジャケットに包まれた肩が反応した気がした。伯爵は、静かに頷いた。
「そっか」
私はそれ以上、何も訊かなかった。それが言葉を知っているかという質問だったのか、その感覚を知っているかという質問だったのか、自分でもはっきり分からなかったからだ。
窓の彼方にお邸が見えてくる。カヌレ、楽しみだね。呟くと、手袋を嵌めた手が帽子の上から、私の頭を撫でた。
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