王国の忘れものU


「シシギ、お前は……」
 まっすぐに伸ばした手を、彼は避けなかった。アイスブルーの目を細めて、穏やかに俺を見つめていた。
 お前は、ハルザート王に捨てられたのか。
 問いかけは声にならなかったが、困惑は顔に表れていたのだろう。シシギは宙に固まった俺の手を取り、見透かしたように口を開いた。
「ここを出て、わたくしに行くあてはありません。逃げて、追われて路傍に倒れるくらいなら、貴方と共に戦いたいと願ってはなりませんか」
 脳裏に、シシギと過ごした一年余りの時が流れる。溢れて回路をかき乱していく。正常な神経の繋がりが、千切られる。
 背中を合わせて共に死ぬことを、ほんの一瞬だけ想像した。俺の毎日はいつも、シシギに起こされてシシギに電源を落とされる、そういうものだったから、今日も目を瞑る最後のときにシシギがいるということかと思えば、それはそれで自然な気もしなくはない。
 けれど。
「それは、駄目だ」
「……ハルザート様」
「許可はできない。王のもとへ行かないで、どこへでも好きなところへ行ったらいいだろう。お前が死ぬ必要はない。いいから行け」
 湧き上がるこの警告は、何なのだろう。それは悪だ、悪い決断だ。良くないものだと、回路がざわめいている。シシギを共に死なせることを想像すると、頭の中が騒がしくなって、思考が正常に働かない。
 もしかしてこれが、嫌だ、という「感情」なのだろうか。
「もしくは伝令に来た者を追いかけて、王のところへ行けばよかったものを。行って、弁解をするべきだったのだろう、お前は」
「ハルザート様?」
「兵士どもが噂していた。お前がこんな場所にいるのは、陰謀だ、と」
 回路が、あるはずのない断絶と接続を繰り返している。額に熱がこもり、積み上げられていくエラーの数にシステムが自動で落ちようとしていた。俺はその制御機能を、操っている回路を断絶させた。まだ眠るわけにはいかない。シシギを、ここから出すまでは。
「貴方は、その噂を。わたくしの無実を、信じてくださるのですね」
 シシギはぽつりと、こぼれるような声で言った。一瞬、言われたことを処理するのに手間取った。
 陰謀だという噂を嘘だと思わない、ということが、言い換えればシシギを信じているということになるのだと、初めて気がついた。そうか。思わず呟くと、シシギが首を傾げる。
「俺は、お前を信じているのか」
 アイスブルーの目が、これでもかというほどに大きくなった。何をそんなに驚いて、と思ったところで、問いかけようと開いた口の形が、いつもと違っていたことに気づく。
 柔らかに細まった視界と、軋みながら持ち上がった唇。これではまるで。
「シシ――」
 いつもの、お前のようではないか、と。
 確かめるように唇の形を手のひらでなぞった瞬間、城門のほうで、砲弾の撃ち込まれる音が響いた。はっとして振り返る。血の気の多い叫び声と蹄の音、金属の揺れる音と、窓ガラスの砕かれる音。
「シシギ、行け! 時間がない」
「ですが」
「敵は正面から向かってきている。そこの地下室から繋がった通路なら、まだ見つかっていないはずだ。裏庭へ出る道は知っているな? 行け、シシギ。これは――」
 腕を掴み、玉座の裏のドアを開ける。
「俺、からの、命令だ」
 階段へ押し込まれたシシギは抵抗したが、その言葉に顔を上げ、俺を見据えた。名乗れる名前を持たないことは、こういうときに不便なのだな、と知る。ハルザートのものではない。制御が外れて、壊れたこの身に残されている焦げついた回路が作り出している、今の思考。王の残骸をでたらめに組み替えて、エラーの上に動き続けている。俺は一体、何者だろうか。
「どうあっても行けと、それが貴方の、望みですか」
 伏せた目を歪ませて、シシギは訊いた。そうだ、と答えると、返事はないが抗っていた腕が力を抜く。
 いつだったか、まるでこのときのために誂えたような会話をしたことを思い出した。
 お前は、どこにも行かないのだな。ハルザート様に、行けと言われない限りは。
「分かりました」
「シシギ」
「生きていくことを、望まれた身です。死には致しません。わたくしの行きたいところへ、行こうと思います」
「ハルザート王のことは、探さないのだな」
「ええ。だって、わたくしは……」
 シシギはふっと、見たことのない類の微笑みを浮かべた。懐かしむような、崩れるような、なぜだか目の奥が締めつけられるその笑みを、形容する言葉を俺は知らなかった。
 彼はそれからいつものように、両目を閉じて笑った。
「信じてくださってありがとうございます、わが主。わたくしは、罪を犯したわけではありませんが、ひどく愚かであった。それもまた事実なのです。ハルザート王のもとへ参ることはできませんが、行きます。……もう、迷いません」
「シシギ?」
「ええ。それでは、――ご武運を」
 あ、と言う間もなく、シシギは腰に提げていた剣を外した。胸に押しつけられて、受け取ったと同時にドアが閉められる。俺は呆然と、預けられた剣を抱えてため息をついた。
「……何のつもりなんだ。戦ったって、勝てるわけがないことくらい、想像がつくだろう。終わるまでの時間が、ほんの少し延びるだけだ。第一、これは」
 蹄の音が近づいてくる。ドアの向こうは静まり返って、返事は聞こえない。俺はシシギの剣を両腕で抱いて、ドアから離れた。
「お前の、たった一つの、武器じゃないのか」
 シシギが何を思って剣を置いていったのか、俺には分からなかった。駄々をこねていたわりには潔く逃げてくれてほっとしている。
 分かるのはそれだけだ。シシギを殺したくはなかった。傍に置いて、ただ最後、目を瞑る前に顔を見るためだけに死なせてしまうには、俺はシシギという人間を記憶しすぎたのだ。
 激しい軋みの音を立てて扉が開かれ、玉座の横に立つ天使の彫刻の、滑らかな額を弾が砕いた。
「アルタイル王国、ハルザート王のレプリカとお見受けする」
 先頭に立った男が馬を降りて、靴音を鳴らしながら歩いてくる。
「此度の戦争は、セイジュ軍の勝利だ。だが、本物はどこかへ逃がしてしまったようだな。別のもので、勝利の証を立てる必要がある。……レプリカならば、その首を我らに」
 銀色に光る甲冑にマントを纏い、立派な白金の髭を蓄えた壮年の将軍だった。今までにも何度となく、レプリカの首を手に入れてきたのだろう。レプリカが使命を果たそうと努める物であることを、よく知っている。
 むやみやたらに襲いかかるのではなく、あくまで差し出すようにと、男は求めた。一歩、前へと進み出て頭を垂れる。
 そして俺は一思いに、ベルトに差した剣を鞘から引き抜いた。
「何を……っ!」
 ギィンと、ぶつかる音に続いて、金属のキリキリ擦れ合う音が耳を裂く。不意を衝いたが、やはり相手は生身の人間。そして歴戦の将だ。その目が倍にも見開かれたかと思ったのは一瞬で、次の瞬間にはとっくに剣を抜き、俺の斬撃を食い止めていた。
「ご武運、か」
「何……?」
「こっちの話だ」
 手首を返して刃を滑らせ、胴体を目がけて斬りこんでいく。身をかわされ、控えていた兵士に腕を斬りつけられたが、一撃では斬れなかった。
「馬鹿な話なんだ」
 唇を歪めて、笑う。俺は切っ先をまっすぐに上へ向け、力任せにただ、下へ振り下ろした。
 シシギ。お前が一体どういうつもりで、あの言葉を言ったのか。何をさせたくて、この剣を残したのか。俺には分からない。最後まで、分からないことばかりだ。
 けれど、お前の理論によれば、どうやら俺はお前のことを、機械の脳が侵されるくらいには信じていたようだから。理屈は分からなくても、どうせなら最後まで信じてみようと思う。
「惑わされるな、ただのレプリカだ。かかれ!」
 白金の将のかけ声と共に、揃いの甲冑を着た兵士たちが雪崩れ込んでくる。服がみすぼらしく裂け、膚が破れ、あらわになった鋼に次々と傷がついた。
 痛みはなかった。ただ、襲いかかる銀色の一群の、すべてが俺を射抜かんとしていることに、初めて怖れを抱いた。俺を破壊しようとする幾十もの思いが、束となって切っ先を押し進めてくる。シシギの剣が弾き飛ばされた。空になった手を、背後から斬り落とされた。
 目の前に、白金の将が迫っている。深い皺に縁取られた目が、ほんの一瞬、陰ったように見えた。その手から伸びる剣が、首めがけて振り下ろされる。

 ああ、と目を瞑った最後の瞬間、足元でピシリと聞き慣れない音が鳴った。直後、熱風が轟音と共に吹き上がり、体が宙へと投げ出された。


 目が覚めると、見知らぬ木の天井が目に入った。年季の入った柱と柱の間を、今にも切れそうなロープが渡っている。撓んだロープの中心に下げられた、煤けた臙脂色の、やけに豪奢な上着。
「あ……っ!?」
 布地は右腕の肘から先だけ、切り落とされている。
 それを見た途端、ぼんやりとしか稼働していなかった頭の中に、自分は何者であるのか、どうして意識を失っていたのかといったことがすべて甦った。そうだ、セイジュの軍と戦っていたのだ。シシギを逃がして、剣を取って。首筋に相手の剣が触れそうになって、それで――
「お目覚めですか?」
 傍らで声がして初めて、俺は顔をそちらへ向けた。そして、思いがけない光景に出くわし、思わず瞬きをした。
「お加減はいかがですか。なかなか目を覚まされなくて、どうしようかと心細く思っていたところでしたが」
「お前……」
「はい」
「どうしてお前がここにいるんだ、シシギ」
 目の前に、たった今、思い浮かべたばかりの男がいた。薄い木の椅子に腰を下ろして、身を起こした俺を安堵の表情で見つめている。
 そう、俺はどうやら、反射的に起き上がるまで横たえられていたようなのだ。証拠に体から滑り落ちた毛布が脚の上へ載っているし、見たことのない色と造りだが、今いる場所は多分ベッドである。
「そうだ、そもそもここは一体どこなんだ。セイジュの軍隊はどうなったんだ? お前、ここにいるということは、まさか捕らえられたのか? 俺と一緒に――」
「落ち着いてください」
 木製の古めかしいベッドと、質素な造りの部屋。一瞬、会うはずのない者に会って思考が停止していたが、どう考えてもここは俺の知る場所ではない。城はもっと華美な造りであったし、地下室のベッドは冷たいパイプのベッドだった。
 セイジュ軍の施設の中ではないかと、そう考えるのが最も妥当だった。だが、シシギはベッドから飛び降りようとした俺を慌てて押さえ、首を横に振った。
 その意味はすぐに分かった。右足の膝から下が、反応しない。
「ご安心ください。ここは、アルタイルの城下から二日ほど、西へ進んだ郊外の空き家です。セイジュの領内ではありません」
 シシギは一言一言、ゆっくりとそう告げた。まさかと思いながら、かけていた毛布をめくる。
 右足の膝より下には、何もなかった。
 見れば、斬り落とされた跡が斜めに残っている。関節は継ぎ目だ。切っ先の侵入を許す隙間が、どうしても空いてしまう。
 セイジュ軍はそんなレプリカの弱点を、よく知り尽くした人々だった。針の雨が注ぐようだと思った、躊躇いのない切っ先の束を思い出す。レプリカの体は、簡単には傷つかない。けれど限界はあるし、無敵ではない。
 この体の中で最も大きな継ぎ目――首――に剣が振り下ろされたあの瞬間、確かに終わるのを覚悟した。直後から記憶がない。
「俺は、どうして、生きている」
 途切れ途切れの問いかけに、シシギは頷いて口を開いた。
「わたくしが、貴方に生きていてほしいと、そう思って動いたからです」
「お前が?」
「玉座の奥で貴方と別れた後、わたくしは外へ逃げず、地下通路から倉庫へ向かいました。そこで何年か前に、塔の建て直しで使われた爆薬を持ち出して、あの地下室へ戻ったのです」
 俺は唖然として、目の前の男を見た。
 雨を知らない土のように、明るい茶色の髪。そこから覗くアイスブルーの眸は、嘘をついている者のそれとは思えなかった。第一、シシギは嘘をつくとき、焦りで頬を火照らせて口調が矢継ぎ早になる。二人きりのトランプで、ジョーカーなんて持っていないと言い張るときのように。
 顔を上げて、無言で頷く。シシギは促されたことを察したのか、続きを口にした。
「どうしようかとしばらく迷って、階段に爆薬を置き、雷管を取りつけてその場を離れました。建物がどうなるか予想もつかなくて、どこまで逃げたらよいのか分からなかったので、急いで裏庭へ出ました。直後でした――謁見の間が、爆発によって崩れたのは」
 体中に、突如として吹き上がった熱風が思い出される。同時に耳が壊れるかと思うほどの、轟音があったことも。
「あれは、お前だったのか。なぜそんな、危険な真似をした」
 驚きに、いっそ静まり返った声でぽつりとそう答えれば、シシギは俺に向き直って、床に膝をついた。
「身勝手な判断で、貴方を危険にさらしたこと、お詫び申し上げなくてはなりません。こうして再びお会いすることが叶いましたが、失敗すれば敵軍のみならず、貴方さえご無事では済まないかもしれなかった。でも」
「……」
「後悔を、したくはありませんでした。あのまま何もしなければ、貴方はきっと、セイジュに持ち去られていたのでしょう。それだけは許したくありませんでした。わたくしは、」
 ぐっと、シシギが拳を握る。
「どこへでも、自由になるのなら、貴方と共に行きたかったのです」
 彼は笑った。いつものように両目を閉じて。いつもより少しだけ、どんな罰でも受けようと心を決めた、晴れ晴れとした顔で。
「あの部屋は、どうなったんだ」
「崩れて、焼けました」
「お前はそこから、俺を探したのか」
「はい。ですが、炎が収まってから人が集まってくるまでの間に探したので、あまり時間がありませんでした。右手は見つけて後から接ぎ合わせましたが、右足はおそらく瓦礫の中でしょう」
「城の者らが、今ごろ騒いでいるのではないか。あの場に残っていた者で、城を壊すような者は俺か、お前のどちらかしかいない。俺にはそんなことを考えつく回路は組み込まれていなかった。……セイジュ軍も瓦礫の中だろう。疑いはすべて、姿を消したお前に降りかかって来るぞ」
「その件に関しては、大丈夫です」
 シシギはきっぱりと、俺を遮って言った。
「セイジュの名もなき兵の骨の隣に、貴方に預けたわたくしの剣を残してまいりました。ちょうど背格好のよく似た、わたくしらしい骨の隣です」
 今度こそ、俺は目を見開かざるをえなかった。もしかしたら、生きていると気づいたときより呆然としたかもしれない。
「シシギ、お前、死んだことになるつもりなのか」
「はい。おそらく、わたくしの骨として扱いを受けるでしょう。感謝をせねばなりません」
「なぜ、そこまで……お前は、どうして俺にそこまですることができるんだ」
 ずっと、ずっと。俺はこの男が分からなかった。俺に仕えて、何を思っているのか。望んでいることはあるのか、ないのか。共に過ごしていて、どう思われているのか。
 幸福なのか、不幸なのか。
「先日、貴方はわたくしの無実を信じてくださいましたね」
「無実? ああ、あの話か。確かお前が、ハルザート王の……」
「はい。ご婚約者さまと、密通したという。あれは今から、一年半ほど前の話でして」
 手を差し伸べると、シシギはようやく立ち上がって、椅子に腰かけた。
「結論としては、密通というのは噂にすぎません。わたくしと彼女の間に、通じ合う感情は何もありませんでした。ただ、それを以て無実と言い切るには、この件は少々複雑です。わたくしは愚かさという罪で、王を絶望させすぎてしまったのです」
 ぽつりぽつりと、シシギは語り始める。
 曰く、二年ほど前にアルタイルとセイジュは同盟を結び、和睦と、共にこの闘争の時代を生きてゆく証として、セイジュの姫君のアルタイルへの輿入れが決定した。迎えの準備はすぐに進められ、間もなくしてアルタイルにやってきたその姫君は、ハルザート王の勧めに従ってアルタイル王国の歴史を学ぶことになった。
 その教師役を命じられたのが、当時、下級貴族の出身でありながら、地道な仕事ぶりによってハルザート王に目を留められていたシシギである。
 シシギは姫の師となり、毎日、朝から午後までアルタイルの歴史や文化について教えた。姫は好奇心旺盛で、素直で気さくであり、シシギの教えることをまっさらな布のごとく吸収していった。
 しかし、いくら彼女が明るい性分と言えど、家族と離れて、慣れない国での生活は楽なものではない。共に過ごす時間が重なるにつれて、姫は時々そんな不安を、シシギを相手にこぼすようになっていった。
 一国の王女といっても、まだまだ十五の少女である。つい最近まで敵だったはずの国へいきなり嫁ぐことになり、どれほど困惑していることだろう。シシギは彼女の境遇に心を寄せ、ハルザート王に、結婚式の日までもう一度、祖国へ帰してやってはどうかと進言した。王は、それもそうだなと納得して、姫をいったんセイジュへ帰郷させた。
 姫は大層喜んで、シシギに連れられてセイジュへ戻った。一ヶ月後、戻ってきた彼女はセイジュの城で仕えていたというメイドを複数名つれてきた。赤ん坊のころから世話をしてもらった者たちで、彼女たちがいると、どんな場所でも家だと思える心地がするという。
 この姫の言い分を、シシギは聞き入れた。何の疑念もなく。姫の出迎えは自分に一任されていたし、王は夜まで仕事に赴いていたので、明日の朝、彼女らを雇いたいという旨を改めて伝えようと考えていた。
 その晩、ハルザート王の寝つきの赤ワインに、毒が盛られた。
「幸い、大事には至りませんでしたが、ハルザート王が数年来口にしてきたワインの絶妙な香りの差異を嗅ぎ取ってくださらなければ、今頃アルタイルは王を失っておりました。毒を入れたのは、わたくしが城に招き入れたセイジュのメイドでした。証拠となる瓶は残っていませんでしたが、渡した覚えのないアルタイルの城の制服を所持していましたので、何らかの目的をもって変装したことが決定的になったのです」
「ふん、毒殺か。古典的だが、人間であれば恐ろしい手だな」
「ええ。……わたくしは、姫がそんなことをなさるとは微塵も疑っておりませんでした。父王のご命令によって、初めからハルザート王を葬るつもりだったと。捕らえられた牢の中で、互いに壁へ背中を寄せて、そんな話を聞きました」
 王が毒を口にしなかったおかげで、事件は内々に処理された。アルタイルはその頃、北の強豪と長い戦争が続いており、ことを明らかにしてセイジュとも争うには時期が悪かったからである。姫はしばらく捕らえられ、メイドは地下牢にまとめて入れられた。シシギも事件に関わりの深い人物として、姫と同じ、石牢に捕らえられた。
「内々の決定であったお二人の婚約は破棄され、アルタイルは姫をセイジュへ帰す代わりに、鉱山の半分を含むセイジュの領土の一部と、多額の賠償を求めました。国力を削ぎ、さらにかねてより友好国と結んであった同盟への加入を求め、これによってアルタイルとセイジュは友好国とは呼べぬものの、互いに牽制しあう関係となりました」
「環状干渉同盟、か」
「そうです。あまり、長くは持ちませんでしたが」
 シシギは眉を下げて、寂しげに笑った。それは彼の元来の温厚さが作り出した笑みにも、この闘争の時代に疲れたすべての者たちの笑みにも見える表情だった。
「ことが処理されてから、わたくしは放免となりました。ハルザート王がそのようにと、一言おっしゃったそうです。ですが、石牢から出たわたくしは、もう以前と同じように扱われることはありませんでした。――下級貴族ながら、取り立てていただいて、大切なお役目を預かりました。けれどわたくしは、己の使命を間違えたのです。あくまで王のための仕事でしたのに、いつのまにかセイジュの姫を信じきり、何よりも大切な王の命を、危うく……」
「シシギ……」
「セイジュの姫君にも言われました。本当は貴方を騙して、直接、王に毒を盛らせようと思っていたのよ、と。どうしてメイドを使ったのかと訊ねたところ、あまりに簡単に自分を信じてきたので、憐れになって気が引けたのだそうです。……彼女の一抹の良心に、感謝しなければ。憐れみにさえ気がつかず、頼りにされているのだとすべてを鵜呑みにしていたわたくしは、どれほど愚かに映ったことでしょう」
 そんなことはない、と、声を張り上げて言いたかった。けれど言えなかった。すべてを否定してやることは、あまりに分かりやすい嘘で、俺にはつくことができなかった。
 純粋が過ぎたのだ、この男は。曇りのない眼で目の前にあるものを見つめ、あるがままにそれを信じて、受け入れる。素直と呼べば耳触りはいいが、疑いを知らない者に真実を見極めることはできない。王の傍にはいつも、数多の嘘や下心、時には裏切りが渦巻いているものだ。疑うことを知らずして、王を護ることはできない。
 シシギは、城へなど行くべきではなかった。きっと、初めから。
 放免されて外へ出ると、出所の分からない噂が跋扈していた。曰く、シシギがセイジュの姫と密通し、二人はそのせいで一時拘留され、婚約は破談になったのだと。
 ハルザートはそれを否定しなかった。彼はもはや、シシギに目を向けることはなくなっていた。石牢へ入る前、シシギがしていた仕事はいつの間にか名も知らない若者が引き継ぎ、彼は以前のシシギのように勤勉で誠実で、すぐに王の傍らを歩けるまでになった。
 追いやられるように、シシギの居場所はなくなった。
「来る日も来る日も、ぼうっとして過ごしておりました。王のお怒りをかったわたくしに近づこうとする者は一人もなく、自然、仕事もなくなって、城へは毎日なにをしに行くのか、自分でも分からないで行く虚しい日々でした」
「……ああ」
「でも、ちょうどそんな生活が、本当に苦しくなってきたころです。――貴方が、わたくしの前にやってきたのは」
 満面の笑顔を浮かべたシシギに、俺は瞬きをした。想像でしかなかった風景に、一気に色が塗られる。初めて目を開けた日のことを、昨日のことのように思い出した。ああ、そうだ。
「わたくしは貴方の従者となるよう命じられ、久しく失っていた役目を得ました。レプリカというものを噂に聞いたことはありましたが、この目で見るのは初めてでしたので、一体どう接したらよいのだろうと少し緊張したまま」
「……ああ」
「ですが、貴方はそんなわたくしに、当たり前のように手を差し出して、訊ねてくださった。お前の名前は、なんと呼べばいい、と」
 ――シシギと、お呼びください。
 あのとき、たった一言の返事に三秒もの時間を費やしたこの男を、頭がのろいようだと思った。脳に組み込まれていた情報によれば、人間は握手によって挨拶をするのだという。だから手を差し出した。そして人間は、個々に名前を持つ。だから訊ねた。
 それが、俺が生まれて初めて、自発的に記憶したデータだった。
「日々、周りの人々の記憶から忘れ去られ、遠ざけられてゆくわたくしを、貴方は真新しく覚えてくださりました。役目を与えられることは誇らしく、貴方に呼ばれるときは幸福でした。貴方の傍にはわたくししかいなかったのですから、貴方がわたくしを呼ぶことは至極当然だったのでしょう。それでも、わたくしには貴方に必要とされることが、大きな支えになっていたのです」
 知らなかった。
 俺の脳に、俺と出会う前のシシギのことは今この瞬間まで、何一つなかった。朗らかに、どこか不安げに、両目を閉じて笑う。山羊のように。
 それを見たとき、俺は唐突に、自分がいま、一番伝えたいと思っていることを見つけた。
「シシギ」
 呼びかけると、そっと顔を上げる。
「俺は、お前のような人間を他に知らない。こんな、血も汗もない体を清めたり、食べ物を勧めたり、機械の脳にトランプを教えたり、それで負けても笑って、次のゲームを教えてくれたりする人間を。お前といると、自分が何のために生まれてきたのか、時々分からなくなる。何者だったのか、なぜ玉座に座っていたのか。だから」
 一度でも逸らせば視線を俯かせてしまいそうなシシギの目を、真っ直ぐに見据えて、俺は言った。
「例え、何人が傍にいたとしても、隣に置くのはきっとお前だった」
 アイスブルーの眸が、鏡のように瞠られる。
 例え話は白でも黒でもない、もしもの話だ。本来、そういう話をすることを目的として作られていないはずの回路から、例えばなどという言葉がこぼれてきたことに自分でも驚く。探ってみると制御を外したからか、あるいはセイジュ軍との戦いで多少の傷を負った影響か――何かが、以前とは変わっている気がした。
 俺はその変化を、故障とは呼ばなかった。このままでいい。そう思える理屈を説明するには、俺にはまだ知らない言葉が多すぎる。王のレプリカとして必要ないと、切り捨てられた言葉で語る世界。
 俺は、自分が「感情」を必要とする大きな世界の入り口に立ったことを、本能的に悟った。
「迷惑をかける。レプリカの上に、この体だ。もしかしたら捜索もされるかもしれないし、ハルザートの顔のままでは目立ちすぎる。何かごまかす方法を見つけなくてはならないし、足も一本では、人間のように立つこともままならない。だが……」
 光が雪崩れてくるように、回路はエラーで埋め尽くされていく。制御のかからない脳に、目映い銀色の思考は溢れる。
「共に行ってくれるか、シシギ。どこへとも上手く言えないが、この先へ。俺は多分、今、生きていてよかったと思っている、気がする」
 考える、という行為をできる限り放棄して掴んだ言葉は、我ながらずいぶんと曖昧で、覚束ない足元と似ていた。
 シシギは驚きに目を染めた後、満面の笑みを浮かべて、礼儀正しい仕草で腰を折った。
「はい、わが主。喜んで、共に参ります」
「ああ、待ってくれ。それなんだが」
 遮ると、首を傾げて瞬きをする。俺は少し、言葉を探してから、途切れ途切れに話した。
「俺はもう、ハルザートではない。お前はシシギだが、もう俺がハルザートでない以上、主というのは違う気がするんだ。つまり、何と言ったらいい? もっと……」
「ええ」
「……そう。お前の、本当の言葉で聞きたいんだ。本当の気持ちを」
 沈黙を埋める、たった一言の相槌に。一人であることと二人であることの、大きな違いを目の当たりにした心地がした。シシギも同じような思いであったのかもしれない。俺と出会い、彼の長い沈黙が消えたのかもしれないと感じた。
 両目を閉じて、いつものように微笑む。そうしてシシギは、俺のよく知る穏やかな声で、言った。

「――おかえり、君とまた話すことができて、嬉しいよ」



『王国の忘れもの』/結

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