第5章


 限られた才能を持つ者が、力を借りるだけでは飽き足らず。人間は何世紀にも渡って、裏でジンを封じ、自らの人生を輝かせるための道具にしてきた。多くのジンは今も気ままに漂流しているが、不幸なジンは囚われ、自由を奪われ、本来ならば自分と語らう資格を持たないはずの人間によって、私欲のために服従させられ、使役される。
 そうして何かのきっかけで解放されたときには、募らせた恨みが爆発し、悪性に堕ちる。
 悪性のジンとは、人間の欲が生みだす、人間を淘汰する存在なのだ。タミアは目の前のジンが今、殺意と紙一重の心情で自分と語り合っているのを理解して、背筋に氷が走った。
「取引に乗レ」
 つ、と長い爪が鼻先に触れる。
「封印から解かれたばかりデ、オレもまだ本来の力を取り戻しきれていなくてナ。ログズと言ったカ? あの男、手には入れたいガ、正面から相手をするのは避けたイ」
「私に、何をしろっていうの?」
「何モ。ただ少しこうやっテ――オレに捕まっているふりをしロ。後はオレが魂を封じル」
 足元から細い炎が昇った。蛇のようにタミアの体に巻きつくそぶりを見せ、煙になって掻き消える。人質か。これが一昨日の夜だったら、そんな作戦あの人には通じないと、心の底から笑い飛ばせた気がするのだが。
 今は、安請け合いができない。旅は道連れだ。
「オレにつくなラ、ガダブの魔法使いを一人残らず追い出した後、お前だけは妻にすると約束しよウ」
「あなたを夫にして、私に何の価値があると思うの?」
「人間は皆ジンの奴隷になるガ、お前は別でいられル。人間の一生なんテ、あっというまダ。どうせなら平穏に恵まれテ、楽しく生きたらどうダ?」
「すごい。まるで王妃様になるみたいな誘い文句ね」
 そうしたら、この人は王様か。ログズの姿で玉座につくジンを想像して、タミアは笑った。
 ふ、とうつむくように視線を外して、次の瞬間、彼の爪先が向いているのと反対の方向に向かって、床を蹴った。
 伸ばされた手が三つ編みを引っかけ、リボンが切れる。おイ、とも鳴き声ともつかない叫びを背中に聞きながら、タミアは走り、祭壇の杖を奪い取って、横なぎに振り回した。
「絶対、嫌よ」
 クリソコーラの眸を囲んでいる飴細工のような琥珀が、ジンの額を掠めたらしい。血の代わりに溢れた灰が目に入ったのか、彼はよろめいて足を止めた。
 顎を伝った細い滴が、床に赤い点を落とす。すり抜ける一瞬に、タミアもジンの爪で頬を切っていた。
「あなたを封じたこと、同じ人間として、魔法使いの端くれとして謝るわ。でも、あなたはもう正気じゃない」
「なニ……?」
「私はあなたの復讐の手伝いはしない。王妃様じゃなくて、魔法使いになりたいの。ジンを封じてその気になってる偽の魔法使いじゃなくて、あなたたちと心を交わせる、本当の魔法使いよ。そのためにも、今ログズを裏切ることはできない!」
 どうか、どうか。煮え滾るような怒りを冷まして。追いかけてくる溶岩のような憎しみから、私が逃げる時間を。
 タミアの心の声に、幾ばくかの水のジンが応えた。氷雨が降り注ぎ、顔を上げたジンを打ちつける。タミアは杖を抱えて、神殿の奥へと走った。立派な柱と柱の間は、外から見たときよりもずっと広い。
「返セ!」
 息を切らして走るタミアの足の間に、火の球が飛び込んできた。慌てて避ける脹脛を、熱風が掠めていく。陰に駆け込んで身を躱そうと思っていた眼前の柱が、火に包まれた。悲鳴を上げて方向を変え、崩落のひどい一角へと駆け込む。
 何度も魔法を試みたが、集中のままならない状態ではまともな作用は起こせなかった。せいぜい、ジンの足元に少量の水が絡みついたくらいだ。相手は火、そのものである。微々たる水分は、その足に触れるだけで蒸発した。
「餌にして封じテ、あれの魂の目の前で殺してやル」
 ぼそりと呟く。それを機に、何かの枷が爆発したらしい。ジンは子供のような声で、高らかに笑った。その両手に、天井を衝くほどの火柱が上がる。
 左右から食らったら、ひとたまりもない。タミアは咄嗟に逃げ場を探して、崩れて折り重なった柱に登った。足を滑らせ駆け上がる下で、溜まった砂塵と枯草が炙られ、ぼうと煙が上がる。隠れるように隣の柱へ飛び移り、身を低くして上ったが、すぐに追いかけてくる足音が聞こえた。
 杖を抱えているせいで、思ったように隠れられない。ばらばらとほどけてきた髪を振り払って、震える足に力を入れ、立ち上がる。
 拓けた坂の上に出た。それは崩れた天井だった。
 タミアは一瞬の躊躇の後、彼方に遺跡の別の棟へ繋がる回廊が残っているのを見つけて、そちらへ向かって駆け上がった。亀裂を飛び越え、降り積もった砂で足を滑らせながら走る。その目に回廊と天井とが、確かに繋がっているのが見えたとき。
 回廊が一瞬にして炎に包まれ、燃え上がった。


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