王国の忘れものT


拝謝
この作品は2014年、原案を友人である猫の字さんにいただいて製作したものです。


 シシギという男が一人いた。雨を知らない土のように明るい茶色の髪をした、これといって取り上げる部分のない、平凡な面立ちの男だ。剣の腕はそれなりに立ったが、どちらかといえば字を書かせると上手く、おっとりとして人の手で育てられた山羊のように温厚である。
 そうだ、シシギは少し、山羊に似ていた。笑うといつも目を閉じるし、美味いものを食べても笑うので目を閉じる。中でも胡桃のパンが好きだった。もぐもぐと口を動かしているとき、彼はいつも、俺が断ることを知っていながら「ハルザート様もいかがですか」と口癖のように決まって言ったのだ。
「食物は俺に必要ないと、何度言ったら分かる」
「申し訳ありません。ただ、今日のパンがあまりに、焼き立てで美味しゅうございましたので」
「美味い、不味いを判別する機能は俺には備わっていないものだ。美味いと思うなら、お前が食ったらいいだろう」
 ありがたき幸せ、と目を閉じて笑う。側近はその、シシギという男ただ一人だった。
 無論、建前としては他にも大勢、連なっていることになっている。だが、それらはすべて本物の王の持ち物であって、俺のものではなかった。事実、必要のないときは誰も傍に寄ってはこない。
 置物の王――あるいは、表の王とも言えるのか――偽りの王である俺に与えられているのは、シシギのみである。それと、争いの絶えない闘争の時代となった今、本物の王を護るため、彼に代わって腰かけているこの玉座だろうか。否、これも本来はハルザートの所有であろう。やはり、俺の持ち物と呼べるのはこの、どこか間の抜けた男ひとりだ。
 仮にも玉座の置かれた間で、せっせとパンを口に運ぶシシギを見る。別に、礼儀がどうこうなどと思うわけではない。人間が食物を摂取しなければ生きられないものだということくらいは、銀や鋼を組み合わせて造られた俺の頭の中にも、最低限の知識として埋め込まれている。人間とは、不便な生き物なのだろう。飲まず食わずでは動くこともかなわず、剣や槍はおろか、矢の一本、石の一つで傷を負って、命を落とす。
 どれだけ立場のある人間でも同じように脆いというのだから、防具を纏い、必死に傷を負うまいとしてきた彼らが、技術を発達させた結果、同じ材料で身代わりのものを造ろうと考えたのも、至極当然の結論かもしれない。近頃、膚の一枚下が肉であるのか鋼であるのか、斬ってみなければ分からない王を玉座に据えているのはどこの国でも同じだ。
 もっとも、見た目を造り上げる技術は芸術と呼べる域に達しているが、肉体の動作という面ではまだまだ、生身の人間のそれを再生することはかなわない。戦争をするのは人間で、敗けても王だけは、偽物を差し出して生きながらえる。そしてまた別の偽物を立てて、戦争をするのだ。
 闘争の時代は実質、二十を超える国々の王たちによる、本物を捕らえるまでのいたちごっこである。彼らのレプリカが生み出される限り、終わることはない。
「お前、飲み物はなくていいのか」
「それが、パンのあまりのいい香りに、用意するのを忘れてしまいまして」
「人間は、喉にものが詰まっただけでも死ぬのだろう。メイドにでも用意させたらどうなんだ」
 シシギは曖昧に、へらりと笑った。彼は人間だった。
 王の皮を被ったロボットでしかない俺に「正式に」仕えることを、この城で唯一任ぜられているシシギが、俺の存在をどう思っているのかは知らない。訊ねたことはないし、多分、この先も訊くことはないだろう。
 俺の仕事はただ一つ、繰り返される戦争の次の敗北で、本物のハルザートに代わってここから引きずりおろされることだけだ。この国が王を模したロボットの製造に成功したのは俺が初だというから、この仕事を成し遂げるのも、きっと俺が最初になるのだろう。
 それについてどう思うかと問われれば、特にはどうということも。壊れることへの恐怖や何かを憎む感情は、備えつけられてはいなかった。


 さあさあと降る雨の向こうに、見慣れた景色が霞んでいる。謁見の間は入り口から玉座の方向を見れば豪奢に趣向が凝らされているが、玉座に腰かけて入り口を向けば、存外味気ないものだ。
 見えるのは、開け放たれた扉の先の廊下。その廊下に作りつけられた窓の向こうの、街の中心を見下ろす風景。城そのものが高台に建てられているだけあって、玉座からでもその景色は一望できる。
 圧巻、というべきだろう。まさしく、王の見る景色。
 だが、遠いのだ。
 窓越しの街は一枚の絵のように、一軒一軒の屋根は小さく、大通りでさえ俺の指一本ほどあるかどうか。人間の生活は見えない。自転車も犬も区別がつかない。
 動くもののない視界に、飽きが来るのは早い。展望には一日で慣れた。今では壁の模様と同じである。
 さあさあと、雨の膜がその景色を灰色に覆っている。
「おい、お前」
 耐えかねて、俺はシシギを呼んだ。執務室から持ち込んだ小さな机を使って、古い書類の整理をしていたシシギが顔を上げる。
「何かしろ」
「は?」
「少しの間、何かしてくれ。今日のお前の動きは単調だ。見ていても飽きる。雨と同じくらいに」
 雨は嫌いだ。機械の体に、水は毒でしかない。ただでさえ思うように、器用に動くことはない体が、湿気を受けるといっそうぎこちなく、不調でだるくなる。こんな日は自由に動けない。蓄えられたエネルギーが切れてスリープする時間まで、座っているほかない。
「ハルザート様、退屈しておられるのですね」
 シシギはなぜだか嬉しそうに、顔を輝かせた。
「では、わたくしが何かお相手を。チェスはいかがですか?」
「策略のいるゲームは嫌いだ」
「では、トランプ?」
「今日は持てない」
 ぎしりと、上手く動かない指を握ってみせる。
「では、なぞなぞにいたしましょう」
「お前、そんなもの出せるのか?」
「出せますとも。準備はいいですか、いきますよ」
 目を閉じて、笑う。山羊のように。シシギの目が意外に涼しげなアイスブルーをしていることに気づいたのは、わりと最近のことだ。シシギは俺と目を合わせるとき、ほとんどその目を閉じていると言ってもいい。
「はじめ四本脚、次に二本脚。さいごは三本脚になる生き物、なーんでしょう?」
 宣言通り、すぐに出された問題に俺は瞬きをした。聞いたことのない情報だ。回路を急きたてて頭の中を隅まで浚ってみたが、該当する答えは何も引っかからない。そもそも、三本脚の生き物とはなんだ。奇数で立つものなど俺は知らない。偶数と違って、想像するとそこはかとなく気持ちが悪い。
「残念! 時間切れです」
 時計を見て一分を数えていたシシギが、明るい声で言った。
「は?」
「なぞなぞには、時間制限があるものです」
「なんだ、その決まりは」
「永遠に答えを探すのは、疲れてしまいますからね。それともハルザート様は、まだお考えになりますか?」
 俺は、考える、と即答したかった。でも、答えが自力で導けないことも何となく分かっていた。あらゆる思考の経路を埋め込まれたこの脳は、知っていることに関してはいくらでも知を吐き出せる。だが、知らないことは考えても無駄なのだ。教えられて、追加した事柄しか引き出すことはできない。
 そして俺の脳内には、ハルザートとして――この国を統べ、護り、導いて戦い、最期のときがくれば潔く身を捧げる若き国王として――振る舞うための知恵しか入れられていない。
 生活の基礎。人間の動作。言葉。
 チェスは教養として組み込まれていた。トランプの使い方は、共に過ごすようになってシシギから教えられた。退屈しのぎに丁度よかったので、記憶した。シシギは――
「正解は、人間。ヒトでした」
 彼の名前は、後から憶えたものの最初の一つだ。
 この上なく不可解だ、という顔でその足元を見た俺に、得意げに胸を張って解説をする。曰く、人は歳をとって杖をついて歩くようになる。両足と杖。だから三本脚というのだと。
「人間が考えそうな、言葉の抜け穴。こじつけだな」
「頭が良いと思いませんか」
「このなぞなぞは、お前が作ったのか?」
「まさか。とんでもありません、誰でも一度は悩まされる、昔からのなぞなぞですよ」
 シシギは照れたように、顔の前で手を振った。大方そんなところだろうと、分かってはいたけれども。
 雨はまだ降りやまない。水に濡れても動いていられるという点においては、人間の体は鋼より遥かに優れていると思う。
「シシギ」
「はい、二問目に参りましょうか?」
「いや。お前、退屈ではないのか?」
 シシギは言葉を理解しかねたのか、首を傾げる。
「雨だからと俺に付き合って、一日中ここにいる必要はないのだぞ。湿気はだるいが、故障するわけでもない。見張っていなくても、逃げ出したりはしない」
「それは、わたくしにどういう……?」
「散歩に行ったり、他の人間と話したり、もっとそういうことをしてきてもいいと言っているんだ。悪くないなぞなぞだった。今度はお前が、どこかで退屈を晴らしてきてもいい番だろう」
 俺は、言葉を生み出す経路が人間と違い、電子の中にあって、白か黒かで割り切れない曖昧なものを説明することは苦手だった。シシギは少し頭がのろくて、大体いつも、俺と話すのに難儀しているように見えた。
 後になって思えばそれはまったくの逆で、シシギは俺の言葉を一度呑み込み、誤解なく解釈し、その上で俺に伝わりやすい返事を考えていたのだと分かる。だからよく、俺たちの会話には間が空いた。
 彼はへらりと、眉を下げて笑った。
「わたくしは晴天でも、いつもここにおりますが」
 言われてみれば、そうだった。人間とは晴れの日に外で働き、雨の日には中で働くという、基礎教養データが邪魔をしている。俺は例外ありとそれを書き換えた。

 例外…シシギ
 理由…不明

「どこへも行かないのだな、お前は」
 退屈ではないのだろうか、いつもここにいることは。人間は不規則に動き、不特定多数と話し、活動する生き物だ。退屈ではないのだろうか。俺と、同じもののように、傍にいることは。
「ハルザート様に、行けと言われない限りは」
「ふうん」
「あ、厨房へは時々、行かせていただいております。忙しく働いたわけではなくても、お腹は空いてしまいますので、食事を取りに」
 言って、思い出したように彼は時計を見上げた。針はちょうど、午後三時を指している。厨房で胡桃のパンが焼き上がる時間だ。
「行ってきたらどうだ?」
「すみません、良いでしょうか」
「俺は構わない。飲み物を忘れるなよ」
 思わずといった様子で立ち上がったシシギは、それでも一応、俺の許可を得てから行こうとする。行ってまいります、と出ていく背中が昼の食事のときより浮かれているから、人間の食の好みというものは、栄養価や素材の価値とは別の地点に存在する評価なのだろう。
 窓の外を、見るともなしに眺める。俺はそれから、シシギが机に置いていったファイルに目を留めた。
「967年……?」
 それは今から、二十年以上も前の資料をまとめたファイルのようだった。なぜこんなに昔のものを、整理する必要があるのだろう。
 人間の生活には、まだまだ理解の届かない部分が多い。俺は首を捻ったが、降り続く雨のせいで頭までがだるく、それ以上は考えるのをやめた。


 西の砦が落とされて、城内は人が慌ただしく動き回っている。昨日未明、他の数国を含めた環状干渉同盟の一国であったセイジュが起こした突然の反乱は、ここアルタイルにおいて寝耳に水だった。
 陰謀、寝返り、共同戦線。どれもありふれた策であり、引っかかるのも引っかけるのも、もう互いにどの国がどの国へ何度目だったかなど憶えていない。セイジュとの同盟がこういった形で破棄されたのは、俺が生まれてからは初めてだが、ハルザートの時代になってすでに、片手で数えられる回数は超えている。
「申し上げます、フレイザー将軍より――」
 謁見の間に駆け込んできた兵士が、俺に跪いて伝言をしようとする。俺は玉座を立って、手のひらでそれを制止した。
「落ち着け、よく見てくれ。俺だ」
「……は?」
「ハルザート王のレプリカだ。あなたはずっと西の砦にいたのなら知らなかったかもしれないが、去年より、ここで務めに就いている」
「レプリカ……」
 唖然とした顔で繰り返してから、兵士は辺りを見回した。ようやく、本物の王の前にしては、人が少なすぎることに気づいたらしい。
 長らく戦地に居続けて、俺が置かれたことを知らされていなかったのだろう。昨日から、度々同じように飛び込んできた兵士を案内している。
「本物は北塔に身を隠している。門兵が通したのなら身元は保証されているのだろうが、念のため、そこにいる者を付き添わせる。――シシギ」
「はい」
「この者をハルザート王のところへ」
 机に向かって黙々とファイルを片づけていたシシギの存在に、兵士はこのときやっと気づいたようだ。あからさまに驚いた顔をした彼に、シシギは一礼して、行きましょうと背中を押した。
 騒ぎに紛れて余計な者が離れの塔へ入り込むことのないよう、王のもとへは城内の者を案内としてつけるのが原則だ。だが、こんなときでも俺の傍にいるのはシシギ一人である。ゆえに彼は昨日から、北塔とこの謁見の間を何度も行ったり来たりしていた。
 謁見の間に見向きもせず、兵士たちが廊下を慌ただしく通っていく。
「救援の部隊は、誰が率いるんだ。エルウィン様も怪我で下がっておられるし……」
「東のほうから救援を呼ぼうにも、あちらはあちらで手いっぱいのようだからなあ。おれはやはり、シシギ様を呼び戻すべきだって――」
 思いがけない名前に、顔を上げた。兵士たちはすでに、扉の前を過ぎている。
「おい、馬鹿なことは言うなよ。ハルザート様に聞かれたら」
「だってさあ、何かの間違いだろう。王様の次の側近とまで言われていたあの、誠実を絵に描いたようなシシギ様が」
 開け放った扉に手をかけ、一歩踏み出す。廊下を曲がる最後の瞬間、首を傾げて、その兵士は言った。
「ありえないと思うんだよな。――ハルザート様が内々に婚約していたセイジュの姫に、手を出した、なんてさ」
 陰謀の匂いしかしないな。だろう、そう思うだろう。だけどあの方も、潔白を証明する方法を考えないのはどうしてかねえ。それはお前、王様がお聞きにならないから。いやいやどうもそれだけにしては、おれは……
「――ハルザート様?」
 はっと、全身が軋みそうなほど、瞬間的に振り返った。シシギが扉に張りついた俺を、不思議そうに見ていた。
「ああ、帰ったのか」
「はい。離れの塔といっても、庭を抜けてしまえばすぐですから」
「そうだな。……ハルザートは」
「いらっしゃいましたよ。先ほどの者は、確かに王のもとへ案内しました」
 笑う、目を閉じて。いつも通りに。
 兵士たちの話に集中していた俺は、シシギがいつから後ろに立っていたのか、分からなかった。同じ話を、シシギも聞いていただろうか。否、聞いていたらもっと取り乱してもよいのではないだろうか。
 態度があまりに普段通りで、よく分からない。聞いていたと言われれば納得もするし、聞いていないと言われればそんな態度であるように思う。
「シシギ、お前……」
「はい」
 ふわりと、彼は首を傾げた。
「……いや、やはりいい。悪いな、何か言おうと思っていたのだが、忘れたようだ」
 俺は、訊けなかった。
 躊躇いという感性が自分の中に宿っていることに、心の底から驚かざるをえない。白でも黒でもない判断を、俺は下したのだ。
 回路がじりじりと熱を持つ。考えかけたことを途中で濁したせいで、細かいエラーが砂嵐のように発生している。額の裏が熱い。熱を覚まさなくては。システムは正常だ。回路を一旦、初めに戻す必要がある。そうだ、初めはなぜ躊躇ったのだろう。俺はなぜ、疑問に思ったことを「訊ねない」という選択を、

『――――』

 内部の熱が急上昇して、すべての機能が一旦停止を余儀なくされた。糸が切られたように膝から力が抜け、体が傾いていく。
「ハルザート様」
 瞼の裏でバチンと電気が弾ける瞬間に、シシギの声が聞こえた気がした。差し伸べられた腕を間近にして、思う。
 鋼の体はきっと、人間の腕には重かろう。離していいと言いたかったが、口が開かず、意識もそこで途切れた。

 夢を見ていた。ひどくぼやけた、不鮮明な夢を。シシギが丁重に膝をついて何事か口にし、上着を脱がして背中のボルトを緩め、接続されていた手足を外した。
 五つになった俺の体を、彼は一つ一つ、両手で持って運んだ。謁見の間から繋がる地下室に、広いベッドが置かれている。見取り図には決して載せられていない部屋で、夜になるとここでエネルギーの充電を行っている。シシギは持ってきた俺の体をベッドの上で繋ぎ直すと、いつものように、腕のボルトを外して充電を行った。シャツの前を開き、そのままどこかへ去っていく。
 やがて戻ってきた彼は、ハンガーに上着をかけ、俺の頬に何かを当てた。――布だ。
 ごくわずかな水気を含ませた布が、頬や瞼、顎から首へと滑っていく。直後に乾いた布で上から拭き取られ、水分が残ることは一切なかった。胸を拭き、腹を拭き、手足に少し時間をかける。最後に裏返されて、背中に布が触れた。
「今日も一日、お疲れさまでした。少し早いですが、たまにはたくさん眠る日があっても良いはずですからね」
 おやすみなさい、と彼は言う。瞼も開かないが口も開かない。動作をするにはエネルギーがまだ足りていないようだ。
 意識が途切れ途切れになる。俺は体内のスイッチを、スリープモードに切り替えた。

 翌朝、シシギに起こされた俺は、特にエラーも残っておらず落ち着いていた。手足はしっかり接続されているし、腕のボルトも締められている。いつも通りシャツを着て、豪奢な刺繍の上着を羽織っていた。
「それでは、謁見の間にまいりましょう。今日はとても天気がいいのです。ドアを開けますが、きっと眩しいですよ」
 挨拶がてらの会話をしながら、先導するシシギの後ろ姿を見つめ、俺は自分の身に視線を落とす。
 上着が皺にならない理由など、考えたことはなかった。手足に汚れが残っていない理由も、髪が綺麗に梳かされている理由も。
 ロボットは夢を見ない。あれはすべて、急な終了によって体内をスリープモードにしていなかった俺が、わずかに意識を取り戻し、途切れ途切れに見た現実の光景だ。
(例えそうして、どれだけ尽くしたとして、俺は)
 本物の王どころか、人間ですらない。置物なのに。
 階段の上から射した光に目を伏せる。ドアを開けたシシギはそんな俺を見て、快晴ですよと笑った。


 セイジュの軍隊は西を突破してなだれ込み、寸でのところで前線に咲き返ったエルウィン将軍率いる部隊により一度は戦力を削がれたものの、最終的には将軍を捕らえ、退くことなくアルタイルの城下へ攻め入った。セイジュの士気は高く、付け焼刃で編成された救援軍はことごとく破れて、アルタイル軍はあっという間に散り散りになっていく。
 西の砦が落とされてから二国の勝敗が目に見えてくるまで、二週間とかからなかった。気づけば圧倒的な劣勢に追い込まれていた。そういう感覚だ。
 曲がりなりにも自分の国の滅びてゆく様を見るのだから、もっと絶望や、底のない恐怖というものを感じられる気がしていた。だが、そんなものは俺に備わっていなかった。存外あっけなく終わるのだ、という実感ばかりが胸を過ぎる。
 そう、胸を過ぎる。それくらいの感傷的表現は、機械の体でも許されるのではないだろうか。言葉を、知っている限り。
「ハルザート様」
 開け放してばかりだった謁見の間の扉は、この数日間、仰々しく閉められている。ノックもなく姿を見せた男に、玉座の上で組んでいた脚を下ろし、俺は微笑んだ。
「シシギ。王の避難は済んだのか」
「滞りなく完了されたと、先ほど伝令の者が参りました。側近の皆さまも、すでに準備を整えてお城を発たれたとのこと」
「そうか、他に残っている者は?」
「メイドが数名と、見張りの兵士がある程度。彼らもすでに支度を始めております」
「分かった」
 城内はもぬけの空だ。閑散として、謁見の間の前には飾りの甲冑すら立てられていない。価値のあるものは皆持ち出され、それに伴って、人は逃げ出した。玉座の上にあるものが、レプリカであることを隠す気持ちすらない。
「ならば、シシギ。お前も彼らと共にここを出ろ。長らくの務めに、感謝する」
 セイジュの軍隊は城門を目にした時点で、気づくだろう。けれど彼らはやってくる。城に踏み込んで、残された俺を探し出し、鋼の首を斬る。自国に持ち帰って、確かに敵の本城まで攻め込んだという証に代えるため。
 偽物の首でも、彼らには剣を振るう価値があるのだ。愕然と表情を失くしたシシギに向き直って、俺はあまり言葉を選ばず、淡々と言った。
「お前一人が残ったところで、勝負はすでに見えているだろう。ここにいれば、お前は間違いなく殺される」
「しかし」
「俺一人が残れば、すべて済む話だ。レプリカの首を獲れば、今日のところはセイジュも手を引く。多分、交渉になるだろう。アルタイルは敗けるだろうが、上手くすれば、交渉を長引かせる間に、態勢を立て直すこともできるかもしれない。軍の被害はまだ、壊滅的というほどではないはずだ。無駄な抵抗は見せないほうがいい」
 痛みを感じる神経は備わっていない。あるのはただ、衝撃のみだ。抗って戦うには、この体の動きは鈍すぎる。元より、この日のために生まれた。役目を果たす心構えなら、生まれたときから備えつけられている。
「何をおっしゃるかと思えば」
「シシギ?」
「行きません。ハルザート様、わたくしは、ここに残ります」
 へらりと、シシギは笑った。
「共に戦いましょう。最後まで、お護りします。わが主。そのために、戻ってまいりました」
 今度は俺が唖然とする番だった。
 跪き、まるで本物の王に仕えるように忠誠を誓ったシシギの腰に、いつもはなかった剣が提げられている。華美な装飾に彩られた王家のそれとはまったく違う、質素な鞘に納められた、頑丈そうな柄を持つ一振りの剣だった。
 シシギの言葉がぐるぐると、頭を過ぎっている。知らない言語のように。わが主。彼はそう言った。お護りします、と。
 それの意味するところは、ただ一つ。
「馬鹿なことを言うな。命を捨てたいのか?」
 あまりにも明白な、シシギの死である。
 呆れと困惑で声を歪ませた俺に、シシギは否定も肯定もしなかった。ただ、いつものように目を閉じて笑っていた。何を考えているのだろう、否、何も考えていないのか。押し寄せる刃に貫かれて生きていられる人間など存在しない。
 シシギは死ぬのだ。確実に。この男はそれを、どうして分かっていないのだろう。
「お前に、明日は来なくなるのだぞ」
「はい」
「焼きたてのパンも、二度と食えないんだ」
「はい」
「……楽に死ねるとは限らないぞ。捕虜にされて、城の人間だと分かったら、拷問を受けるかもしれない。俺は王の居所も知らないし、痛みも感じない。吐けることは何もないんだ。でも」
「そんなものは、わたくしも存じ上げませんよ」
「は? なんだって?」
 暢気な声で返された言葉に、耳を疑う。指先に骨の軋む感触があった。いつの間にか詰め寄るように、シシギの肩を掴んでいた手を離す。
「ハルザート王の行き先は、わたくしも聞いておりません。伝令の者から聞いたのは、王は無事に避難を済ませ、城の者も皆、順次向かっているから心配はない。それだけです」
「なんだ、それは……? それでは、お前は――」
 お前はどこへ向かう約束になっているのか、と。問いかけようとしたところで、俺はようやく、一つの可能性に気がついた。
 ただ一人、城に残されることが決まっている俺の元へ、伝令を持って帰されてきたシシギ。人々がどこへ行ったのかも知らず、最後に一人、敵の迫るこの場所へ向かわされてきたこの男。
 即ち、彼もまた、残されたものなのではないか、ということに。
 気づいてしまうと、可能性はみるみる色づいていき、確信に変わった。思い当たる光景が、記憶の中にいくつも鏤められていた。
 シシギはなぜ、いつも一人、あの謁見の間で食事を摂らされていたのだろうか? 食事だけではない、仕事も一人だった。その仕事もなぜ、古いファイルの整理ばかり、日がな一日繰り返していたのだろうか? 与えられなかったからだ。シシギには、仕事らしい仕事というものがなかった。
 ――たった一人、俺に仕え、身の回りの世話をする、という孤独な仕事以外。

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