フロウ・ライトT

「きみはまるで追憶だな、アヲ」
 少年にそれを言ったのは、水平線まで日に焼けた晩夏のことだった。彼は窟の入り口に立ち、素足で黒々とした岩を跨いで、沖を見つめていた。薄い蝋紙のような茶色の髪が潮風にひるがえって、そのとき初めて、彼の年齢を知らないことに思い至ったのを今でも忘れられない。
「そう? ありがと、せんせい」
 数多の意味を内包した私の言葉を追及することもなく、彼は笑った。
 その目が、蛍石へと変わる一日前の話だ。



 極論、電波の悪いところへ行けるならどこでもよかった。
 山でも海でも地下でも離島でも、一ヶ月くらいの間だけ、鳴り止まない電話の音から切り離してくれるところならどこでも。現代社会は利便性が過ぎて、時々気が狂いそうになる。足を運ばなくても話ができる機械のおかげで、昼夜を問わず進捗を問い質される騒々しさといったら、赤ん坊を両脇に抱えて仕事をしているようであるし、顔が見えないというだけで、人は対面すれば無意識に覚えている歳の差や距離感による遠慮を忘れ、三割増しに言いたいことを言う。
 かくして私はしばしの間、逃げることにした。構想は必ずや練って帰るから探さないでくれと、未明に送ったメールの返事があったかどうかは知らない。始発に乗って東京を出て、手当たり次第に電車を乗り継いだ。特急にも乗った。新幹線にも乗って、おかげで朝日が昇りきるころには見知らぬ海辺に辿り着いていた。
 携帯を見て、満足げな微笑が漏れる。
 期待通り、ここはろくな電波など届かない。駅までは十分に通信が届いていたが、朝市に荷を運ぶトラックの背中に乗り、山間の道を走る間に都会とはだいぶかけ離れた場所へやってきた。
 宿があるのはここで最後だよ、と降ろされた場所で、民家しかないじゃないかと辺りを見回す私を見かねて、トラックの男が民宿に声をかけてくれた。古い民家だと思っていた家の一軒がそれだった。
 ――旅の人なんだよ、泊めてくれんかね。
 二階の硝子障子から寝ぼけ眼で顔を出した老人に、男が私を指さして言う。老人の隣に、彼の妻らしき人が顔を覗かせた。あれよ、と私を見て頷き、ひとまず食事に上がりなさいというので、朝食をご馳走になった。
「したっけ、なんで、こんなところまで」
「遠くへ行きたかったんです」
「はあ」
「でも、山でサバイバルできるような人間ではありませんし、地下はこの時期、ゲリラ豪雨が危ない。離島は船が来るまでに、迎えが来てしまうかもしれないし。海が一番無難かつ近そうだったので」
「味噌汁のおかわり、あるよ」
 老婦は私の話に、早々に飽きたらしい。差し出された皺だらけの手に、腹は減っていなかったが、黙って空の椀を渡した。豆腐とわかめの味噌汁が注がれる。白米と硬いみりん干しを合わせてかきこんだ。
「何年ぶりのお客さんだか、分からんくらいだっけ。片づけないと、部屋にものが置いてあるき、悪いんだが夕方まで散歩でもしててくれっか」
 腹ごしらえをさせられた理由が、ようやく分かった。
 夫妻はそもそも、まだ民宿を経営しているつもりだったのだろうか。今となってはそれも微妙なところだ、と私は思う。けれど他に行くあてもなく、寝泊りさえできれば構わないのでとたどたどしく伝えて、一応は泊めてもらえる運びとなった。日暮れまでの暇をつぶしに、外へ出るとすぐ、目の前が海である。
 私は財布とペンだけを持って、海へ繰り出した。借りてきたビーチサンダルは、最後に泊まった客の忘れ物だという。革靴から古い砂のこびりついたそれに履き替え、潮風に湿った砂の上を歩いた。貝やガラスや、藻が絡まったものが埋まっている。瓶の口が覗いているのを見つけて引っ張ってみると、中にまだ海水がたまっていた。
 半透明の海老が泳いでいる。
 私は思いがけない拾いものを、まじまじと見つめた。淡い膚の奥に、血管が透けている。私の手の中で水が揺られるたび、前後に行ったり来たりして、こんな様では波打ち際などで放したら砂に打ち上げられてしまうだろう。
 少し行ったところに、岩場が見えた。潮だまりならば、この小さな生き物もそう呆気なくは死ぬまい。
「お前、そんな弱々しい体に、運だけは潰れるほど背負ってきたような奴だね。たまたま入った瓶が、海水ごと砂に埋まって、たまたま暇を持て余した人間に拾われるんだから」
 私はもしかしたら、海老がうらやましかったのかもしれなかった。肖りたくて、素直には頼めなくて、つい幸運をからかうような口調になった。海老は私の目の高さに持ち上げられて、せわしなく手足を動かしている。その粒のような目に、私は生き物どころか、ひとつの物体としてさえ認識されているのかどうか。
「こんなに小さいくせに、数億倍は広い場所で生きていかなきゃならないんだから、必死なのも当たり前か。お前には、私が何者かなんて考えている暇はないんだな」
 剥き出しの命を手にしている心地がして、私はせめて、瓶の中の海水が茹だる前にこの海老を放してやろうという気になった。砂地を駆けたのなど、何年振りだろう。つまずいて転んではひとたまりもないということに思い至るころには、狭い海岸を走りきり、岩場に着いていた。
 近くで見ると、しばらくはほんの一握りくらいの窪みしかなく、指を沈めてもぬるい風呂のような温度の水溜りばかりである。私は瓶を片手に、慎重に岩場を歩き始めた。海水浴など子供の頃以来だ。覚束ない足元を、滑るビーチサンダルがさらに心許なくさせるが、これを脱いだら脱いだで、荒々しく削れた岩に足の裏が痛くなってろくに歩けまい。
「あすこの陰と、どっちがいい」
 近辺で一番高く見えた岩に登った私は、返事をするはずもないのを承知で、海老に問いかけた。真下にそれなりの大きさの潮だまりが広がっている。おそらく満潮時には全体が海に浸かる規模だろう。小さな生き物が一生を過ごすには、適度な広さに見える。もうひとつは、さらに海のほうへと進んだところで、その先は岸壁というこの海岸の最東端だった。崖の上は山になっている。よく、山から海へ繋がるところはプランクトンが豊富で小型の生物の楽園だとか、そんな話を聞く。
 私は仕方なし、という気分になって、勝手な憶測だが向こうのほうが住みやすいかもしれないと、崖に向かって足を進めた。夕方まで余るほどの時間があった。暇つぶしにちょうどいい口実だったのかもしれない。岩場は海が近くなるにつれて、平面が増え、歩きやすくなだらかになった。慣れも手伝って、案外すぐに目的地へ辿り着く。
「さて、この辺りで――……」
 崖と一続きになった、立派な黒岩の麓で。振り返った私は、はたと息を呑んだ。
 巨大な岩は波に削られて、中が空洞化し、窟になっていた。内部は中心が水に侵され、左右がそれぞれに、人のすれ違えるくらいの幅を残してくり抜かれている。
 その片側に、一人の少年が座っていたのだ。
 ぼちゃん、と何かが水に落ちて、ごぼごぼと空気の抜ける音がした。少年は静かに首を傾げ、私を見て、ゆるやかに笑った。
「いいの? 落ちたよ」
「え……」
「瓶。中に何か、入ってたみたいだったけど」
 高く、鳥のようにのぼって、空に触れるところでわずかに掠れる。変声期の始まりにつま先だけ浸した、見た目に抗わない年頃の声だった。子供の頃に叔母がクッキーを包んでくれた、蝋紙のような薄い茶の髪をしている。
 血管の透けるように白いその肌が、一瞬、うす緑に照り返した気がして、私は自分の手からなくなったものにハッと気がついた。
「あ……っ!」
 岩場へ打ち寄せる、水の底を覗き込む。ここはもう潮だまりではない。立派に海だ。濃紺の波間に、ゆらゆらと瓶の口が沈んでいくのが見えた。しかしすぐに見えなくなる。腕を伸ばしても、もう届くまい。
「大切なものだった?」
「いや、そういうわけではないんだ。むしろ、ここに放すために持ってきただけだから」
「なんだ、じゃあ海が呼んだんだね」
「海が?」
「あなたが躊躇わないように、さっさと取り返したんだ」
 少年が、気づくとすぐ近くに立っていた。躊躇わないように。その言葉に、私は彼が何か、私が大切なものを置き去りにきたのだと誤解しているのではないかと思ったが、それ以上に何も追及がされないことに驚いてしまった。十を三、四、すぎたくらいだろうか。私が彼くらいの歳のころには、人の秘密や事情ほど気になるものはなかった気がするが、少年は一切私の手放したものに関して問いかける気配を見せない。
「きみは」
「うん?」
「この辺りの、子供なのか?」
 むしろ、先に踏み込んだのは私のほうだった。
「そうだよ」
 少年は短く答える。にこりと笑うと、張りのある頬にまた一筋、青みが差したような気がしたが、私はそれを高すぎる太陽のせいだと認識した。プリズムの光るほどに、眩しい空だった。少年は思い出したように「アヲ」という。
「アヲ?」
「ぼくの名前だ」
「成る程、海町らしい名前をしてる」
 水平線を日夜見つめる、そんな町の暮らしが垣間見える名前だ。我が子になんと名前をつけようか、きらりと光るものを思い浮かべたとき、海が真っ先に浮かんできたのだろう。両親は漁師だろうか。ああでも、漁船に乗って育った子供には見えない白さだ。水中写真家か何かであってもいい。
 私は無意識に、名前というたった一つの情報から少年を中心とした物語を想像していた。そんな自分に気づいて、ふっと笑いを漏らした。膝についた砂をはらって立ち上がる。少年は私の肩のあたりまでしか背がない。
「そこ、滑りやすいから」
「ああ、本当だ。ありがとう」
「どういたしまして」
「あまり、海には縁のない場所から来たんだ。海だけじゃない。静かなものとは大概、縁のない場所から来て、ついさっきここに着いた」
 とん、とん、と軽やかに岩場を渡っていく少年に、私はいつしか自分から、身の上話の序章みたいな話題を振っていた。へえ。少年は少し興味を引かれたように振り返る。薄墨のような目には、芯まで微笑みが板についていた。
「静かでしょ、ここ」
「ああ、そうだな。私の理想の場所に近いと思う」
「何の理想?」
「逃避だ。おそらく、ほんの一時期の」
 死に場所、とでも答えそうな雰囲気のある会話だったが、残念ながら私はそれほど切羽詰まった感傷を持ってここにいるわけでもない。物語を作る人間ではあるが、私自身にそういった物語性はなく、どちらかというと空想癖をただ少し大切に育ててきた現実主義者で、ものを書くのは精神のためではなく、一生食う寝る暮らすためである。
 私が笑ったので、少年はふ、とつられたように笑い返した。それは私が口にしなかった、「大した理由はない、ただのつまらない人間である」という主張を十分に察した、慈愛のような笑みであった。
「疲れちゃったんだ」
「有体にいえばそうなのかもしれない」
「変わった話し方。ちょっと遠回しじゃない?」
「職業柄だろうな。結論だとか名詞だとか、種明かしを会話の最後に持ってきたがる癖がある。作家なんだ」
 少年は私の言葉に、納得したように首肯した。疲れた。そうか、これを人は疲れたというのか。何十年と化石のように言葉の海に埋もれてきて、ずいぶん単純な表現を忘れていたものだ。私は彼に気づかされた。漁師の子供だか、水中写真家の子供だか、はたまたどこの家の子だかも知らない、このアヲに。
 不思議と、悪い気分ではなかった。
「目の覚めるようなアヲ」
「ん?」
「いや、何でもない。きみはよく、ここに来るのか? あまり地元の人間もいないようだが」
「海と遊ぶような年頃の子供、ほとんどいないからね。ぼくはいつもいるけど」
 あ、まただ。耳の奥に揺れる既知感に、私は先刻のことを思い出した。少年は時々、海を意思のあるひとつの生き物のように言う。指摘して、感性が損なわれるとつまらないので黙っておく。窟に入る彼の後を追って、私もなんとなく、日陰に踏み込んだ。
「涼しいでしょ。気に入ってるんだ」
「秘密基地みたいなものか」
「そうだよ。入ってきたのはあなたが初めて」
「あれ、そうだったのか。悪いことをした」
「あっはは。謝るんだ、いい人だね。ぼくの住処だけど、特別に座らせてあげる」
 少年は私の中の何かしらを、許容する気分になったようだった。かんばせから少しだけ、他人行儀な距離感が消える。こっち、と呼ばれるままに着いていくと、天井が広くくり抜かれていた。空は見えないが、想像よりも遥かに解放感がある。広々とした窟だ。
「この辺は、大潮のときくらいしか水があがってこないから」
「ああ」
「乾いてる。少し休んだら。足の甲、真っ赤だ」
 指摘されて、私は自分の足を見下ろした。古びて硬くなったビーチサンダルの鼻緒が、運動不足の柔らかい皮膚を擦って、赤く腫れていた。岩場を歩いているあいだ、ぼんやりと感じていた痛みはこれだったのか、と愕然とする。
「帰りは、もう少し歩きやすいところを通りなよ。案内してあげるから」
「いや、大丈夫だ。きみにそこまで世話をかけるわけにはいかないよ」
「ばかだね。それってどうせ、ぼくが子供だからだろ」
「……は」
「ぼくから見れば、海辺を歩き慣れないあなたのほうがよっぽどひ弱だよ。せんせい」
 軽んじたかと思えば、次にはいたずらに持ち上げてみせる。狐につままれたような気持ちで押し黙る私の足に、少年は握ったこぶしを当てた。ひやりと柔らかい冷たさが触れて、人肌とは別のその感触に、驚いてまばたきをする。
 彼は笑って、手を緩めた。隙間から覗いたのは、綺麗な八面体の透き通るグリーンだった。
「蛍石か?」
「正解」
 うなずいて、肌の温度にぬるんだ面を別の面と入れ替える。
「おまじないだよ。怪我をしたときやどこか痛いときに、よくやるんだ。ほら、こうやって手で覆うと魔法みたいに光る。大丈夫になるような気がするでしょ」
 少年はそう言って私に、手の中でぼうっと光を放つ蛍石が見えるよう、角度を変えてみせた。日光に当ててあったのだろう。確かに、仄かな光は不思議な力を秘めていそうな気配がした。
「ありがとう、世話になる」
 私は帰り道を送ってくれるという、彼の言葉に甘えることにした。



 夫妻が私に貸し与えた部屋は、八畳一間の二階の角部屋だった。東南に向かっていて、東に雨戸、南に顔を出せる程度の小窓があり、一日を通して日差しが注ぐ。排水溝のような音を立てるが、クーラーがついていた。何年ぶりに仕事をしているのだろう。リモコンを向けると、まだ生きていたことを確かめるようにのろのろと口を開ける。
「あんたさん、起きたかいね」
 部屋のすぐ傍には階下へ繋がる階段があり、夫人はよく下から私を「あんたさん」と呼んだ。名前を訊かれたのは宿泊の手続きをするときだけで、客が私一人だからだろう、旦那も私を「お前さん」と呼ぶ。
 布団から起き上がって這うように階段の上へ行くと、いかにも手縫いのブラウスを着た夫人が下にいて、手招きをした。
「もう昼ごはんだ。顔洗っといで」

 一帯の町の名は、木船町というようだった。電柱の褪せた標識がそう記している。木船に乗って鯨を獲っていた町だからだそうだ。俺の兄貴は夏の海の底にいる、ザトウクジラの尾っぽで死んで、と、風呂上りに台所へいくと晩酌を終えた旦那がよく語った。漁で怪我を負って満足に働けなくなった父を助け、二人で一人前の仕事をするため、小学校を出てすぐに海へついていくようになったそうだ。骨も見つかっていない。
「あんた、ほれ」
「ああ」
「しっかり持っとくれ。離すよ」
 旦那は日が昇っている間は、ぼんやりして半分別の世界にいっているような印象だ。夕方になると幾分かすっきりして新聞を読んだりするが、昼間はほとんど夫人が世話を焼いている。来て一週間くらいで、私は時々買い物へ行くようになった。散歩と煙草を買うついでなのだが、一軒しかないスーパーへ行って、豆腐だの玉子だの、夫人の代わりに重いものを少し買って帰る。
 今日も午後は出かけるから、何か用事はあるかと訊ねると、夫人は少し考えて言った。
「ルー買ってきてくれっか」
「構いませんけど、カレーなんてお好きなんですか」
「昔はよく作ったき。孫が住んでた頃はね」
 じゃがいもはあるからいいよ、ああでも人参がないんだ。割烹着を脱ぎながら独り言のように言う夫人に、じゃあそれも、と私は請け負う。野菜はスーパーではなく、その二軒隣の八百屋で買ってほしいと金を渡された。子供のおつかいみたいだ、と口には出さず、昼飯のそうめんをつゆに浸す。
「あんたさん、海へ行くんだろ?」
「ああ、はい。ご存知で?」
「買い物は任せたからね。夕方までには帰ってきとくれ」
 台所で味噌汁をよそりながら、夫人はけっけと笑った。



「へえ、じゃあせんせいって、今でも手書きで小説を書くひとなんだ」
 ざん、と遠くで波の立つ音が聞こえる。窟の天井でゆっくりと反響し、尾を引いて消えた。
 快晴の午後だ、沖に白い帆をなびかせた漁船の点在しているのが、ここへ来る道すがら見えた。そうだ、と頷きながら私は、その光景を原稿用紙のます目に埋め込むならば、どんな表現を用いようかと考えている。眺めているのは誰で、どんな生きざまで、その風景に何を思うのか。私の物語はいつもそんなふうに、印象深いひとつのシーンを起点として、背景を組み立てていくところから始まる。
「だからなのか、中指がすごいたこになってる。触っていい?」
「ああ」
「押したら痛い?」
「いや、別に平気だ。もう皮が硬いんだろう」
 窟の少年アヲは、面白そうに私の指をいじった。ペンだこの他はいかにものっぺりとした、何もしていないことが分かる指である。私は小説を書くこと以外に、仕事もないが、趣味もなかった。楽器もしないし料理もしない、外へ出かけることへの執着も薄い。利き手の中指だけがごつごつと岩のように硬く、ねじれている。
 というか、きみ。私はしばらく黙って見下ろしていたが、とうとう気になってアヲに呼びかけた。
「そんなに蛍石を持っていたのか」
「ああ、これ?」
「ずいぶんな収集家だな。全部で六つか?」
 私の指を包んでいる手を開かせると、片手に二つ、もう片方に四つ。大きさに多少の違いはあれど、綺麗な八面体をした、どれも同じような緑色の蛍石が握られている。
 初めて会ったとき、赤く擦れた足に蛍石を当てて笑ったこの少年は、あれからというもの私の毎日の話し相手になっていた。大体いつも窟の周辺にいる。年頃の友達が少ないのか、一人を持て余しているようで、彼は私というイレギュラーを結構歓迎してくれた。
「六つじゃないよ、ほら」
「え」
「あとひいふうみい、八つはあるか」
 私としても、結構我が侭なもので――話し相手が本当に誰ひとりいない状況には、心細さを覚えるのだ。民宿の夫妻は良くしてくれたが、いかんせん夫人は込み入った話を聞く耳を持たないし、旦那は日が暮れるまで上の空である。アヲは若く、少年らしくしゃんとしていて、打てば響き、時にはこちらがあっとよろけるような鋭い会話をする。この町での、私にとっての最良の話し相手は彼だった。否、もしかしたらこんなふうに一人の人間と濃く会話をしているのは、学生のころ以来かもしれない。
 私はううん、と眉を顰めて、そのアヲがポケットから出して、岩の上に転がした大量の結晶を見下ろした。
「きみ、わりといい大人になるだろうな」
「本当?」
「いい性格とか、いい度胸と同じ意味の、だがね。これだけひとつのものを収集できるのは、普通の神経じゃない。いいんじゃないか、ちょっとくらい常軌を逸していても、悪事に触れない逸脱は魅力のうちってやつだ」
 アヲは楽しそうに笑っている。天井から滴が落ちてきて、ぴしゃん、と蛍石のひとつを弾いた。私は結晶を拾い集めて、両手にのせてみた。重なり合って互いの陰になったところが、仄かに光る。
「生き物みたいな石だ」
「褒めてる?」
「どこから買い集めたのか知らないが、しまっておきなさい。そんなに硬度の高い石じゃないだろう。岩の上で転がしたら、傷になりそうだ」
 質問には答えずに両手を差し出した私から、アヲは無造作に、掴みとるように蛍石を受け取った。水兵のような紺色のハーフパンツのポケットに、ばらばらとしまう。
 その手から、ひと欠片が転がり落ちた。
 岩に当たり、跳ね、水際へ向かって一直線に弧を描く。あ、とアヲの声が響いて、その腕が蛍石を掴もうと伸びた。私の体が、反射的に動いたのと同時だった。
 アヲの腕ではわずかに足りなかった距離を、私の腕は満たすことができた。緑の結晶は水に触れる寸前で、私の手の中に納まった。でも、次の瞬間だった。
「せんせい!」
 ずるりと、膝が岩を滑った。背中を変に捻ったような痛みが走る。運動不足を十二単のごとく幾重にもかさねた私の体は、私が思うよりよほど、融通が利かなくなっていたらしい。落ちる。顔面が水面に迫っていくが、さてここの水深は如何ほどだろうか?
 呼吸も忘れた私の腕を引いて戻したのは、少年の細い腕だった。
 どたんと岩場に引き戻されて、背中を打ちつけた私に引っ張られ、アヲもすぐ傍に身を投げ出す。
「いって……」
「すまない。大丈夫――」
 私は、慌てて起きた。片手にはまだ蛍石をしっかりと握っていた。とっさにもう片方の手を、彼に差し伸べた。
 だが、怪我はないかと視線を巡らせた私は、その手を剥製のように固まらせた。
「あ」
 アヲが私の目線を追って、ばっと身を起こす。
 それから数秒、沈黙があったが、彼はばつが悪そうに口を開いた。
「見た?」
「……見た」
「だよね、顔に書いてあるもん」
 素直に答えた私に、アヲはやれやれと言いたげに首を振った。
 私は、まだ目が離せなかった。彼の手が整えている、めくれた白いシャツ。

 その下の白い腹が、ほとんど半分、うす緑の結晶に覆われていた。


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