細いアーク灯の五本ごとに、サファイアを模った街灯が一本、規則的に並んでいる。片側を街灯の列に、もう片方をレストランや宿に囲まれた石畳の路を、曇天の光にも輝くほど磨き上げられた革靴が叩いた。
 右、左、わき目もふらずに、アルジェントは背中で一本に結んだ長い銀色の髪を揺らして、大股に歩いていく。彼を見かけた町の住民の中には、おやという目をする者もあったが、その足取りがあまりに速いので誰も声をかける隙がないといった顔で見送った。
 サフィール――その町の名をそのまま背負ったかのようなサファイア・ブルーのフロックコートをひるがえして、迷いのない足取りで、店と店の間の細い角を曲がる。淡く落ちていた日差しがとたんに遮られ、ひんやりとした空気が路地に満ちている。石畳の隙間から生える雑草を踏み分けながら尚も進むと、ぱっと路が拓けて、光が戻ってきた。
〈OPEN〉
 芝生と鉢植え、群生するセージやローズマリーに囲まれた家の、小さなドアにかかっている看板を確かめて、アルジェントは大股に歩み寄った。急いだからではない。足元にこまごまと伸びている草の芽を踏まないように、何もないところだけを踏んだためだ。もっとも、大切な草はきちんと庭の端で育てられているのだろうが――アルジェントには、雑草と薬草の見分けはつかない。
 よろけながら最後の一歩を踏み込み、転びそうになって、チッ、と舌打ちをした。ドアについた手で、そのままノックを三回して開ける。
「いらっしゃいませ」
 ドアを開けた瞬間、声を聞き取る聴覚よりも先に、嗅覚が独特のにおいを嗅ぎ取った。小さな店舗に満ちる、濃い植物のにおい。薬草を干したり、煎じたり、煮詰めたりしたにおいが幾重にも重なって、壁や天井に染みつき、窓を開け放っていても取れない〈薬屋〉のにおいを作り出している。
 そしてそれは、当然のごとく、この家の主にも染みついているわけであって。
「――アル」
 ぱたぱたと奥から慌ただしく出てきた店主の女は、アルジェントを見て何とも言い難い表情になった。けれど一瞬のことだ。すぐに、客に接するときの笑顔を取り戻して「いらっしゃい」と言い直す。
「昼のお祈りは終わったの?」
「ああ」
「そう、お疲れさま。今日も、いつもののど飴でいいのかしら」
 ハニーブロンドの緩やかに波打った髪をひるがえして、彼女はアルジェントが頷くが早いか、用意をしに奥へ戻ろうとする。
「シエラ」
 アルジェントは、短くその背中を呼び止めた。
「なあに? 蜂蜜の配分を変える?」
「いや、飴はいつものままでいいんだ。そうじゃなくて」
「だったら、作ったのがあるからすぐに出してこられるわ。待っていて」
 シエラはゆったりとした口調で言い残し、店の奥に消えていく。
 ……遮られたな。
 アルジェントは吐き出すように、あるいはここまで一心不乱に歩いてきた息を整えるように、長い溜息をついた。喉がちりっと痛んで、昼の祈りのあとにレモネードを飲まなかったことを思い出す。
 歌うたいにとって、喉は体のどこよりも大切な器官だ。ましてや商売道具というよりも、自分の場合、聖具に近い。石精の体だから、毎日朝に昼に夜、かはたれに黄昏にと歌わされてもめったに傷まないが、人間だったらとっくの昔にガタがきていたっておかしくない。
 もっとも、人間だったらサフィールの大聖堂の歌うたいなんて仕事に就けることもなかっただろう。アルジェントの声は、歌が持つ祈りの力を増幅させる。その特異な性質を買われて、大聖堂に歌を納める歌うたいとして生活している。
(……けど)
 歌、そのものに関してだけ言えば。
 考えに耽りながら、窓の外に広がる薬草畑を眺めてかすかな声で歌おうとしたとき、喉の痛みが唐突に咳に変わった。二度、三度、咳き込み始めると止まらずに続く。窓枠に手をついたとき、店の奥のドアが勢いよく開けられた。
「アル、大丈夫? 飲んで」
 駆け寄ってきたシエラの手から、試飲用の小さな紙コップに入った何かを受け取る。ブレンドティーだ。植物のことは相変わらず、何が入っているのか、何度飲まされても分からない。アルジェントは仄かな蜂蜜の味だけを理解した。それと、喉の違和感がなだらかに引いていく心地よさを。
「はあ……、助かった。すまない、今のはどれだ?」
「いらない、お代なんて。ちょうど奥に残ってたのを使っただけだもの」
 空の紙コップに手を伸ばして、シエラはそれより、飴は一瓶でいいのかしらと訊ねた。琥珀色の、うすい満月のような飴がたっぷり百は入った瓶だ。
 アルジェントはそれで足りると答えて、いつもの額を支払った。紙袋に入れるでしょう? シエラが訊ねる。頼む、と答える声に、もう痛みは伴わなかった。
「君が腕利きの薬師で助かる」
「あら、光栄だわ」
「でも――大聖堂に戻ってきてくれたら、もっと助かる」
 ぴたり、と、瓶をやわらかな紙で包むシエラの手が止まった。
 こういうときでないと、遮られて話せない。アルジェントは卑怯な方法だと自分で眉を寄せながらも、ためらわずに続けた。
「歌うたいが一人、神官に転職するので辞めるそうだ。また募集をかける」
「……そう」
「戻ってこい。あの頃とは変わったんだ。歌うたいはもう、俺以外にもたくさんいる。誰が何番かなんて、分からないくらいに」
 かつて、今から百年近く前。シエラはサフィールの大聖堂で祈る、歌うたいだった。彼女の歌声にはアルジェントと同じ、祈りを増幅させる力があって、その力で人々が歌う祈りの歌をまとめあげていた。
 アルジェントは、たまたまサフィールの文化に触れようと参加した祈りで、同じ才能を見出されて歌うたいになった。歌うたいが二人になったことを、シエラは喜んで歓迎した。アルジェントにとっても、それは奇跡のような転身に思えた。自身の才能が、シエラを追い越したことに気づくまでは。
「……たくさん、ね。きっとそうね」
「ああ。年代も様々だ。子供のように若い石精から、齢七百の者まで」
「でも、一番はあなたでしょう? アル」
 紙に包まれた瓶底が、木のテーブルを叩いてこつんと鳴る。振り返ったシエラの問いかけに、アルジェントは何も返すことができず、シエラは彼の嘘のつけない性格に少し、笑った。
「あなたは、飛び抜けているもの。圧倒的だった」
「シ……」
「私ね、あなたの才能が花開いたのを見たとき――神様のお使いなんじゃないかって、錯覚しそうになったのよ」
 アルジェントは、言葉なく首を横に振った。
 彼の才能がシエラを超えたとき、二人はそれでも構わなかった。シエラはアルジェントの能力を認め、アルジェントはまだ自分に能力以外のもの――例えば、歌そのものの技術やサフィールの人々との接し方、大聖堂内の作法――が欠けていることを自覚していたため、シエラの存在をそれまでと変わらず必要としていた。
 けれど、周囲は違った。二人しかいない歌うたいのうち、一人が片方を追い越したと聞き、神官の中には「アルジェントこそが本物だったのでは」と言い出す者が現れた。これには後からやってきたアルジェントのほうが慌てた。
 彼は事態の収拾に奔走したが、意見はやがてぽつりぽつりとながら勢いを増していき、シエラは偽物の烙印を押されて、逃げるように大聖堂の歌うたいを辞めた。そうして身を隠すように、大聖堂から離れ、町の中心部を外れた、この路地裏に店を構えて薬師になった。
 取り残されたアルジェントの周りには、いつしか多くの歌うたいが集まっていた。皆、彼と同じ才能を大なり小なり持つ石精たちで、誰が何番かなんて気にせず、祈りの力を少しでも大きくできるならと純粋な自信を持って貢献している。
 何があったのか。
 時間が経ったのだ。気づけばシエラがいなくなってから、百年が経とうとしていた。月日はひとの感性を変えてゆく。あの頃、本物はアルジェント一人だったが、今では誰もが本物だ。アルジェントがその中で、頭一つ抜け出ているというだけで。
 でも。
「私は、もう今の生活が気に入ってしまったから。歌うたいに戻ることはないわ……何度、言われても」
 彼女の時間だけは、あのときから動いていない。
 微笑んだシエラを見て眉間にしわを寄せ、アルジェントは腕を組んだ。もう何度、こうして彼女の針を動かそうと試みているだろう。祈りの合間に薬を買いに来たり、のど飴を買いに来たりしては、いい加減に警戒心を隠そうともしなくなってきたシエラを相手に、同じような話を両手で数えきれないくらい繰り返している。
 この店は、まるで彼女の檻だ。草木と薬草と木の壁に囲まれた、外界と彼女を隔てる、あたたかな檻。
 だから、植物は嫌いなんだと舌打ちをしたい衝動を堪える。この生活に馴染んできているのも本当のことだろう。でも。
「俺は、君の歌が好きだったんだ」
「……」
「初めて聴いたとき――君の歌声は、祈りの歌は、どこまでも澄んで特別なものに聴こえた。信心深いサフィールの人間でない俺にも、思わず同じ歌を口ずさませるほどに。君の歌の持つ人心の牽引力は、後にも先にも経験のないものだった」
 淡々と、アルジェントは語りかける。
 情緒的にゆったりと、敬意や心の底を囁けるような性質ではない。たどたどしくなって笑ってごまかされないように、言葉に詰まって遮る隙を与えないようにと思えば、必然的に問い詰めるような声色になる己が不甲斐ない。
「戻ってこい、シエラ。君はこんなところで、人間のふりをして隠れ暮らすような者じゃない。一人でこっそり、薬を煮詰めながら火の音に隠れて歌ってなんかいないで――光の下で、昔みたいに堂々と歌え」
 歌声に、どれほどの力があれど。アルジェントの語る声に、特別な力は何もない。
 シエラはのど飴をいれた袋の口を折って、テープで留めた。
「隠れているつもりなんて、ないわ」
「……シエラ」
「ただ、今はもう戻る気はないって、そう思っているだけ」
 だからね、と。振り返り、アイスブルーの瞳をにわかに細めて、アルジェントを見上げる。
「あなたも、もう私のことは忘れていいのよ」
 揺らぐ、揺らぐ。その眼差しに、初めて歌うたいとして出会ったときの「よろしくね」と手を差し伸べた彼女の姿がよみがえり、アルジェントは何も言わずに紙袋を受け取った。忘れていいと、それを言われるのももはやいつものことだ。返事をしないのもいつものこと。だからアルジェントは、この飴がなくなる頃に、また店を訪れる。
「気をつけて」
 見送りに立ったシエラは、アルジェントが庭を横切って路地に片足を踏み入れると、その背中を最後まで見送ることはなくドアを閉めた。細い路だ。建物に挟まれた雑草だらけの路地を、紙袋を抱えて、アルジェントは歩き出す。
 黄昏時の祈りへ向けて、サフィールの町はゆるやかに動いている。
 雲の隙間から、セロファンのような薄い日が注いだ。祈りは今日も、巡っている。



〈わが歌うたいに〉



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