リーベU

 安物にされるのが嫌なのだと、俺が彼女をここに置いていた理由はもうすぐなくなる。そうなったら、彼女は元通りの、彼女の生活に戻るだろう。あの灯台の光のように、夜の群青を纏って、はらりはらり。
「なんだか怖くて、自分では手探りで薬を塗って、見ていなかったんです」
「殴られたことを思い出すのか?」
「いえ、そういう恐怖ではないのですけれど」
 藤色の髪を手櫛で梳いて、リーベは笑った。
「傷だらけで、ろくなお金も取らせてもらえない姿になったとき、もしかしたらこれが私の本当の姿、本当の価値なんじゃないかしらって思いました。今まで何人と、どんなふうに過ごしてきたか、考えてもちっとも思い出せないの。星の数ほどあって、頭も体も、その一つ一つをそれぞれになんて覚えていないから」
「リーベ……」
「真夜中の、何かどろどろした湿気と暗闇の、集合体のような。そんなものが、私の中身なのかもしれないと思ったんです。そう思ったら、ぼろぼろになった姿も相応じゃないかと思えて――……あのとき、五千で私を買うといった人が、とても正しく見えたわ」
 薄紅の、遊ぶように言葉を紡ぐ唇が、弧を描いたままふっと閉ざされていく。俺はベッドから立ち上がって、窓辺に椅子を置いて腰かけている彼女の身を、引き寄せるように抱いた。
「あんたは綺麗だよ。そんな暗くて曖昧な、泥みたいなものじゃない」
「本当に? 本当に、そう思ってくださる?」
「ああ」
「だったら、キスして。エリーゼじゃなく、私に」
 驚きに目をみはる。抱き合っているので、彼女には見えない。
 滑らかな絹の下、生命の熱を放つ肩に触れてみる。かすかに震えていた。それを隠そうとして、ひどく強張っていた。
 顔を見れば、彼女はすでに目を閉じて待っている。頬に灯台の光が走った。
(俺は、別に)
 キスなんて、したいわけじゃない。
 そう思いながら触れた唇の、ひっそりと冷たい柔らかさに目を閉じた。瞼の裏を交差する、暗闇と灯台の光。世界のすべてから分断されて、無の中で彼女とだけ繋がっているような、そんな一瞬だった。
 嗚呼、これじゃまるで。
(本当の、恋人(リーベ)じゃないか)
 押しつぶされた胸が燻る。唇を離した後になって、心臓が俄かに騒ぐのを感じた。「エリーゼ」ではない。俺は「彼女」にキスをした。彼女が自ら、そう言ったように。口づけた後でも、彼女は俺の目に充分美しいままで、娼婦ではなくリーベで、欲情の対象にはなりえないはずの少女で。
 それなのに、なぜ。
「アレンさん?」
 どうして、もう一度と思わずにいられなかったのだろう。
 驚いたように身を竦めたリーベの髪を梳き、肩を押さえ、問いかける唇を塞いだとき、噛みつかれても構わないと思った。抵抗されて、例え舌を千切られようとも、すべては些細な問題だと言い捨てられそうなほど。彼女が大人しく目を閉じたときには、歓喜に身が震えた。
 は、と潤んだ息を吐き出す。瞼を開いた目に、忘れかけていた灯台の光が眩しい。うつむいて、人差し指で唇をなぞり――リーベはそっと、握っていた俺のシャツを離した。
「まさか……」
「リーベ?」
「ふふ、まさか、本当にしてくださるなんて」
 上気した頬を隠しもせず、顔を上げて笑う。あはは、と艶っぽさを残した声色に似合わない笑い方をした彼女に唖然として、俺はもしやと思い、顔を熱くした。
「あんた、からかったな」
「やだ、そんなんじゃないわ」
「じゃあ何だっていうんだよ」
「甘えたの」
「甘、……はっ? え?」
 恥ずかしさとやり場のなさで、喉を上ってきていた怒りが霧散する。今度こそ、呆気に取られた顔を晒したと思うが、リーベは笑わなかった。申し訳なさそうに眉を一瞬下げて、それから強く抱きついてきた。
 長い髪が、染みついた石鹸の香りを放つ。ジャスミンの香水なんて、この部屋にはない。
「……ありがとう」
 絹のシャツを与えたときよりも、手当てをしたときよりも。はにかむような、純粋に嬉しそうな声音で彼女は言った。頭と心臓と耳は、確かに繋がっているのだと悟った。たったそれだけの言葉で、思考は枷をなくし、心臓の叫びだけが体を支配する。
 抱き返したい。切にそう思った。ただ一縷の理性だけが、そうしてしまったら何かが元には戻らなくなるのではないかと訴えていて、躊躇いを生んだ。
「さあ、もう休みましょう。お疲れでしょう?」
 リーベが手を離したのは、俺がその躊躇いと決着をつける、ほんの一瞬前のことだった。ああ、と答える声の裏で、ほっとしているのか後悔しているのか、自分でもよく判断がつかない。
 今はもう休もう、と思った。朝になればまた気持ちが落ち着いて、リーベも今夜のことは今夜のこととして、何事もなかったように笑うのではないかと。
 蝋燭の火を揉み消して、ベッドに潜り込む。いつものように背中を抱こうとした腕を、カーテンを閉めたリーベが掴んで、そっと押し返した。
「どうした?」
「今日は、私がアレンさんを眠らせてあげる」
「え?」
「いつも私より後に眠って、私より先に起きるでしょう。たまには、寝顔を見せてくれません? 私に抱きしめさせて」
 言うが早いか、細い腕を滑り込ませて頭を抱き寄せられる。心臓の音を聞かせる温かな胸が触れて、おい、と諌めたが彼女は離そうとしなかった。額にかかる上機嫌な吐息に、もしかしたらこれはこれで、まだ甘えている途中なのかと思い至る。
 子供のように抱かれる歳でも、柄でもないが。ままごとの母のように、彼女があまりに優しく包んでくれようとするので、少々の首の痛さには目を瞑って休むことにした。
「おやすみなさい、アレンさん」
「……ん? ああ……」
「あのね、ゆっくり眠ってくださいね。それで今から言うことは、どうか忘れてしまって」
 醒めたつもりでいた酔いが、仄かに回ってくる。沈み込むようなまどろみの中で、リーベの声は幻燈のように滲み、一つ一つが暗闇にばらけて、知らない言葉を聞いている心地だった。
「私、本当の名前でキスしたのって、初めてでしたの」
 おやすみなさいと、呪文のように彼女は囁く。繰り返し。理解して、返事をするよりも先に、意識は眠りの奥へ誘い込まれた。

 翌日、昼過ぎに目を覚ました俺は、リーベが買ってきたパンとスープで食事を済ませ、いつものようにシャワーを浴びて夕方から出かけた。彼女はガーゼを外していたが、俺たちは相変わらず、短く、ただの確認のような言葉で今夜の約束を繋いだ。
 昨晩の一件には互いに触れなかったが、今朝になって、改めて顔を合わせて思ったことは、想像したような行き場のない後悔はこれといって湧いていない、ということだ。もっと顔を合わせにくく感じたり、昨夜はどうかしていたと自分に呆れたりするだろうと思っていた。
 どうということもなかった。むしろごく当たり前のことを済ませたような、地に足がついたような感覚すら今は覚えている。
 まるで、ずっとやり遂げていなかったことを果たした後のようだ。理性の戸惑いと裏腹に心は落ち着いていて、昨日までは部屋を出るときに毎日思っていたはずの「今夜、帰ったら彼女はいなくなっているかもしれない」ということさえ、あまり強く思わなかった。リーベは帰ってくるだろう。そして俺は、また明日も彼女を買う。
 傷が綺麗になくなっても、恐らくずっと。もはや値段など関係ない。彼女を誰のものでもなく、誰のものにもなる日々に返すことが想像しきれなかった。
 一日、また一日と彼女を手に入れ続けるだろう。いつまでという終わりも見えないが、今はそうとしか考えられないのだから仕方ない。幸い、餌ならハンザには溢れている。小さな獲物から大きな獲物まで、狩り尽くせないほど。
(ああ、また)
 手配書に載っていた顔を見つけて、銃剣を手に握りしめる。安全装置はつけたまま。撃ってしまっては大した額の残らない、これは小物だ。無傷で捕らえれば、一週間の宿代くらいにはなる。
 月が翳るのを見計らって、俺はその背に向かって駆け出した。くぐもった呻きと、塩辛い夜の風に途絶える煙草の匂い。今夜の仕事は早く終わる。確信と同時に、唇の端が上がったのを感じた。
 帰りたい。リーベの待つ、窓とベッドとテーブルのほかは何もない、あの部屋へ。

 消えかけの街灯がじりじりと、掠れた明滅を繰り返している。
 ギルドからの帰り道、新しい手配書数枚を片手に銃剣を担いで歩く路地は、満月に照らされて、ついに街灯が沈黙しても明るかった。凪いだ海の、潮の香りがここまで届いている。灯台の天辺が、建ち並ぶ古い宿屋の屋根の上に覗いた。ディックの酒場は混んでいるだろうかと、部屋へ上がる前に一杯、何を飲もうか考えながら最後の角を曲がる。
「……?」
 ふと、鼻先を潮風と別の匂いが衝いた。なんだろう、と深く息を吸い込み、吐き気を催しそうになる。
 麦酒と葡萄酒の強すぎる香りが、頭の芯まで入り込んできた。まるで樽の中に放り込まれたようだ。生温い風が辺り一面に、アルコールを散らしている。その中に、ほんの一筋。錆びたような鉄の匂いを感じて、本能が違和感を叫んだ。
「ディック?」
 何かが変だ。すりガラスの窓の向こうに、人の動いている気配が感じられない。いつもなら漏れてくる酔っ払いの喧騒も、何も聞こえてこない。
 銃剣の弾を確認し、逸る心音と共にドアを開ける。室内の様子が目に飛び込んできた瞬間、氷がひと欠片、胸の内側を滑り落ちた心地がした。
「これは……!」
 中には誰も、人の姿はなかった。最悪の想像として思い描いたような惨状はなく――しかし異常であることは一目見て分かる状態だった。床に落ちて砕けたグラス、一面にこぼれた酒、葡萄色に濡れた壁の絵。割れた樽から麦酒が溢れ、葡萄酒と混じって異様な匂いを放っている。
 目を凝らせば、床には点々と赤いものも散らばっていた。隠しきれない鉄の匂いがする。冷や汗がつと、うなじを伝っていく。
「ディック!」
 調理場の奥に、彼が座り込んでいた。駆け寄って顔を上げさせると、閉じていた瞼がゆっくりと開く。
「アレ、ン……?」
「ああ、俺だ。大丈夫か、ディック。何があった」
 額から流れる血で、彼の隻眼は霞んでいるらしい。鬱陶しげに瞬きをして、傷に手をやろうとするので止めた。近くにあったタオルで傷口を押さえてやると、みるみる赤く染まっていく。
 まだ、それほど時間の経った怪我ではない。唾を飲んだ俺の肩に手を載せ、力のない声で、ディックは告げた。
「襲われたんだ。店を」
「あんたが真正面からやられるなんて、まともな相手じゃないな。どんな奴だった?」
「お前さんの、手配書にいた男だよ。アルベルト・ルスカーっつったか……」
 忘れかけていた名前が、記憶の片隅から人相書きを引き出してくる。
「エドリック・ベンと名乗っていたんだ。前に、ここへ泊まった……お前さんのところの娼婦と、騒ぎを起こしたときは」
 脳天に、殴られたような衝撃が走った。
 ディックが悔しげに唇を噛む。薄い皮膚が白くなって、食い込む歯が震えていた。頬に残っていた血の跡が薄くなる。お尋ね者以外の悔し涙を、久しぶりに見た。
「エリーゼが連れていかれた」
「――は……?」
「最初から、奴の狙いはエリーゼだったんだ。俺を脅し、この宿に藤色の髪の娼婦がいるはずだと言って、とぼけるなら許さんと客を殴った。……止めに入って客は逃がしたが、俺はこの通り殴られて、意識がぼんやりしてしまってな。マスターキーを奪われた。あの娘が叫びながら連れていかれるのを、見ていたが、体が動かなかった」
「な……」
「すまない。すまない、アレン。俺も耄碌した。こめかみに傷のある男だと言っていただろう。俺はてっきり、傷痕のことばかり想像していたんだが、違ったんだ。奴は確かに、怪我を負っていたんだ。あの、お前さんの隣の部屋で暴れた日、外へ出すときに、血を流していたのを思い出した」
 人相書きをもらった日付が、頭を過ぎる。あれは俺がリーベを匿った翌日の晩のこと。今朝がた入ったばかりの情報で、と言っていたギルドの受付嬢の、細い声まで鮮明に思い出した。
 同時に、手配書に書かれたアルベルトの罪のことも。
「……される……」
「アレン?」
「リーベが、殺される」
 娼婦殺害及び、人身売買組織の統率。
「待て、アレン……!」
 気づけば銃剣を抱えて、飛び出そうとしていた。掠れた声が俺を引きとめて、鳶色の目が射抜くように見つめてくる。声が、唇を開いたら喉からせり上がって、叫びになってしまいそうだった。それを何とか飲み下して、ディックに頷く。
「分かってる。医者なら途中で呼んでおくから」
「違う、そうじゃない。俺は平気だ」
「え?」
「お前、自分がどこへ行けばいいか分かっているのか?」
 問い質されて数秒、答えられずに呆然としてから、俺はようやく首を横に振った。そうだ、一体どこへ行くつもりだったのだろう。当てなどない。アルベルトがこの酒場を出て、右へ行ったのか左へ行ったのか。それさえも知らない。
「落ち着け、アレン。あの娘を助けたいなら。冷静でないお前には、何も教えるわけにいかない」
「ディック……?」
「……アルベルトは、仲間を二人連れてきた。三人で暴れて――奴らは俺がずっと、気絶したままだと思っていたようだ。エリーゼを担ぎ上げて、行き先を漏らした」
 思いがけない言葉に、瞳が揺らぐ。ディックはそんな俺の表情を注意深く確かめて、一つ、また一つと俺の呼吸が平静を取り戻していくのを辛抱強く待ち、口を開いた。
「港の北側、旧三番倉庫だ。船が来るまでそこに入れておこうと、あいつは言った」
 頭の中に、荒い風景が描きつけられる。目指すところまでの最短距離を駆ける道筋が、電流をのせた銅線のように力強く伸びた。
 俺はディックに礼を言い、銃剣を抱えて酒場を飛び出した。月は空高く上がっている。頬を切る風が、纏わりついた酒の匂いをさらっていった。

 濃紺にのたうつ海面を、灯台と月の光が行き交う。防波堤に打ちつける水の音は暗闇の中で真昼より鮮明に響き、数隻の船がゆらゆらと、無人の揺り籠のごとく揺れている。
 旧三番倉庫は港の北側、十年は昔に閉められた倉庫群の、一番隅に建っていた。今は訪れる人もなく、雨風に曝されて赤茶色の塗装は剥げ、白いペンキで書かれた3の文字もその輪郭をだいぶ侵されている。
 月明かりに影を伸ばすトタンの屋根は所々が細く欠け、入り口のシャッターの傍に欠片が散らばっていた。手をかけ、そっと持ち上げてみる。鍵はかかっていない。
 俺は深く息を吸って、一思いにシャッターを上げた。
「リーベ!」
 月明かりが斜めに射し込み、奥に座り込んだ彼女の姿を弱々しく照らし出す。藤色の髪をくしゃくしゃにして、柱に縛りつけられたリーベが顔を上げ、琥珀色の目をいっぱいに見開いた。
「良かった、無事だったんだな。助けにきた」
「……っ」
「ああ、いま全部ほどいてやるから。待って――」
 体を拘束していた縄を切り、口を塞いでいる布を取ろうとして、顔の後ろに手を回す。瞬間、後ろで轟音が響き、月明かりが絶えて、何も見えなくなった。
 リーベを背中に庇って、剣を取る。
 暗闇の中に神経を研ぎ澄ませれば、呼吸をする気配が一つ、足音が一つ。
「かかりましたね、リーダー。いや、まさかこんな餌一つで、本当にきてくれるとはなあ」
 声が一つ。全部で三人。
 バチバチと爆ぜるような音と共に、天上に明かりが点く。蛍光灯は古いソケットの中で何度も点滅を繰り返し、雷のように白く、辺りの景色を浮かび上がらせた。
 小柄な男と、背の高い痩身の男を両脇に従えて、唇を吊り上げる大柄な男が一人。
「ああ、まったくだ。俺もこんなにあっさりいくとは思わなかったぜ」
 左のこめかみに、凹んだような傷がある。酩酊こそしていないが、その声にも聞き覚えがあった。リーベを匿った日の、隣室の男だ。アルベルトで間違いない。口元に笑いを滲ませたまま、一歩また一歩と近づいてくる。
「アレンさん……っ」
 結び目が緩んで、布が外れたらしい。リーベが後ろで、か細い声を上げた。逃げろと言って手の縄を切ってやりたいところなのだが、俺が少しでも動こうとすると、左右に控えた二人の男が今にも蹴りを入れるように足を動かしたり、飛びつくように身構えてみせたりして、思うように動けない。
(どうする。誰から最初にいくか)
 三対一だ。加えてこちらは、慣れないことに人を庇っている。じりじりと距離を詰められて、無意識に足が下がった。男たちは警戒する俺を、面白げに眺めて愉しんでいる。
 思わず舌打ちが漏れた。アルベルトがそれを聞いて、肩を揺らして笑った。
「手詰まりか? 助けにきたんじゃなかったのか?」
「はっ、悪いなあ。あんたの首の値段を思い出していたところだったんだ」
「五十だ。なかなか悪くないだろう」
「それほどの金額がかけられるような人間が、なぜこの子を狙う?」
「なぜって。そりゃあ、恨みがあるからってもんさ」
 アルベルトは笑って、一頻り声を上げて笑って、その顔を憎悪に歪ませた。
「俺はそこの女に、傷をつけられたんだ。一生の目印になるような――俺たちにとっちゃ、致命傷をな!」
 左右の二人が飛びかかってきて、リーベが悲鳴を上げた。素早く後ろに押しやって、身を躱す。本気ではなかった。
 アルベルトは再び、俺と目を合わせて笑みを取り戻す。そうして彼が自分の指でとんとんと示してみせたのは、まさしく左のこめかみの、手配書に記された傷だった。
「十日くらい前か。俺は酔って、部屋にその娼婦を呼んだ。昔から飲みすぎると、些細なことが逆鱗に触れる性質でなあ。理由は覚えちゃいねえんだが、喧嘩になって逃げ出された。そのとき、グラスを投げつけられてなあ」
「そのグラスで、作った傷か?」
「いいや、だったら切り傷だろうよ。薬で簡単に治せたはずだ。酒が入っちまって、目が見えなかったんだ。これはグラスを踏んで、テーブルに打ちつけたのさ。おかげで切り傷よりも深い――妙な形の傷になった。俺は黒子も痣も、特徴が何もない顔でやりやすかったんだがな。その女のせいで、厄介な顔になったもんだ」
 そうだそうだと、二人が囃し立てる。
 まっとうな言い分でないことは明白だが、まともな話の通じる相手ではないこともまた明白だ。反論で食ってかかるのはやめて、嘲るだけに留めた。
「なるほど。世間に顔向けできない、下種ならではの悩みだ」
 笑っていた顔が一瞬、引き攣る。しかしアルベルトはすぐに、納得したように頷いて俺の目を覗き込んだ。
「なるほど。そうやって俺たちを煽って、大方隙を見て、その女だけでも先に逃がしてやろうと思っているんだろうが」
「……」
「図星か? だとしたら、お前は自分の価値をまるで分かっていないな」
「俺の……?」
「そうとも。恨みがあるのは後ろの娼婦だが、実際問題、その女にこれだけの手間をかける価値があると思うか? 一介の娼婦だぞ。捕まえて、何の金が入るわけでもない。奴隷として売れば幾ばくかにはなるだろうが、それなら初めから、わざわざこんなところへは連れてこない。とんだ無駄だ。その女に恨みを晴らしたいだけなら、俺は最初から、酒場でそいつを撃ち殺せばよかったんだ」
 廊下で酩酊していた人間と同じものとは思えない、整然とした理論でアルベルトは語る。最初にここへ入ったときから、俺も同じ疑問を抱いていた。
 旧三番倉庫をてっきり、アジトの一つとして利用でもしているのかと思っていたが、ここに彼らの生活を匂わすものは一切ない。閑散として、日常的に使われている気配がない。
 リーベ一人を拘束しておくためだけに、用意したにしては手が込みすぎている。まして彼女は、見たところ無傷で――恨みを晴らすような行為を受けた形跡が、何もない。
 かかった、とどちらかの男が言っていたのを、ふいに思い出した。
(俺の、価値?)
 まさか、と思い至って息を呑んだ俺に、アルベルトがゆるりと目を細める。
「身の丈一七五、赤髪に銃剣、目下の黒子……聞いた通りだ。男にしちゃ、綺麗な顔をしてる」
「……」
「ハンザのアレンといったら、こちら側でもそれなりに有名人でなあ。噂はかねがね、聞いてきたぜ? なんでも殺さず、引き金をひかせず……相当な腕前らしいじゃねえか」
 下がる靴底が砂を踏んで、ざりっと音を立てる。一歩、アルベルトは歩み寄った。悪い予感が、背中を駆けた。
「お前たち賞金稼ぎには、立派なギルドがあるようだが。悪人(おれたち)の世界にも、似たモンはあるのさ。要注意人物の情報を売って、捕まえた奴には多額の報酬を与えてくれる。そういう機関が」
「まさか……」
「七十万ハイヴ。――お前の首の値段だ、ハンザのアレン。もとい、」
 ふ、と自らの首筋に手を当てて、アルベルトは笑った。そうしてその手を素早く、上着の下に滑らせた。
「アリシア・バーキン」
「伏せろッ!」
 銃口が迷いなく向けられ、引き金がひかれる。リーベの頭を押さえて屈ませ、辛うじて躱した俺の背中を弾が掠めていった。視界の端から、爪先が迫ってくる。リーベを奥に突き飛ばして男の足を掴み、アルベルトのほうへ蹴り飛ばして、振り向きざまに身構えていたもう一人を銃剣で殴った。
「さすがだな。単独の賞金稼ぎで、最高額がかけられているだけのことはある」
「目的が俺だったなら、なぜリーベを攫った! ディックの店を荒らした!」
「なに、利益と感情がたまたま一致しただけの話だ。驚いたぜ? まさか忌々しいその娼婦が、逃げたはずの宿から、暢気に夕焼けなんて眺めているとはよ。しかも、誰に買われているのかと思ったら、あのアレンだ。どういうつもりの遊びだ? ああそれとも、お前、そっちの趣味なのか」
「ぐ……っ」
 二発、三発と数えながら銃弾を躱し、痩身の男を最初に沈める。その一瞬の隙を衝いて、小柄な男が間合いに潜り込んだ。鳩尾を殴られ、息が詰まる。
 アルベルトが足を振り上げるのが見えた。武器から引き離されないようにするほうが先だ。蹴られるのを覚悟して、銃剣に手を伸ばす。
 小柄な男が肩を掴んだ。顔にくる気だと察して、歯を食いしばる。反射的に目を閉じようとした、その瞬間。
「やめてぇッ!」
 リーベが、アルベルトと俺の間に割って入った。
「な……、おい! リーベ!」
 華奢な体が蹴り飛ばされ、コンクリートに倒れる。藤色の髪が宙に乱れて、伏して跳ね上がった彼女の肩から水脈のように方々へ広がった。何度も呼びかけると、ようやく震えながら顔を上げて、身を起こそうとする。
 痛みに眉を顰めて、もう一度倒れた。縛れたままの両手では、ふらつく頭で起き上がることができないらしい。
「お前は入って来るんじゃねえ。殺しちまったら、奴隷にも見世物にもならねえんだから」
「う……」
「言っただろうが。お前を餌にこいつを釣って、上手くいったら、お前はよそへ売るんだってな。何もできねえんだから、大人しく……」
「……しないで……」
「ん?」
「アレンさん、に……何も、しないで!」
 朦朧としていた琥珀色の目に、突然力強さを取り戻し、リーベは顎を持ち上げようとしたアルベルトの指に噛みついた。呻き声が上がり、小柄な男が俺を投げ出してリーベを殴る。
 その男を俺が殴り、リーベに触れた手を剣で貫いた。ひっと息を呑む声が上がる。うなじを蹴り飛ばすと、その声も止んだ。
「アレンさん、には、何もさせない」
 途切れ途切れの声で、リーベがアルベルトを睨みつける。ふらふらと立ち上がり、俺の前に立とうとする彼女を見て――呆気に取られていたアルベルトが、血塗れの指で顔を覆い、俯く。
「は……、そうか。そうなのか」
 明滅する光の中で、その唇が、歪んだ三日月を描いた。
「アレンさん、なあ?」
「……なんだ」
「くくく……っ、そうか。お前、その賞金稼ぎに入れ込んでんのか! そうだよなあ、若くて強くて、お前みたいな娼婦一人のために、こんなところまで乗り込んできてくれる。掃き溜めの英雄だ。哀れな女だなあ? 本当のことを何一つ知らないで、健気に立ち上がって」
 震えてろくに口を開けないリーベをまじまじと眺め、アルベルトは視線を、俺に持ち上げた。
「こいつは、お前が思っているような王子様じゃない」
 瞳の芯へ語りかけるように、俺と目を合わせたまま、リーベへの言葉をゆっくりと紡ぐ。
「だって、ハンザのアレンっていうのは――」
「……アルベルト!」
 その視線がついと下がって、俺は彼が口にしようとしている事実を察し、思わず叫んだ。遮るように、絶つように。その先の言葉をかき消すことしか考えていなくて、無意識だったのだと思う。
 指が勝手に、引き金をひいていた。
 狙いはわずかにぶれて、アルベルトも予測していたように身を躱したが、彼はいよいよ面白いものを見たように笑っている。
 赤く染まった手で拳銃を取り、立て続けにリーベを狙って発砲した。俺は彼女を抱いて床を転がり、銃剣でアルベルトの足を薙ぎ払った。立ち上がりざまに斬りつけるが、裾を掠めただけに終わる。
 ディックに正面から怪我を負わせただけのことはある。引き連れていた二人とは格別に、アルベルトは一人でも戦いを知っていた。
「お前の名なんざ、調べればすぐにでも分かる。隠しているつもりか?」
「黙れ」
「一生、隠しておけるとでも思ったか? 言わなければばれない。疑われもしないと?」
「黙れ、殺すぞ」
「アリシア・バーキン、通称ハンザのアレン。お前は――」
 左腕を捻りあげられて、右足を斬った。頬を掠める拳を躱して、放った弾が耳たぶをさらった。
 攻防の末に、利き腕を取られて首を絞めあげられた。爪先が一瞬、宙をさまよう。喉がひゅうと鳴り、声が詰まる。
「正真正銘の、女だろう」
「だま、れえッ!」
 嘲るような声と共に、シャツのボタンが引きちぎられた。振り上げた足がアルベルトの体を押し飛ばすのも同時だった。貝細工のボタンがコンクリートに散らばり、呻き声と共にアルベルトが尻をつく。
 叫び声に喉が切れて、咥内を錆の匂いが回った。酸素が足りない。目の前が暗く、頭の中が沸騰したように熱く、何も考えられない。
(俺は)
 ただ、護らなければ、と。
 熱に擦り切れた理性の奥から響く叫びに身を任せて、その手が何を掴んだのか、それさえ考えている余裕がなかった。愛用の銃剣を拾い上げ、手の動くままに触れたものを引いた。
 乾いた音が、白と黒に明滅する空気を裂いて、やがて沈む。
 どさりと目の前にあった体が床に倒れ、コンクリートに赤い水たまりが広がって、広がって、傍にあった爪先を濡らしそうになって――
「あ……っ」
 リーベが、逃げるように足を退いたのを見て、ようやく自分がアルベルトを撃ったのだと気づいた。
「アレン、さ……」
「リーベ!」
 広がる血だまりに濡れないようにと、彼女を立たせようとして、びくりと跳ねた肩に伸ばしかけた手が固まる。琥珀色の目は、今にもそのまま石になりそうに怯えていて、頬には血の気がなく、はらはらと涙が流れていた。
 呆然と見つめてから、正気に戻って手を引っ込める。
「悪い、そうだよな。怖かったよな。……それ、に……」
 ぱらりと、最後の糸がほどけてシャツが開いた。
 きつくさらしの巻かれた胸と、筋肉のせいで分かりにくくなっているが、白く括れた腰。
 露わになった体はどう見ても男のそれではなく、正真正銘の女だ。アルベルトの言った通り、アリシア・バーキンという女の賞金稼ぎ。
 それが、今までアレンと名乗ってきた俺の、本当の姿だった。
「騙すつもりはなかったんだ。男装は、元々は仕事のためで、名前もそれに合わせて名乗っていたが、本気で隠していたわけじゃなかった」
「……アレン、さん」
「……でも、それは最初の頃の話だ。最近は、隠してた。リーベ、あんたと出会って、一緒に過ごすようになって」
 広がり続けていた血だまりが、リーベのスカートの一歩前で止まる。蛍光灯がじりじりと小さな瞬きを繰り返していた。
 この鉄と埃の匂いから、早く彼女を解放したい。その一心だけで、俺は心に嵌めていた枷を、すべて外した。
「好きだったんだ。ただ傍にいるだけで、誰かのものにならないでくれるだけで十分だった。女だと知られたら、客にもなれないと思って、ずっと男のふりをしてきた。引きとめて悪かった。巻き込んで、またこんな傷を作らせて……悪かったな。もう、ちゃんとあんたを離す、から……」
 だから、安心して。最後にどうか、帰り道だけ護らせてくれと。咳き込みながら口にしかけた言葉が、柔らかいものに塞がれて、飲み込まれる。
 目の前に滲む、藤色の睫毛。小さな鼻と、ゆっくり開いていく琥珀色の目。
「……知ってたわ」
 重ねていた唇が離れるなり、リーベは言葉を失くした俺に、ぽつりと言った。不自由な両手で引き寄せた襟を離して、額を鎖骨に触れ合わせる。
「知ってた、って」
 瞬きをした俺の目の中で、リーベは少し首を傾けて、申し訳なさげに頷いた。微笑んで、深く呼吸をする。その頬がほんのりと、薔薇色を取り戻している。
「私を、何だと思っていらっしゃるの。娼婦なのよ。男の人でないことくらい、一度抱きしめられれば分かります。怖かったのは、貴方がその人を撃ったことでも、女だったことでもない。……銃声が聞こえたとき、貴方が撃たれたのかと思った。そうじゃなかったって、安心するまでに、私は貴方より時間がかかるんです」
 端の切れた唇が、いたずらっぽく弧を描く。リーベは立ち尽くしている俺の手を取り、自分の頬に当てて、そっと目を閉じた。
「言えなかったのは、私も同じ。女だって気づいているとばれてしまったら、もう貴方は姉か友達のようになって、私を恋人みたいに撫でてくれることはなくなってしまうんじゃないかって、怖れていたの。……ねえ、アレンさん」
 さらりと、彼女の長い髪が揺れる。ここにはない石鹸の香りを、ふいに思い出す。
「アリシアでも、アレンでもいい。私、女ですけれど、今日も明日も、許されるなら貴方のものでいたいわ。それって、おかしなことですか」
 血と砂に汚れた手首を、温かい涙が伝った。袖口を濡らし、床に落ちて、透明な染みを作る。
 答えを待つリーベは潤んだ瞳に、気丈にも微笑みを浮かべていて、ああ俺は最初から彼女に惹かれていたのだと気づいた。真っ白な野良猫のように、細くしなやかで、気高い。
「おかしなことじゃ、ないさ」
 仮に、世界はそれを真っ直ぐな目では見ないとしても。こんなにも美しい彼女に惹かれた。それの何がおかしいことだろう。
 世間が彼女の想いを正しいものでないと言うのだとしても、俺が守りたい。抱きしめて、声を大にして言いたい。この手の中では、何も間違ってなどいないと。
 銃剣を掴んで、手首の縄を一思いに切る。
「私の、本当の恋人(リーベ)になってくれ」
 乞うように囁けば、自由になった両手を伸ばして、リーベは俺の首を引き寄せた。
 今夜限りの恋人ではなく、明日も明後日も、約束などいらない恋人として。俺は彼女にようやく、偽りのない口づけをした。


リーベ/終

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