リーベT


この作品は2015年に製作したものです。



 ハンザの安宿で彼女と出逢い、坂道を転がるように恋をした。

「てめえ、逃げようとしてんじゃねえぞ!」
 ガタン、と椅子を蹴倒すような音が聞こえたのは、ちょうど今日の仕事の報酬をノートに書きつけたときだった。板に砂を塗っただけの、薄い壁だ。この階は全部、隣室も一人部屋だと思ったんだがな、と首を捻る。
「おい、こらあ」
 酩酊したような男の声と共に、か細い悲鳴が聞こえる。状況を察するには、十分すぎる材料だった。ノートを鞄の下に押し込み、椅子を立つ。
 音を立てないようにドアを開け、顔を出した瞬間。ちょうど、隣室のドアも勢いよく開け放たれた。
「入りな」
「……っ」
「いいから、早く」
 藤色の長い髪を、乱れた胸元にまとわせて、目を合わせた女は躊躇いの表情を浮かべている。けれど長く迷っている暇はなかった。ドアの後ろで男が、もつれた声を上げ、何事か叫んだ。
「早く」
 彼女は一瞬だけ、この先に待つのが悪い夢でないことを切に祈るような顔をして、俺の部屋へ飛び込んだ。ドアを素早く閉めて、あとはゆっくり、音を立てずに鍵をかける。
 隣室の男が廊下を歩き回る気配がしていた。順番に、「おい」だの「こら」だのと叫びながらドアを叩いて歩く。俺が背もたれにしているドアも当然叩かれたが、無視していると、やがて気配はどこかへ消えていった。
 廊下に傾けていた注意を解き、目を開ける。
 テーブルの足元に、息を潜めた女が座り込んでいた。
「行ったぜ」
「……そう……」
「災難だったな。相当悪酔いしてんだろう、あれは」
 ほ、と縮こまっていた肩の力が抜けたのが見えて、こちらも少し気が緩んだ。大股に近づいてみるが、逃げ出す様子はない。
 今逃げられると困る。階下をまだ先ほどの男がうろついてでもいたら、助け出した意味がゼロだ。もっとも、先の騒ぎに気づいて、黙って放っておく宿の主人ではあるまいが。
 さて、と部屋の隅に置きっぱなしにしてある荷物を開ける。
「そんなところにいないで、椅子に座りな」
「いえ、そんな」
「手当てがしにくい」
「……え?」
「頬のそれ。放っておいて、痕になったら仕事に困るんじゃないか?」
 呆気に取られた顔をして見上げてくる彼女は、大人びてはいるが、まだ比較的若いように見えた。せいぜい二十歳を少し過ぎたくらいだろう。俺より三つ四つは下に見える。
 親でも亡くしたのか、はたまた捨てられたのか。少女のような娼婦なんてこの町では別に珍しくないが、今は目の前の一人だけに、素直に同情が湧いた。ほれ、と一脚しかない椅子を引いて促すと、おずおずと腰かける。
 琥珀色の目が、逐一うかがうように俺の動作を確かめていた。密やかな警戒には、あえて気づかないふりをする。
「顔上げて」
「……」
「派手に殴られたな、腫れてるし切れてる。少し沁みるけど、薬だから我慢しろよ」
 荷物の中から取ってきたのは、小型の救急箱だ。開けると薬草や軟膏、湿布薬の混じりあった匂いが鼻をついた。傷のない首に手を添えて、常備している消毒薬を頬に塗っていく。
(……気丈だねえ)
 途中、あまりに無反応なのでそっと顔を覗き見て、思った。きつく瞑った目の端に、涙が滲んでいるのを見てしまい、悪いことをしているような気分になる。
 使い慣れれば効き目が分かっているので何とも思わないが、本当は少しどころではなく沁みる薬だ。あいにく手元にこれしかないので仕方なかったが、持っていれば別のを使った。驚いて騒ぎ出すかと身構えていたのに、彼女は一言も発しない。殴られ、追いかけられた時点で、精神的には相当参っているだろうに。
「他に、どこか怪我は」
「……腕と、ここ」
「ああ、本当だ。髪をどかしても?」
「ええ」
 鎖骨の下にも怪我があったが、腕と両方合わせても、頬に受けた傷ほどの大きさではない。これならもう少し軽い薬でもいいはずだ、と思いとどまり、水にさらした布で拭いて終いにした。
 お疲れ、と声をかけると、反応に困った顔をする。顔立ちと歳のわりに視線の使い方が色っぽいのは、身についた仕事柄、無意識なのだろうか。
 擦れないようにガーゼをとめた腕で、同じガーゼをつけた頬に触れる。救急箱を片づける俺の背中をぼんやりと見つめて、口を開いた。
「慣れていらっしゃるのね」
「ん? ああ、どうしても怪我は付き物でね。自分の体は、しょっちゅう手当てするもんだから」
 琥珀色の目が、少し興味を持ったように瞬く。
「賞金稼ぎなんだ」
 こつん、と壁に立てかけた銃剣を小突いて言えば、彼女はそこで初めて武器の存在に気づいたらしく、驚いたように目をみはった。余計な警戒心を抱かせては困るので、笑って手を離す。
 薄いベッドは椅子よりも低く、俺が座ると、視線の高さが揃ってちょうどいい。カーテンを細く開けた窓の彼方で、暗い海の上を、灯台の明かりが行ったり来たりしていた。
「今夜はここで休んでいきな」
「え……」
「腹が減ってるなら、そこにあるパンは勝手に食っていいぜ。俺はもう寝るから、休みたくなったら入ってくればいい。言っておくが、恩を返せなんてベタなことは言わないから、床で寝るなよ」
 掃除してないからな、と念を押して、燭台を預けてベッドに潜り込む。受け取った彼女は、しばらく椅子から動かなかった。俺は彼女に背中を向けて、壁の明るさを見つめていた。
 やがて蝋燭の火が、ふうと消された。ベッドが軋み、かすかな温もりが息を殺すように滑り込んでくる。
 向かい合うと、左頬に傷のある彼女は寝返りを打てず、月明かりに探るような視線を浮かべて俺を見つめた。細い指で、ボタンのちぎれたシャツの襟をかき合わせている。
「……あの、どうもありがとう」
「それを言うために入ってきた?」
 笑うと、控えめに頷き返す。消毒薬はまだ痛むかな、とぼんやり思った。
「あんた、名前は」
「リーベ、と」
「へえ、それはいい名をしてる。何もしなくていいって言ってるんだから、口説かなくていいのに」
 リーベ。それはこの辺りの言葉で、誰もが知っている「恋人」の意だ。さしずめ今はあなたの恋人、とでもいう誘い文句だろうか。礼を求めていないのは本当なんだがね、と思いつつ苦笑する。この名も娼婦としての、仕事の一つかと。
 彼女は枕の上で、ゆるやかに首を横に振った。
「仕事で名乗るのは、エリーゼ」
「は?」
「何の意味もない、響きだけの名前です。リーベは、本当の名前のほうで」
「……そうなのか。それは失礼」
「いえ、この町ではそう取られても仕方ないですわ。私、生まれが少し遠くだから、リーベはよくある名前でしたの」
「へえ。俺はアレン。悪いな、生まれも育ちもこの辺りだったものだから」
 月がゆっくりと、雲に隠される。灯台の明かりが目に入るので、カーテンを端まで閉めた。いえ、と彼女は細くなっていく光の中で首を振った。痩せた肩に布団を引き上げて、背中に手を当てる。抵抗はない。
「おやすみ、リーベ」
「……ええ、おやすみなさい」
 よくある名前と聞いたあとでも、口にすると妙な甘さが残る。
 あやすようにその晩は、意識が途切れるまで、彼女の背中を撫でて眠った。

「珍しいじゃないか。お前がこんな早くに起きてくるなんて」
 ごとりと、飾り気のない白い皿をテーブルに置いて、腕まくりをした男は鳶色の隻眼を細めた。壁掛け時計の時刻は、朝の八時。それなりに明るくなった空が、四角い木枠に囲まれた窓から覗いている。
「まあ、ちょっと用ができてね。仕事じゃないんだが」
「ほう」
「買い物だよ。早めに済ませたいんだ、夕方は忙しいから」
 カウンターの奥から、銀のナイフとフォークが差し出された。受け取って、ボイルされたばかりの熱いソーセージを一口に切る。クランベリーソーダが一杯、サービスで出された――太陽が空に昇ってから店が閉まるまでの、わずかな間だけ用意される飲み物だ。
「ありがとう、ディック。いただくよ」
「なに、お前さんには長く泊まってもらってるからな。構わんさ」
 辺りに目覚めている客はほとんどいない。ここは酒場なのだ。もう三十分もすれば、酔いつぶれた客を追い出してこの店主も眠りに就く。二階から上の宿の持ち主でもあるディックとは、もう結構長い付き合いだ。特定の家を持たず、かれこれ半年くらい、彼から部屋を借りていた。
「なあ、俺の隣の部屋の男なんだが」
 口にしかけた時点で、ディックは大きく頷いた。
「騒ぎを起こしたようで、悪かったな。部屋であんなに深酒をしているとは思わなかったんだ。もう叩きだして、どこかへ行っちまったよ」
「だろうな。あんたが放っておくとは思ってない。いなくなったならいいんだ」
 クランベリーソーダで、水気の少ないパンを流し込む。
 ディックは何かに気づいたように、にやりと笑って、皿を磨いた。
「すまんな。どこへ消えたのかと思っていたが、お前さんには世話をかけたようだ」
「別にいい。大した世話はかからない、大人しくて気丈な猫だった」
「はあ、そうかい。相変わらず勇ましいことを言うな、格好がいい」
 滑らかな陶器の重なる音。カウンターの隅で一人、泥酔していた男が顔を上げ、欠伸をした。そのまま突っ伏して、再びいびきをかき始める。
 ディックはそれを呆れたような、諦めたような、何とも言えない顔で眺めて声を落とした。
「昨日もお手柄だったそうじゃないか、アリシア」
「その名で呼ぶな」
「ああ、悪かったアレン。しかし本当に、お前さんはすごいもんだよ――ここらじゃ一番。男顔負けの、賞金稼ぎだもんな」
 返事の代わりに、肯定とも否定ともつかせぬ笑みで答える。ソーセージの薄皮を、曇りのないナイフがぶつりと断った。

 正午、ノックと共にドアを開けると、リーベは小さな鏡の前で髪を結っているところだった。弾かれたように振り返ってから、俺の顔を見て、ほっと息をつく。
 枕元に残した置手紙はテーブルの上で、綺麗にたたまれて、空になった皿で飛ばないように押さえてあった。窓が細く開けられている。風向きか、今日はそれほど潮の香りはしない。
「おかえりなさい。ごめんなさい、私ずいぶんぐっすり寝ていたようですね」
「いい、わざと起こさなかったんだ。こっちこそ、黙って出て行って悪かったな」
「いえ、驚いたけれど手紙がありましたから。お言葉に甘えていただきました、パンもチーズも美味しかったですわ」
 両側でねじった髪を慣れた手つきで後ろにまとめ、深紅のベロアの紐で結んで、彼女は皿を手に取った。水洗いはしたんです、どこにお返しすればいいですかと、手紙をスカートのポケットに押し込んで訊ねる。
 心なしか昨夜より明るくなった声音が、生意気で品のいい白猫のようだ。枝のように細い指は、少し引っ張るだけで呆気なく皿を奪えてしまう。俺は琥珀色の目を丸くしているリーベに、持っていた紙袋を一つ、代わりに渡した。
「この皿は借り物だよ。後でディックに返しておくからいい。それより、開けてみな」
「私が?」
「あんたに買ってきたものだからね」
 困惑しながらも、俺に促されて彼女は袋を開けた。特別な包装はしてもらっていないので、すぐに中身が見える。
「服……?」
 半ば確信を持ちながら、リーベはおずおずとそれを広げた。何の変哲もない――強いて言えば襟元に飾り釦のある――白い絹のシャツだ。別段、眺めるほどのものではないが、今朝はこれを探しに出かけていた。
「あんたの服、それじゃ繕ってももう綺麗には直らないだろう。外に出るにはその恰好じゃまずいだろうから、適当なのを用意した」
「そんな……、私、こんな新品の服を買うお金は……」
「いいんだよ。俺がそのままじゃ帰しにくいから買ってきただけだ。ちょうどでかい仕事も一件、片づいたところなんでね。気に入らなかったなら、新しいのを仕立てに行くか?」
 からかい交じりに訊ねれば、勢いよく首を横に振る。じゃあそれを着てくれ、と言い包めて、着替えの間、もう一つの買い物を開けていた。
「終わったら傷の具合を診るよ」
「……終わったわ」
 シュ、とスカートのリボンを結ぶ音がする。振り返ると、リーベは真新しいシャツに袖を通して、どこか落ち着かなそうに両手を握って立っていた。
 丈でも合わなかったかな、と思ってから、ふいにそうではないと気づく。
「……沁みないと思うぜ? 今日は」
「!」
「あんた、結構顔に出るな。ちゃんと薬屋にも寄ったよ」
 図星だったようだ。かあ、と一気に頬を赤くした彼女は、昨日の消毒がよほど記憶に残っているらしい。短剣で切りつけられた傷にも使えるような薬だ。確かに少し大げさで、気の毒だったと言わざるをえないだろう。
「治る、かしら」
「もちろん」
 不安げに呟く彼女に、躊躇なく答える。ガーゼの下はまだ痛々しい色に腫れていたが、傷口は幾分か塞がり、痛みも軽くなったようだった。
 新しい消毒薬を開ける俺の手元を、リーベはちらちらと見る。冷たい液体が頬に触れるとき、彼女は一瞬身を硬くしたが、やがて瞬きと共に肩の力を抜いた。
 同じ薬を、腕と鎖骨の傷にもよく塗っておく。冷たいわ、と子供のように、彼女は笑いをこぼした。
「ねえ、アレンさん」
「ん?」
「本当に何も、お礼はいらないの? お金はほとんどないですけれど、貴方にだったら、渡せるものはお渡しするわ」
「渡せるもの、ね」
 ボタンを一つずつ、ゆっくり留め直しながら、彼女は手ぶらで微笑む。それが意味するところを理解できないほど、ただ純粋に人が好いわけでもないのだけれど。
 俺は笑って、彼女の頭に手を置いた。
「申し出は有難いが、本当にいらないんだ。そういうことはあんたを、エリーゼとしか呼べない奴にしてやりな」
「……そう。分かりましたわ、ありがとう」
 リーベはにこりと笑みを深くすると、伸び上がって、俺の頬にキスをした。単なる礼のキスだということは分かっているのに、一瞬、心臓が大きく高鳴りすぎて呆気に取られた顔をさらしてしまう。
 彼女はそんな俺を見て、瞳の奥に悪戯な光を灯し、首を傾げた。その仕草はやはり、しなやかな白猫のように甘い。

 リーベはそれからすぐに部屋を出ていき、数時間の後、俺は粗末な建物が並ぶ路地裏を歩いていた。ぽつりぽつり、三本点いては一本消えるくらいの間隔で並ぶ街灯が、すっかり日の落ちた暗闇の中に、二つの影を伸ばしている。
「――で、――して……」
 影の一つ、大柄な男のほうが、葉巻の煙を月に燻らせながらぼそぼそと囁く。小柄な男がポケットから紙を取り出し、恭しく差し出した。
 大柄な男はそれを無言で読むと、唇を吊り上げて満足げに笑み、葉巻の先で紙を燃やした。はらはらと散った燃え滓を、小柄な男がすかさず踏み消して、何ごとか話し合う。
 俺は息を潜めてしばらく待った。やがて男たちは別れ、小柄な男は足早に路地の間へ消えていった。気配が完全に遠のいたのを確認してから、銃剣を構え、道へと踏み込む。
「誰だ……ッぐ!」
 足音を一度、わざと大きく立てると、男は反射的に振り返って叫び声を上げようとした。その喉元を、鞘に納めたままの剣で殴りつける。声帯が一時的に潰れ、声がろくに出なくなった。鳩尾を蹴り上げ、傾いた男の襟を掴んで、音を立てないように地面へ押し倒す。
 街灯の鈍い光に、男の奥まった目が狼狽えた。
「違法薬物及び違法武器売買の疑いで懸賞金二十五万ハイヴ――治療が必要な怪我を負わせずに捕まえられたら五万上乗せ。あんたで間違いなさそうだな」
「……ッ」
「カール・ブルーゲル。死体を渡しても十万はもらえるそうだが……さて、抵抗はするか?」
 手配書を突きつけて問い、そろりそろりと動いていた右手を踏みつけると、男は観念したように静かになった。左の手の甲には、最初から剣先が触れている。動かせば、すぐにでも石畳の溝と一つになる。
「いつから、だ……」
「うん?」
「いつから、俺を狙っていた」
 手配書を離し、空いた手で縄と手錠をかけていく間に、掠れた声で男は訊いた。
「情報を得たのは、一昨日くらいかねえ」
「たった三日だと?」
「運が良かったんだよ。あんたは色々やりすぎたんだ、運に見放された。それだけだ」
 男は黙って睨みつける。縄を引いて無理矢理立たせ、銃剣を突きつけると渋々歩き出した。逃げ出さないよう、隙を見られないように終始道のりを指示しながら斜め後ろを歩く。
 そうして男を、夜通し開くギルドの窓口へ連れていく頃には、月も天頂へかかって腹が空ききっていた。適当な酒場を見つけて入り、賞金と一緒にもらってきた新しい手配書を何枚か確認する。
「……ん? これは……」
 ほとんどが顔写真を載せている中で、一枚だけ、荒い手描きの人相を載せたものがあった。
 グラスを傾ける手が、無意識に止まる。
「アルベルト・ルスカー……」
 娼婦殺害及び人身売買組織の統率。
 左のこめかみに傷のある、大柄な男、との情報しかなかった。

 翌日、俺は開店前のディックの厨房を手伝って、目新しい話をいくつかとパテの切れ端を駄賃にもらってから、夕刻の町へ踏み出した。休みだと気が抜けて眠りすぎたか、肩が凝っている。護身のためと持ってきた銃剣も重く感じ、今日は近場で情報を集める程度にして早々に帰ろうと決めた。
 一軒、二軒と馴染みの酒場を回り、同業者と、それぞれに自分が狙っている獲物以外の情報を交換し合う。名も知らぬ間柄ではあるが、纏う雰囲気で仲間かそうでないかは分かった。同種の匂いというものに、暗がりで生きる人間は敏感だ。悪人を捕まえる賞金稼ぎは、一見すれば治安の味方だが、悪人の存在をなくしては生きていけない。
 灰色の生き物であることを忘れてはならないと、常々思う。賞金稼ぎが居つく町というのは、それだけ餌が多い町なのだ。俺たちは彼らを狩るが、その絶滅を求めてはいない。繁殖が盛んな町を、探して渡り歩く。
「もう行くのかい、アレン」
「ああ、ご馳走さん。また来るよ」
 主人は愛想よく頷いて見送る。大きな情報は得られなそうだったので、今夜は早めに切り上げて店を出た。
 あまりいると飲まされて、こちらが余計な情報を吐きかねない。悪人の秘密が商品になるのは、同業だけではない。酒場の主や、情報屋も同じだ。
 猜疑心が強くなったものだ、とわけもなく感じて笑う。
 経験を積んだとも言うのかもしれないが、昔よりずっと、世間の裏を読もうとする癖がついた。こうして人は順応していくのだろう。身を置いた場所で生きるように変わっていく。
 かすかな感傷に浸りながら、ぶらぶらと三軒目を目指して歩いていたとき、人の話し声が聞こえて視線を上げた。曲がり角の街灯の下――少し遠くの、壊れた木箱の傍に立っている人影を見て、おやと瞬きをする。
 リーベだ。否、今はエリーゼと呼ぶべきだろうか。彼女は仕立てのいいコートをはおった商人風の男を相手に、何事か語りかけていた。帽子を目深に被った男が、渋るように腕組みをしている。
 俺は道を変えようとしたが、運悪く、曲がり角までは横道が見つからなかった。仕方なしに、ここは他人のふりをすべきなのだろうなと考えながら歩調を速める。近づくと、男がリーベに何か話しているところだった。
 聞くともなしに、会話が耳に入ってくる。
「だから、半分ならいいと言っているんだ」
「でも、さっきもう半分に……」
「そうだったか? 最初の話など忘れたな」
 何か、揉めているような雰囲気を感じて速度を緩めた。リーベはまだこちらに気づかない。見れば、困った顔で逃げ出したそうに足を退いている彼女の肩を、男が掴んでいる。
 その唇の端がかすかに吊り上がって開くのを、街灯の弱々しい光が照らしてくれた。
「どのみち、その顔では客がとれまい。君も今晩を無一文にするよりは、ずっといいのではないかね? どうだ、五千ハイヴで」
「へえ。じゃあ、俺はその十倍を出そう」
 帽子が跳ね上がりそうな勢いで、男が振り返る。驚いて、あっという顔をしたリーベと目が合ってから、俺は自分がほとんど意識なく声をかけてしまったことへの動揺を押し隠して、強気に笑った。
「なんだ、お前は。彼女はすでに私が買った」
「交渉はまだ成立していないように見えたけどなあ。選んでもらおうぜ。彼女に、どっちがいいか」
「……酔狂だな。こんな傷だらけの女に、十倍とは」
 男の視線は俺の顔と、銃剣を交互に彷徨っている。大方、争いにはならないだろう。そこまで頭の悪いタイプには見えなかった。
「興が冷めた。勝手にしろ」
「きゃ……っ」
 どん、と突き飛ばされたリーベが、胸に飛び込んでくる。予測していた行動に腕を広げて受け止め、どうもと笑えば、男は振り返ることもなく足早に去っていった。
 リーベがゆっくりと、窺うように顔を上げる。
「何、買い叩かれてんだよ」
「ごめんなさい、しつこくて……」
「五千とはずいぶんな交渉だったな。まあ、通りかかれてよかった」
「ええ、ありがとう」
 頷く彼女の頬にはまだ大きなガーゼが貼ってあって、どうやらその見た目を理由に、安く買えそうだと目をつけられていたらしい。確かに、娼婦などこの町にはいくらでもいる。こんな美人が、と思うような高嶺の花だって、珍しくはない。
 リーベはその点、美しいが質素で、どこか素朴な印象だった。品のいい白猫だが、野良なのだ。屋敷暮らしの、足の裏まで白い猫には見えない。
 俺は彼女の手を掴み、街灯の下を歩き出した。
「アレンさん? どこへ……」
「帰るんだ」
「え?」
「だから、あんたを買って今日はもう帰るんだよ。五万じゃ不満か? ああそれとも、俺が相手として」
 言葉を遮るように、リーベは慌てて首を横に振った。半ば引きずられるような構図ではあるが、彼女がちゃんと足を動かしてついてきていることに、内心でほっとする。
 リーベはただ、戸惑っているようだった。困惑した声で、畳みかけるように訊ねてきた。
「だって、あれは助けるために言ってくださったのでしょう? まさか本当だなんて、私思っていませんから、冗談と言ってくださっても」
「……それがあながち、ただの口実とも言えないんだよなあ」
「はい?」
「いや、こっちの話で」
 そして、戸惑っているのは彼女だけではなかった。
 顔や態度には極力出さないようにしていたが、俺は俺で、なんとも思い切った行動をしてしまったと困惑していた。彼女を買って、連れて帰って――どうしようというのだろう?
 女の身では別に、彼女の体を欲しいとも思わない。それなのに、彼女が――この髪が、目が、唇が、手足が、胸が――たったの五千などというはした金で、塵のように買われていくのかと思うと、耐えられなかった。
 同情ではない。あのとき俺が抱いた感情は、リーベを憐れむ気持ちではなく、彼女を買い叩こうとした男への煮え滾るような憎悪である。何としてでも取り返さねばならないと、心が叫んだ。その結果がこれだ。
 助け出したかっただけならば、何も連れ帰る必要はあるまい。けれど俺は、彼女を置いていきたくない。またどこの誰ともしれない男に、同じような理由で寄って来られるのではないかと思うと、どうしてもこの手を離せないのだ。
(なんの庇護欲だよ、まったく)
 呆れても、それでも。彼女が離せと言わないのを良いことに、指の力は強まるばかりだった。
 俺は結局その晩、宿に彼女を連れて帰り、「話し相手になってくれ」とだけ頼んでベッドに入れた。約束の五万ハイヴを渡したが、彼女は頑として高すぎると受け取らず、半分以下の二万だけをポケットへしまった。それでも、ずいぶん高い買い物をさせたと思っているようだった。
 何かしてほしいことはないのかと、しきりに訊ねてくる。髪を触ってもいいかと訊いた。かすかにジャスミンの香水を纏う、細くて軽い、藤色の髪だった。

「アルベルト・ルスカー? 多分、知りませんわ。聞き覚えはないです」
 翌日、昼過ぎに目を覚まして缶のスープとパンで軽い食事を取った俺たちは、特に何をするともなしに向き合い、取り留めのない話をしていた。
 ベッドに腰かけて剣の手入れをする俺の傍らで、手配書を眺めていたリーベが首を傾げる。俺はそうか、と頷いて、磨き上げた切っ先を日に翳した。
「一番最後の手配書の男なんだ。見ての通り、あまり情報がないらしいんでな。手当たり次第に訊いているだけだから、気にしなくていい」
「あら、本当。この方だけ手描きですものね」
「上手いんだか下手なんだか、微妙な絵だろう? 大柄で、どうも目鼻立ちがくっきりしているらしい、ってことは伝わってくるんだがな」
「そうね。でも、この人……ううん……」
「どうした?」
 手配書を見つめたまま、リーベが再度、首を捻る。その目が何かを考え込んでいるのに気づいて、思ったことがあるなら言ってくれと促すと、彼女は控えめに口を開いた。
「少しだけ、似ている気がするんです。この間、私が殴られた相手に」
「え?」
「だけど、一番の特徴になりそうなこめかみの傷。こんなのは確か、なかったわ。あまり特徴のない、ちょっと大柄な、どこにでもいそうな男の人でしたの。きっと別の人ね」
 ごめんなさい、役に立たない話をしたわ。リーベはそう微笑んで、手配書をテーブルの隅でとんとんと整えた。
 俺は少し、驚いていた。なぜなら――昨日、ディックも同じことを言ったからだ。お前の隣室で酔っ払っていたあいつに似ているな、と言ったが、彼もまたこめかみの傷なんて見た覚えがないと首を捻った。もっとも、ディックは気に入らない客をものも言わずに叩きだすので、顔をどの程度しっかり見たか怪しいところではあるのだが。
(別人、か。まあよくいる顔立ちだ、写真でもないしな)
 手配書を受けとり、この件は一旦保留にしようと頭の中で片づける。如何せん、情報が足りなかった。民間人にいらぬ疑いをかけてもまずい。
「まだ痛むか?」
 話に上がったついでに、頬を指して訊ねる。リーベは初日より薄くなったガーゼに手を当てて、ゆるやかに微笑んだ。
「少しだけ。でも、貴方に頂いた薬がよく効いてくれているの。思ったより、よくなっているわ」
「それならよかった。他のところは?」
「もう、ほとんど大丈夫です。痛くないわ」
「そうか。じゃあ、後は顔だけ……」
 ええ、と頷く。リーベの髪に、今は石鹸で洗い落されたジャスミンの香りと、昨夜の町での光景が重なって動いた。暗がりの中で、今にも連れていかれそうだった彼女の小ささ。躊躇いがちに抗う手の、ふわりふわりと浮くような白さ。
「……もし」
「アレンさん?」
「俺が、あんたをもう一晩ほしいって言ったら、どうする?」
 気がつくと、髪を梳く彼女の手を掴んで、問いかけていた。琥珀色の目が丸くなって、中心に俺を映したまま、二度三度と瞬く。
「……傷物の女を、観賞なさる趣味でも?」
 本心から戸惑っているように、彼女は訊いた。
「まさか。そんな嗜好は持ち合わせていない」
 偽りなく、俺も答えた。
 リーベの疑問は、彼女からすれば当然の疑問だった。怪我人として一晩匿って手当てをした上、さらに昨夜は客として彼女を買って、けれども俺は一切、彼女にエリーゼとしての仕事をさせていない。
 アレンという男として俺を認識している彼女には、どれほど奇怪な行動だろう。
 けれど、止められなかった。引き寄せた手に額をのせて、懇願するように、俺は言った。
「耐えられないんだ。あんたが昨夜みたいに、価値の低い、安物として取引されるのかと思うと」
「それは……、仕方のないことですわ。傷が治れば、また元通りになると思いますし」
「治るまでは、違うってことだろう? 自分のせいでつけた傷でもないのに」
 リーベは押し黙る。それは即ち、肯定と同じだった。何がしたいのかなんて、自分でも分かっていない。けれど俺は言葉を飲み込めない。彼女のように、沈黙の水にすべてを沈めることができない。
「ここにいてくれ」
「アレンさん」
「正しい値段で、あんたを売ると言ってくれ。俺に」
「……貴方が本当にそれを望むなら、私は、断る理由もありませんけれど……」
 こつ、と頭に、リーベの額が触れる。吐息がこぼれ、彼女の迷いが伝わってきた。
「望んでいる。……同情では、ないんだ」
 この胸に脈打つ一輪の火が何を薪としているのか、俺には分からないが。少なくとも、同情で彼女を買ったわけではないことなら、昨日からはっきりしている。
 焦燥にも似た身を焼くような熱は、リーベが小さく「それなら」と答えたのを聞いて、ゆっくりと静まっていった。嘘のような静寂が体を満たす。眠りに就く前の、充足した静けさに似ている。
 銃剣が倒れて、重い音を立てた。俺は掴んでいたリーベの手を、ようやく離した。

 俺はその日も、次の日も、そのまた次の日も彼女を買った。もう一日、どうかもう一日と瞳を合わさず、言葉を短く。嘆願する俺を彼女は拒まなかった。ええ、と頷いて洗いたてのシャツに着替えた。毎日、目を覚まして一番に、俺たちはその話をした。彼女は破れたシャツを器用に繕って、眠るときはいつもそれを着ていた。
 俺は彼女の前では着替えず、夕方、出かける前にシャワーを浴びるといって、風呂場で着替えをした。きつく巻いたままのさらしは跡になり、やがて痣になり、体に幾筋もの淡い線を引いた。角の欠けた鏡に映る体を見るたび、我に返るような、忘れていたことを思い出すような、何とも言えない気持ちを味わう。
 女である、ということを。
 これといって絶対の秘密にしてきたわけでもないのに、どうして、リーベの前では当たり前のように隠してしまうのだろう。
「お前、何か弱みでも握られたのか」
 夕方、仕事の前に何か目新しい話はないかとディックのもとへ行くと、彼は誰もいない厨房で、声を落として訊ねた。は、と唐突な問いかけに瞬きをした俺を見て、呆れたような長いため息を吐き出す。
「あの娼婦にだよ。お前さんが前に助けた」
「リ……ああ、エリーゼのことか?」
「ああ。ここんところ、ずっと部屋に上げてるだろう。お前さんは追加金もちゃんと払ってくれているし、人の事情に首を突っ込んじゃ悪いとは思っちゃいるんだが……その、お前さんの場合は、何か訳ありなんじゃねえかと思ってな」
 気まずそうに切り出されてすぐ、合点がいった。ディックは俺の本当の名前を知っている。娼婦を買うなんて、何か逆らえない事情があってのことだと思っているのだろう。鳶色の目の奥は、父親とはこういうものなのではないかと思わせる色を宿している。
「悪いな、心配をかけた」
「いや、俺はいいんだが……」
「別に取引があるわけじゃないよ。毎晩、一緒に寝ているだけだ」
「はあ……」
「本当に。だからもし、俺がいない間に彼女が出かけて戻ってきたら、構わず鍵を渡してやってくれ」
 俺はリーベに、自由に過ごしてくれるよう言ってある。真夜中、俺が仕事を終えて戻るまで、彼女は部屋に一人だ。外出も、何ら制限はされていない。
 心のどこかで、彼女があるとき出て行って、それきり戻らないなら、それまでなのだという一つの目安にもしていた。リーベが戻らなかったことは今のところない。たまに近くへ買い物に行ったり、下りてきて、ディックのところで一杯だけ飲んだりしているようだ。
 ディックは腑に落ちないような顔をしていたが、俺が嘘ではないんだと繰り返すと、そのうち分かったと言って問うのをやめた。彼は代わって、俺にいくつかの新しい話を寄越した。情報料は、というと、帰りに注文書を出してきてくれという。ディックが懇意にしている問屋のポストは、俺がいつも行く町境のギルドのすぐ近くだ。
「郵便なんて、いつになったら届くか分からんからなあ」
 調理場の煙った窓の桟を拭きながら、ディックがぼやく。ハンザの治安の悪さは有名で、局員が嫌がって寄りつかない。回収されない手紙がポストの底に溜まって、酔っ払いに蹴飛ばされ、風に乗って海へ散っていく。
「――レン。おい、アレン」
 ぼんやりと、ほんの一瞬、自分が空っぽになっていた。呼びかけられたものが自分の名だったと気づくまで、間を要した。
「悪いんだが、倉庫に胡椒が残っているか見てきてくれないか。なかったら注文する」
「ああ、分かった」
 倉庫は店の裏手にあり、何度か行ったことがあった。投げ渡された鍵を受けとり、開店前の扉の内鍵を開けて、外へ出る。
 夕暮れの気配に染まりつつある空をぐるりと見上げて――振り返ったところで、俺は思わず、あ、と視線をとめた。三階の、左から二つ目の部屋。
 カーテンが開き、橙に染まる細い指がゆっくりと窓を開けて、リーベが顔を出した。

「傷の具合は、どんな感じ?」
 リーベが毎夜、共に眠るようになって一週間が経った頃。唐突に、沈黙を埋めるようにふと訊いてしまってから、後悔をした。
「そうね、もう痛みはないし、痣もだいぶ薄くなったかしら。どう思います?」
 燭台を片手に、髪を耳へかけて、彼女は頬のガーゼを剥がす。薔薇のように赤く腫れていた頬は、かすかな痣のなごりを残すだけになって、もうほとんど完治していた。手を伸ばし、じっと見ているとリーベが瞼を伏せる。
「醜くありません?」
「まさか。綺麗に治ってきたぜ?」
 そう、間もなく彼女の怪我は、跡形もなく消えるだろう。もしかしたらもう消えているかもしれないと、ここ数日触れるのを避けていた気がするのに、夜風に流れる海上の灯台の光を眺めていたら、ふと気が緩んで、口に出てしまった。

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