第2章


 町の頂から、信徒たちの厳かな祈りの声が聞こえてくる。幾重にも折り重なる声は歌のように、坂道をゆるやかに覆って下っていく。
 礼拝を呼びかける笛の音で目を覚ましたタミアは、ベッドに起き上がり、窓を開けて朝の風を胸に吸い込んだ。祈りの言葉を口の中で呟き、略式の礼拝をする。
 故郷にも小さな礼拝堂があり、敬虔な信徒、寡婦、妊婦などは朝晩の祈りの時間になると欠かさず通っていた。一般的には略式で良いとされている。タミアも礼拝堂へはたまに足を運ぶ程度だが、時間になると簡単なお祈りをする習慣はある。神様は信じていたい。善い行いも悪い行いも、誰かが見ていると思うと背筋がしゃんとする。
 タミアはベッドを軽く整えると、慣れない宿屋の洗面所のドアをそろりと開けた。よそよそしいタイルの洗面台に、古い絹のカーテンをさげた鏡が立っている。顔を洗って服を着替え、もう一度ベッドに戻って髪を編み始めた。物心ついた頃から、長い髪を後ろで一本の三つ編みにするのが毎朝の身支度だ。
 リボンを結んで、よし完了、と思ったとき。
 その髪が後ろから、ぐいっと引っ張られた。
「わっ」
「んー……?」
「起きてたの? おはよう、ログズ。いきなり何よ?」
 二つ並んだベッドの片方から腕を伸ばし、三つ編みを掴んだまま、彼は眩しそうに眉間に皺を寄せた。目を細めているようだが、ターバンを外すと伸びきった前髪が顔を覆って、余計に表情が見えなくなる。
 タミアは中途半端に振り返った恰好のまま、まだ寝ぼけているのか何も言わないログズに「礼拝終わっちゃったわよ」と言った。その辺りでようやく、頭が起きてきたらしい。ログズは手を離すと、欠伸をして起き上がった。
「ニンジンが宙にぶら下がってると思った」
「はいはい、土臭くて悪かったわねー」
「お前、朝から元気だなァ……」
「あなたは、見るからにダメそうね……冷たい水で顔でも洗ってきたら」
 ついでに早いところ着替えて、肌蹴きった寝間着をどうにかしてほしい。まったく、眠る前は確かにボタンを留めていたと思ったのに、どう寝たらこんなに肩も腰もズルズルになるのだろう。
「ほらほら、起きて」
 気を抜いたらもう一度横になってしまいそうなログズを、よいしょ、とベッドから引き剥がす。あー、と彼は唸って、観念したように布団から足を抜いた。
「分かった分かった。起きるから引っ張んな。お前、ほんっとアレだな」
「なに?」
「……何でもねー。朝からよくそんなに声が出るって思っただけだ」
「それ、うるさいって言いたいの?」
 半ば確信を持った問いかけに、返事はない。だるそうに背中を丸めたままケラケラと笑って、ログズは洗面所へ消えていった。
 剥ぎっぱなしのだらしない布団を代わりにたたみながら、やはり同室にして正解だったとタミアは一人頷いた。昨夜、宿を取る段階になって、彼は当たり前のように二部屋を取ろうとしたが、たったの二人なのだから一部屋あれば十分だとタミアが言い張った。
 宿代は少しでも節約するに限る。これからしばらくの間に、二人分の橋の通行料を貯めることを考えれば――その気になれば、ログズならまたどこかの酒場で稼いでくるかもしれないが――お金は一ガルムでも多く取っておくに越したことはない。
 叩き起こされるのが億劫だから、部屋を分けたがったのだろうか。
 きっとそうに違いないな、とタミアは納得のため息をついた。まったく、しょうがないにも程がある。
 チチッ、と窓枠に舞い降りた鳥が首を捻って鳴いた。笑いかけると、気配に気づいたのか飛んでいってしまう。朝日にふわふわと、羽毛が一枚落ちていった。

 宿屋街に建つ食堂は、朝から宿泊客で賑わいを見せていた。厨房のかまどが引っ切り無しに燃え盛り、玉蜀黍の粉を練って焼いた生地に、玉葱やトマト、鶏肉を甘辛く炒めた具材が次々巻かれていく。
 朝食の時間帯に出すメニューは、すべてそれと決まっているようだ。付け合せに選べる、サラダやスープが数種類ある。
「それじゃ、さっそく作戦会議といくか」
 シロップ漬けのオレンジを浮かべた水を一口、煽って、ログズは改まった調子で口を開いた。対するタミアは、渋々といった面持ちで頷く。
 今から行われるのは、ログズの奪われた杖についての会議だ。本来ならばまったくもってタミアには関係のない問題だが、決まったことは仕方ない。手伝うしかないだろう。
「昨夜、あなたを外に連れ出して殴った人が、杖も持っていったのよね?」
「そうだ」
「男の人? どんな感じの、いくつくらいの人だったのかしら」
 一晩経って、ログズの頬は何とも形容しがたい赤紫色に変わった。腫れはいくらか引いたが、これはこれで悪目立ちする。


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