第2章


「必死だったってことよね。さっきの話に出てきた、空腹も同じ。自分の力じゃどうにもできないことを、それでもどうにかさせてくれって、我を忘れて願うときの声の大きさに、ジンは応えてくれるんだわ」
 そういうことよね、と。訊ねる代わりに振り返って笑めば、ログズも無言で唇に弧を描いた。暗く翳っていた胸の中に、灯りがひとつ燈されたような気持ちになる。
 感覚を忘れないうちに、もう一回、今度は一人で試してみよう。
 タミアは深呼吸をして、窓から腕を伸ばした。水路を見据える背中に、見ていないようでじっと息を潜めている視線を感じる。その期待さえ、今は追い風になる心地がした。
 逃げた魚はいつのまにか戻ってきている。先ほどと同じように、左右に揺れる尾びれを見つめながら、極限の空腹を想像した。じわりと、空気がかすかに動いたような気配を感じる。そのときだった。
「――え?」
 ぽう、と視線の上に、火が灯った。それはタミアの指先ではなく、宙の、離れたところに突然浮かび上がった。瞬きをするタミアの目の中で、揺らめく橙色が爆ぜる。
 隣へ飛び込んできた体に、ベッドが大きく跳ねて、タミアも浮き上がった。
「避けろ!」
 言葉に反応するよりも先に、ログズの手が肩を引き寄せる。悲鳴を上げかけたタミアの眼前に、先刻、空中に浮かんでいた火が迫ってきていた。見えない糸を駆け上がるように、一直線に、窓の中へ入りこもうとしてくる。
 息を呑んで固まっているタミアを奥へ押しやり、ログズは何を思ったか、自らの腕に炎を纏わせると、その腕を火の中へ突っ込んだ。
 ――ギャアア、と獣の哭くような声が響く。
「ジンか!」
 ログズがぎっと歯を食いしばって言う。まさか、自分が何か悪い呼び方をしたのだろうか。狼狽するタミアの前で、突如として襲いかかってきた火は、内側から焼き尽くされて悶えるように暴れ、窓ガラスをたたき割りながら燻っていき、やがて霧散した。
 窓枠に何か、固いものがぶつかって落ちる。
 ログズは追いかけるように、窓から身を乗り出して下を見た。
「何なんだ、今の……」
 熱さを振り払うように、ぱっぱと腕を振る。
 ベールのように火の覆いを作っていたからだろう。見たところ、小さな怪我は多少あるが、爛れるような火傷はしていない。安心したやら動揺が収まらないやら、ばくばくとうるさい心臓を押さえて、タミアはおそるおそる立ち上がった。
 もう炎の気配はないようだ。あの、と隣に立って声をかける。ログズは何かを確かめるように、下を見つめていた。
「んー……?」
 地面に、金の輪が落ちている。
 大きさはさほどなく、シンプルな円形をしていた。細かいところまでは見えないが、側面に赤い石がひとつ、埋まっているのは分かる。
「やっぱ、間違いねェな」
「なに?」
「あれ、俺の腕輪だ。お前と会う前に、服と一緒に取られたやつだ」
「……はい?」
 思いがけない発言に、タミアは顔を上げて、ログズを見た。何を言っているのか、どういうことなのか、頭の中がすぐについていかなかった。
 自分と会う前、ということは酒場での賭けの後、服やら杖やらと一緒に、謎の男に持っていかれたということだ。それがなぜ、今になって火の中から出てくるというのだ。
 ログズは反対に、それらのことから何か、真実を見出したようだった。険しかった横顔に、みるみる光が差していく。
「分かったぞ」
「何が……」
「ジンだ。ジンの仕業だ。道理で、なんか変だと……!」
 肩を掴んで揺さぶられ、タミアは聞き返す余裕もなく呆気に取られて頷いた。追うぞ、と窓枠に足をかけたログズは、我に返ったように「そうだ、杖ねェんだ」と言ってベッドを飛び越え、ドアに向かって駆けていく。
「ま、待ってよ!」
 どこへ、何を追いかけるというのだ。ついていこうと慌てて駆け出したとき、ログズの引こうとしたドアが、外側からノックされる音が聞こえた。
 ぴくりと、ログズの背中にかすかな緊張が走る。
「誰だ? 悪いけど今急いでて……」
「お急ぎのところ申し訳ありません。わたくし、この宿の従業員なのですが」
 細く開けたドアから聞こえてきた声は、夕方、下で宿泊の手続きをしたときに聞き覚えのある声だった。何者かと身構えていた力が、拍子抜けして緩む。ノックを耳にした瞬間、タミアは先刻の火が、今度はドアから入り込んでくるのではと想像してしまった。
 ログズも同じ感覚だったのだろう。気が抜けたように、あっさりとドアを開けた。廊下に、見覚えのある従業員が立っていた。その表情が申し訳なさと厳しさを半々にしているのを見て、タミアは嫌な予感に後ずさりする。
 ログズも何か、様子が違うと感じたのだろう。よう、と上げかけた手を所在なさげに下ろし、あー、と呻いた。
「実は先ほど、調理場で何か大きな物音を耳にしまして」
「へ、へえ……?」
「真上から聞こえた気がしましたが、二階は本日空室なので、このお部屋かと思いまして。お客様、大変申し訳ありませんが」
「ハイ」
「お部屋の中を、拝見してもよろしいでしょうか?」
 す、と。前で合わせていた手の片方を、従業員が上げてみせた。その手に、透明なガラスの欠片が握られている。
 タミアはハッとして、後ろを振り返った。粉々に砕けた窓から、夜風が吹き込んできて、カーテンを揺らしている。
 どうだ、ごまかせるか。
 だめだと思うわ。
 どうしてもか。
 どうしてもよ。
 視線を戻して、ログズと目を合わせた数秒の間に、そんな無言のやりとりが確かに行われたのを感じた。ワンピースの裾を持ち上げて、ガラス片を踏まないように注意しながら、そっと離れる。
 苦い表情で道を開けたログズの前を通り抜け、従業員がまっすぐに、変わり果てた窓のほうへと向かってきた。絶句して、足元のかけらを拾い上げ、しげしげと眺めている。何をどうしたらこんなに派手に割るんだと呆れかえっているのが、後ろ姿からも十分すぎるほど伝わってきた。
 忍び足で隣にやってきたログズが、身を屈めて囁いた。
「なァ、逃げるなら今のうちか?」
「馬鹿言わないでよ。覚悟しましょ」
 爪先を踏んで捕まえておきながら、タミアも声を潜めて答える。ああでも、何と説明したらいいだろう。そもそも、自分だって何が起こったか、全然分かっていないのに。
 やっぱり、逃げるなら今のうちか?
 タミアは痛みそうになる頭に浮かんだ考えを振り払って、ぐっと腹をくくった。


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