第5章


 ダン、と背中が石の柱に押しつけられる。大した痛みはないが、衝撃が体を突き抜けて、タミアは小さな呻き声を漏らした。頬のすぐ傍に、褐色の手のひらが下りてくる。背高の影に頭の先から足の先まで覆われて、見えない檻に捕まったような威圧感にごくりと唾を飲んだ。
「なんで……」
 音は出なかったはずだ。光は一瞬、足元を照らし出したが、ジンの視界までは届かなかったのを確認した。どうして、気づかれたのだろう。一か八か、こうなる可能性も考えていなかったわけではないが、上手くいったと思ったのに。
「なんデ? そりゃ、こっちの台詞だナ」
 キキキ、とジンは耳鳴りのように笑った。
「逆に訊くガ、なんでバレないと思ウ? お前が使った魔法はなんダ? オレは、なんのジンダ?」
 間近で目を合わせるのが本能的に恐ろしくて、顔を上げられずに見つめていた肩が、くつくつと揺れた。ああそうか、と頭が追いついて、愕然とする。
 とにかく目立って分かりやすい合図を、と思うあまり、火のジンに助けを求めてしまった。空に花火を打ち上げるほどの、大きな心の声。こんなに近くにいたジンに、聞こえていないはずがない。
「あと三歩……そうやって怯えて大人しくついてきたラ、全部が終わるまデ、ここで眠らせてやろうと思っていたのニ」
「どういう意味」
「お前は魔法使いと言ってモ、まだ大した器じゃないみたいだからナ。抵抗しないようなラ、手を下す必要はなイ」
「……っ」
「だガ、思ったより客気だナ。まさかこの状況で打って出るとハ、思わなかっタ」
 金糸のフリンジに縁取られたストールが、細い麻のベルトで絡げて、腰に巻かれている。七分丈のパンツの下に覗く両足は裸足で、人間の形をいつのまにか失い、猛禽のように鋭い爪を覗かせていた。
「面白イ」
 本性を露わにしたからだろうか。ジンは相変わらず威圧するように、低く押し殺した声で喋ったが、その声音からログズの真似は消えていた。語尾に滲む子供のような、あるいは金属を引っかくような声が、鼓膜を不気味になぞって残る。
「取引をしないカ」
 ぐ、とうつむいていた顎を無理矢理に持ち上げられて、タミアは身を強張らせた。ジンは愉快そうに笑って、タミアから一歩離れると、自分の胸に手を当てて満足げに口を開く。
「今、姿を借りているこの男。これの体は実にいイ」
 タミアは一瞬、まばたきをしてから、え、と呟いた。
「……そう、かしら……? 人間の基準では、だいぶガリガリだと思うけど」
「ン?」
「いえ、まあ、その。あなたの基準は分からないから、とりあえず聞くわ。続けて」
「言っておくガ、魔法使いの素体としての話だからナ?」
 ああ、そういう話か。危うくジンを見る目が変わってしまうところだった。
 ほっとしたような緊張感を思い出したような、何とも言えない表情を浮かべたタミアに、ジンは呆れた口調で「とにかク」と言った。そうしておもむろに、シャツの裾を捲り上げる。
 そこには、一目で深手と分かる火傷の痕が残っていた。
「宿のときの……?」
「お前も見ていただろウ? 一度戦ってみテ、この通り痛感しタ――あれはジンに呼びかけることに関しテ、抜群に優れていル。咄嗟の魔法で膨大な数のジンから力を借りテ、己の身を護るのみならズ、オレを焼き尽くそうとしタ。先天の才か、修業の賜物か知らないガ、魔法使いとして完成度の高い体ダ」
 つう、と尖った爪の先が火傷をなぞる。
「実に手に入れたイ」
 再生したばかりの薄い皮膚が破れそうになるのを見て、目を逸らしたタミアにジンはくつくつと笑った。
「今は形を真似ているだけだガ、本物を得られれば実に動きやすい体だろウ」
「あなたがログズを得るって、具体的にはどういうこと?」
「魂を封じテ、うつろになった肉体を、あれの魂に代わって着ル」
「……ログズを封じるのね、自分が魔法使いからそうされたように。ログズの体を乗っ取って、あなたは何がしたいの」
 メダルの奥から感じられる視線がかすかな殺気を帯びたのに気づいたが、タミアは退かなかった。きつく見据えて、さあ答えて、と言外に促す。
 膝が震えていた。激昂されたら、そのときが最後だ。一人では、どう足掻いても敵わない。面と向かって相対してみて、タミアは勝てるわけがないことを直感していた。なればこそ、自分にできることは。
「ジンであるオレがあれの体を使うことデ、能力を増幅さセ、より多くのジンが惹きつけらレ、意のままに動かせるようになル」
「……それで?」
「他に比類のない魔法使いとなっテ、自分以外の魔法使いをこのガダブ砂漠から追放すル。人間の身を借りてこの土地を支配シ、ジンを直下に置キ、ジンが人間を下に置く国を作ル」
 ジンの狙いを、少しでも多く聞き出すことだ。
 身の軋むようなキリキリという音がジンの歯軋りだと気づいたとき、タミアは彼の抱え込んだ憎悪の深さ、暗さに目眩がした。


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