おいで、嘘吐き

 貴方を愛するということの結末は、どんなものなんだろう、と思う。

「柏木さん、お疲れ」
「お疲れ様です」
 時計の針が定時を回って、半分ほど過ぎたいつもの更衣室。デスクの離れている人とも、ロッカーは近かったりする。制服を脱いで着替えていると、髪をほどいた彼女がふと「そのワンピース、いい」と言った。ありがとう、と返して、彼女の恰好も眺める。
「気に入ってたカーディガン、最近着ないね」
「そうなの、着たいんだけどちょっと暑くて。もう春なんだなって、また秋までしまっとこうかなって感じ」
 ブラウスに膝丈のスカートを合わせ、薄手のトレンチコートをはおって、彼女は思い出したようにお化粧を直す。かくいう私も先週、冬物のコートやセーターをクリーニングに出した。
 三月もあと一週間足らず。世間はすっかり春モードで、ぼんやりと寒さを感じる日はあっても、気分はもう春に向かっている。東京で桜が咲いた。そんなニュースもすでに流れた。
「ねえ柏木さん、このあと暇じゃない?」
「え、どうして?」
「何人か誘って飲みにいこうってなってるんだけど、よかったら来ないかなと思って。女の子のほうが多いけど、西田くんとか間島くんとか、瀬野さんとか、男の人も呼んでるんだ。気を遣わなくてよさそうな人だけ、こっそり」
 ぜひどうかな、と。口紅をきゅっと引きながら、彼女は笑った。中々に良さそうなメンバーだ。面倒くさい飲み会ではないし、乗りたい誘いだったような気もするのだけれど。
「ごめん、今日はちょっと寄るところがあって」
「あ、そうなの?」
「残念だけど、また今度誘って? 楽しんできてね」
 ストールを巻き、申し訳なく断った私に、彼女は分かったと言って「それじゃあ、お疲れさま」と見送ってくれた。少し急いでいるのも見抜かれたらしい。
 オフィスを出て、裏口からすぐの場所にあるコンビニを目指す。途中、飲み会に誘われているといった男性陣がそれとなく、煙草でも買いにいくふうを装って立ち話をしているのを見かけた。女性陣の合流を待っているのだろう。間島くんは去年の春に入社した、一番の新人だけれど、ちょっと間が抜けているところも含めてうまくやっているみたいだ。女の人からの評判も悪くない。
 自動ドアをくぐる。店員がいらっしゃいませと、パンの棚の向こうで声を上げる。
 そう、間島くんが、一番の新人だ。彼以降、うちの会社に入った人はいない。少なくとも、私が知る限りでは、みんなそう思っている。
 去年の秋に入社して、ハロウィンの夜を境に消えた松田くんのことは、私以外の記憶からはすっかり消えていた。私の隣のデスクには、誰もいないことが当たり前で、そこが異様に片づけられていることにも誰一人として疑問を持たなかった。松田くんの入社した痕跡は消えていた。名前の入ったものはことごとくなくなり、社内メールのアドレス一覧からも彼の存在は消えてなくなった。私たちがやりとりしたメールも、残っていない。
 松田くんは、と言った私に、課長は笑って「誰の話だ」と言った。
 あれだけ松田くん一色に騒いでいた女性社員たちも、何事もなかったかのように元に戻った。人間が突然消えたとき、その人のことが記憶からも消されるなんてことは、普通はありえないだろう。ありえてしまうのは、松田くんがやはり、普通の人間ではなかったからなのだ。きっと彼は最初から、目的を果たしたら姿を眩ますために、何らかの手を打ってあったのだろう。
(私が、例外だったのは)
 ドアを入ってすぐのところにある、小さな機械を見つけて、画面に触れる。
(……殺される、いえ、食べられる予定だったから)
 漠然と、でもはっきりと、今となってはそう理解している。松田くんの目的は、私だった。血肉をなのか魂をなのか両方をなのか分からないけれど、私を食べるために、やってきたものだった。あのときの私は、救われた。けれど松田くんの遺した言葉を、信じるならば。
『チケットを発券します』
 そもそも松田くんが私に目をつけたのは、私が彼≠フ、獲物だと思ったからだ。
 ピー、という機械音と共に出てきた二枚の紙を取って、レジへ向かう。店員がパンのかごを置いて、慌ただしくやってきた。

 ぽつぽつと降り出した小雨に傘を濡らしながら、あんまんを片手に歩く。春の気配につい浮かされているけれど、天気の悪化と夜が重なるとまだまだ結構寒い。ふー、と湯気を冷まして、あんまんの真ん中のあんが一番詰まったところを頬張る。舌に乗る甘さと熱さが、じんわりと体を温める心地がした。
 公園のベンチに、黒い帽子を被った背中を見つけて、あんまんをしまう。代わりにバッグから、薄い封筒を一枚取り出して、私は歩み寄った。
「……わっ!」
「何、叶恵」
「……つまんないの。ちっとも驚かなかったわね」
「驚くと思ったわけ?」
「ううん、貴方に驚かれたらこっちが驚いたと思うわ」
 キシシ、と尖った歯を見せて笑う。相変わらず黒づくめの、この得体の知れない友人は、最近また以前よりも頻繁に見かけるようになった。公園に来れば、大体三回に二回くらいは会える。用がないときも引き留められるけれど、おかげさまでこちらから用があるときも探すのが楽になった。
「雨なんだから、傘くらい差しなさいよ。ここでずぶ濡れじゃ、浮浪者と変わらないわよ」
「平気だって、濡れないから」
「はあ?」
「触ってみな?」
 黒い袖口から覗く、骨ばった手が差し出される。一瞬ためらって顔を見ると、にやにやと挑発的な微笑みを浮かべていて、イラッとした。せっかくあんまんで温まったんだけど、と思いながら、手の甲に触れてみる。体温の低い手。でも、ちっとも濡れてはいない。
 もう一度、目を合わせた。思わず、深いため息が漏れた。
「貴方って、すっかり人間じゃないこと隠さなくなってきたわね」
「さあね。手品かもしんないよ」
「冗談にも程がある」
 薄い手のひらを裏返して、持ってきた封筒を握らせた。なにこれ、とでも言いたげに、表情が少し真顔になる。
「チケットよ。今度の金曜日、私と出かけましょ」
「平日って、あんた仕事じゃん」
「有給も思い通りに取れないほど、もう下っ端じゃないの」
「お局? ていうか、金曜って……ふうん。いいけど」
 ぶんっと、振りかぶった手は軽く避けられた。別にお局じゃない。まだ。
「気が乗ったら、迎えに来て」
「え、俺が行くんだ?」
「どうせここにいるか、どこにもいないかでしょ。近くなんだからいいじゃない、それくらいはしてくれたって」
 公園と私のアパートなんて、目と鼻の先である。駅を越えて迎えにきて、と言っているわけでもないのだし、別にいいだろう。
 なんて、本当は建前で、外で待ち合わせをするのが怖いだけだけれど。チケットは受け取られたけれど、私はいまいち、この男が待ち合わせ場所に来るのかどうか確信が持てない。待ちぼうけになりたくないのだ。
「いい天気になるといいわね」
 黒いジャケットの黒いポケットに消えていく封筒を見送って、私はそれだけ言い残し、背中を向けた。追いかけてくる声はない。雨脚が強くなる前に、アパートに着こうと歩調を速めた。

 平日午前のテーマパークは、ぬるい日射しの溜まり場になって、眠気と紙一重の長閑さの中を風船がぷかぷかと漂っている。ポップ体で書かれた案内に従って入場ゲートをくぐるのは、私たちだけ。ようこそ、と二枚のチケットが切られ、日付印を押した半券が返ってきた。
「まさか、あんたが有給取ってまで遊園地で遊びたい年頃だったとはねぇ」
 くあ、と欠伸を一つして、春の陽気が最上級に似合わない男はポケットに半券を押し込んだ。そうね、まさか私も本当に、貴方が来るとは思わなかったんだけど。返しかけた言葉を心の中にしまって、「そう?」と適当にあしらう。
 午前九時きっかりに鳴らされた玄関のチャイムは、最初、宅配便か何かかと思ってあまり期待せずに出た。この男のことだ、どうせ来ないか、何か仕掛けてくるか、こちらが焦れて公園に行ったらちゃっかり待っているか、とにかく一筋縄ではいかないだろうと思っていたので、完全に気を抜いていた。
 や、と笑まれたとき、第一声が「ドアから来るとは思わなかったわ」だったのも、驚きが一周回った結果なので許してもらいたい。拍子抜けするほどすんなりと、彼は私を迎えに来た。
 電車に揺られて一時間ちょっとで、着いたのは近場の古い遊園地。快速列車さえ止まらない小さな駅に建っている。あまりに古めかしかったからだろう、思い出の場所か何かなの、と訊かれたが、別にそういうわけではなく私も初めて来た。突飛なことがしたい気分だったのだ。だって、今日は。
「せっかく来たんだし、何か乗りましょうよ」
「はいはい」
「あ、地図があるわ。どれにしようかしら……」
 嘘吐きだって許される、特別な日だから。
 四月一日の日付印を手のひらで眺めて、半券をパスケースにしまう。理由なんてなんだっていい。遊びたかったから、サボりたかったから、思い出の場所だから、貴方と話がしたかったから。どれが本当で嘘かなんて、見極める必要のない、稀有な日だから。
「このコースターにしましょうよ」
「え、ヤダ」
「あら? もしかして絶叫系苦手?」
「あんまり好きじゃないね」
「……へええ、そお」
 に、と口元に笑みが浮かぶ。
「じゃ、決定だわ」
 私は逃げられないように、渾身の力で腕を絡めた。

 空がぐるぐる、足元を回っている。
「あっはっは、あんたってほんと騙されやすいね」
 おかしい、私はベンチに座っているはずなのだけれど。うう、と呻きながら隣で面白げに笑っている男の、組んだ膝を平手ではたく。何が「あんまり好きじゃない」だ。底抜けに遊べるタイプではないか。
「ダイジョーブ?」
「心がこもってない」
「だから最初に、やめとかない? って訊いたのに」
「うるさい……、私は一回乗るつもりだったの! あんた何、十回チケットなんか買って来てんのよ……それ、団体用のやつ……うええ」
「おお、よーしよし」
「気持ち悪さを煽る触り方しないでくれる!? あれはっ、二人で使うようなチケットじゃないっての……!」
 う、と騒ぎすぎたせいか、また地面が回り始めた。力なく引っぱたいた私の手をつかまえて、確信犯は飄々と笑うだけ。朝食を軽めにしていてよかったと、これほど思ったことは今までにない。ペットボトルの水を煽った。澄んだ冷たさが、少しずつ酔いを宥めていく。
「落ち着いた?」
「ええ、オカゲサマで」
「心がこもってないぜ」
「そりゃあね」
 深呼吸とため息の中間みたいな呼吸を繰り返す私の横で、地図が広げられる。横顔を見ていて思い出した。そういえば、この人、自由飛行も可能なんだった。ジェットコースターなんて、怖がるはずがなかった。
「叶恵」
「なに」
「これ行こ、次」
 とんとん、と黒い爪が園内の一角を指さす。
「お化け屋敷、って書いてある気がするんだけど」
「うん」
「……上等だわ。あんたより危ないオバケなんてそうそういないでしょ」
「あ、そんなこと言うと――……」
「……え、何よ?」
「内緒。気にしなくていいんじゃない?」
「は? え、ちょっと何する気?」
 腕を引かれて立ち上がりながら、訊けども答えは返ってこない。日溜りを撹拌するみたいに、追いかけあって歩く私たちは、傍から見ればきっとのんきな恋人同士なのだろう。やあいらっしゃい、と声がかかる。どうぞ。よく分からない、遊園地のキャラクターをプリントしたシールが差し出された。背中にそっと貼ってやろうとして、失敗に終わる。お化け屋敷が遠くに見えてきた。

 お化け屋敷は地方の遊園地らしい、そこそこのクオリティと薄暗さの中を、相棒と共に迷宮から脱出せよというありがちな設定に乗っかって進んでいくものだった。大したこともなく終わりそうだと思っていたら、ゴール間際にお化けではなく、相棒のはずの相手から影で首を撫で上げられて今日一番の悲鳴を上げた。きっと控えていたお化けのほうが、何事かと思ったことだろう。
 腹いせにメリーゴーランドに乗せた。白馬が最強に似合わない。笑ってばかりで写真を取り損ねたのが残念だけれど、私もメリーゴーランドなんて乗ったのは十年ぶりくらいだ。
 からかわれるのは承知で、もう一回乗った。今度は二人で、かぼちゃの馬車を模した丸っこいのに。私たち以外には誰もいない、真昼のメリーゴーランドは、きらきら幼稚なメロディと共に春の風を纏って回る。
 家族連れに交じってコーヒーカップを飛ばし、レストランに入った時点でとっくに正午を回っていた。そういえばまともなものは食べるんだろうかと今さら気になったけれど、別に食べられないわけではないらしい。ミートソースのスパゲッティと、透明カップに注がれたアイスコーヒー。だけどきっと、本当の食事はそういうものではないのだろう。
 ゲームコーナーを覗いて対戦ゲームをいくつかやって、トラムに乗って園内を反対側まで回り、平地を走る気楽なコースターや自分たちで動かす小舟のようなものに乗った。ペダルを踏み込むタイミングがつくづく合わないようで、舟は水飛沫を上げながら同じところをぐるぐる回って、水面に溜まった桜の花びらを四方に散らした。
「美味しい……」
 今はその桜の木の根元で、ベンチに並んでアイスクリームを食べている。
 一週間前にはやっと開花したようなことを言っていた桜も、今ではちょうど満開を迎えて、私たちの上に花びらを散らしていた。散々遊びまわっていたせいだろう、足元に落ちた花びらを眺めてふと長閑さを思い出してしまうと、気が抜けたみたいにぼうっとしてしまう。そういえば平日だったんだ、と数時間ぶりに思い出した。少し離れたところでアイスクリーム屋台の人が、空に向かって欠伸をしている。
(もうすぐ五時か……)
 腕時計を見て、私は正面の西の空に目を向けた。じきに赤さを増す気配を静かに湛えた太陽がある。周囲は青いのに、眸に射し込む光の鋭さだけがもう夕方だ。昼の日差しと違って、目映く細い。
「子供はそろそろ、帰るのかね」
 ぱき、とアイスのコーンをかじって、しばらく黙っていた声が言った。そうねえ、と遠くを歩いていく家族連れを眺める。ひとけがなくなってきたからだろう、箒を持った清掃員が通りかかり、私たちがいることに気づいてそれとなく離れていった。一瞬、私の隣の男を見てぎょっとした目になる。無理もない。遊園地には似つかわしくない、黒づくめの不審者だ。
 でも、すぐに和やかな表情に変わる。何があったのかと思って見てみると、外面のいいことで、穏やかな微笑みを浮かべて会釈なぞ交わしている。そうして愛想よくしていると、売れないヴィジュアル系か、好意的に見ればお忍びのモデルか何かに見えないこともない。スタイルの良さが、内面のねじくれ具合を綺麗に覆い隠している。
 空になったアイスの包みを、手の中で畳んだ。
「まだ行きたいとこ、ある?」
 地図を手に、いつ食べ終わっていたのだろう、脚を組んでそう訊かれた。行きたいところは、もうそれほどない。ここまで来たら全部回ってやろうか、みたいな気持ちも多少は湧いているけれど、それをするには少々疲れた。鞄を開けて、財布を取り出す。中身を確認すると、目的のものは余るほどあった。
「……これで」
 十円玉を一枚、差し出す。
「何か一つ、私のこと騙して」
 まっすぐに顔を上げて告げれば、伸びた前髪の向こうから視線が重なったような気がした。エイプリルフールはとっくに終わった時間だけれど、今だけ延長ということで。だめかな、と視線を逸らす程度の短い沈黙を経て、手のひらからするりと、十円玉が掬い取られた。
 そのまま、上を向いた口の中に消えていく。コイントスのように弾かれて、くるくると。
「じゃあ」
「ええ」
「あれに乗りたい。あんたと」
 差された指の先を追う。沈みかけの太陽を背負って、観覧車がゆっくりと回っていた。赤青黄色のゴンドラの窓に、人影はほとんどない。西日が揺れる窓を貫いて、私たちのところまで射してくる。
「いいわね、乗りましょ」
 ああこれは、本当の嘘なのか、どうなのか。分からないけれど、それでいい。今はまだ、曖昧なままで。
 立ち上がって、ごみ箱にアイスの包み紙を放り込み、私たちは並んで歩き出した。

 閉園を告げるメロディが、藍色の遊園地をゆるやかに流れている。
 観覧車に乗り、園内をゆっくりと一周して回るうち、もう一度ゲートが見えてくる頃にはすっかり日が沈みきっていた。家族層向けの遊園地であるここは、七時には閉園する。ぽつぽつと灯るアトラクションの明かりが、ノスタルジーを深くする。ジェットコースターは最後の運行を終えたけれど、メリーゴーランドはぎりぎりまで動くようだ。でも、もう誰も乗っていない。
「やっぱり、夜は結構冷えるわね」
 外していたストールを首に巻いて、私はふうと、もう白くはない息を吐いた。
「さっきまで気にも留めてなかったくせに」
「それは、遊んでたから」
「冷え込んできたのも気づかないほど?」
 からかうような、笑いまじりの声。以前は嘲笑われているようでいちいち気になったこの調子に、慣れてきたのはいつ頃のことだったのだろう。そうよ、と正直に返すと、それ以上は何も言ってこない。冷えた手を擦り合わせて、光に翳した。
「今日は、来てくれてありがとう」
「……何、改まって」
「楽しかった。……貴方は、どうだったか分からないけど」
 オレンジの、豆電球の群れみたいな遊園地の夜は、空の藍色によく映えて見つめた人の輪郭がじんわり滲む。光と闇の境界に溶けていく。黒髪をふわりと、風が揺らした。
「分かんないなら、分かんなくていいよ」
「……あっそ」
「でも、俺がつまんないことに一日付き合うかどうかくらい、ほんとは分かってるんじゃないの。あんたは」
 閉園のメロディにかき消されそうなくらい、密やかな声だった。でも、確かに私の耳へ届くように、足を止めて囁かれた言葉でもあった。
 ああ、そうか。そうなのか。
 いっそ「最悪だった」とでも笑ってくれれば引き返せたかもしれないのに、ここでそんなふうに認められてしまっては、私にはもう躊躇う理由がなくなってしまう。止まったままの足で向き合えば、彼も自然と私を見た。意を決して開いた口に、春の夜気が、言葉を押し出すように忍び込む。
「貴方に、全部、あげるわ」
 声にした瞬間、目の前の、人を食ったような笑いが固まった。唇が何かを言おうとして一旦閉ざされ、それからふっと、わずかに視線を逸らして笑った。
「残念。それは乗りかえの言葉なんだ」
「じゃあ、契約の言葉を教えて」
「ヤダね。あんたには教えられない」
「……っ、どうして? 貴方、いつか私を食べる悪魔なんじゃないの?」
「逆に聞きたいよ。どうしてそこまで分かってて、あんたは契約の言葉なんか言いたいの。分かってる? 契約するって、いつか確実に$Hわれるってことだよ」
 つ、と喉を黒い爪が辿った。薄皮を破るための、目印の線をつけるみたいに、わずかな力を入れて引っかかれる。飲みこんだ固唾に、喉が震えた。
 それでも、今この話をやめたら、永遠にはぐらかされてしまうような気がした。
「……傍にいて、ほしいのよ」
「……は……?」
「貴方の言ういつか≠ェ、明日なのか、六十年後なのか分かんないけど。契約すれば、貴方は私の傍にいてくれるんでしょう?」
 脳裏に甦るのは、ハロウィンの夜。松田くんは確かに言っていた――『契約者じゃないなら、なんでお前みたいなのが傍にいるんだ』と。それはつまり、契約者ならば、傍にいるのが普通ということではないのか。
「私、貴方のことが好きだわ」
 一年越しの告白の返事は、もはや返事とは呼べないかもしれない。ただの告白だ。去年の今日、本当か嘘か分からない正午きっかりの告白で私の心を盛大にかき乱した男は、嘘吐きの時間はとっくに終わった私からの告白に、息を呑んだ。
 喉に突き立てられたままの、爪の力がかすかに緩む。でもね、と私は静かに、振り絞るようにつけ加えた。
「私、普通の恋がしたいのよ」
「叶恵……?」
「普通の、どこにでもあるような、普通よりちょっと幸せな恋。今日みたいに遊園地に行ったり、食事に行ったりしたい。手を繋いで歩きたいし、旅行に行ったり、将来のことを考えたりしたい。電話もメールもしたいし、会いたいときに会いたいって言えないのも嫌」
 そう、それが昔から変わらない、私にとっての恋の理想だ。だけどここで、もう一度だけ。でもね、を言わせてほしい。
「そういう普通のこと全部、貴方としたいの。矛盾してるって分かってるけど、貴方がいいのよ」
 ぎゅう、と懇願するように握ったシャツは、夜を掴んでいるよりも黒い。底なしの闇に向かって叫んでいるみたいで、苦しくなる。
 分かっているのだ。普通を望むなら、普通の相手を選ぶところから始めなくてはならないことくらい。でも、できないのだ。悔しいけれど、今日一日を過ごしてみて、はっきりと自覚した。
 私は結局、この人と一緒にいるときが、一番幸せなんじゃないか、と。
「貴方が、好き」
 生命なんて、いつかは絶えるものだから。奪われたっていい。その代わり、そのときが来るまでは、私の願う普通の恋に付き合っていてほしい。傍にいてほしいのだ。結局のところ、ただそれだけだ。本当は、世界のどこにいるのだとしてもいい。電話をかけて、私の「会いたい」の一言で、空からでも窓からでもドアからでもいいから会える人になってほしい。
「あんたって、本当に……」
 すいと、突きつけられていた指が離れた。そのまま彷徨い、糸を絡めるように私の髪の先に触れて――やがて、くつくつと笑い声が漏れ聞こえてきた。
 見れば、人の一世一代の告白に、肩を震わせている。メリーゴーランドが最後の回転を始め、やたらにきらきらした音楽がいっそう、笑いを誘っていた。
「いや、うん。悪いね、なんて言ったらいいのか」
「何よ、なんなのよ……! 別に笑うことないでしょう」
「あんたって本当、面白いっていうのかな? 可笑しい、とは違うんだよねぇ。飽きないっていうか……」
「笑いどころじゃないんだけど」
「うん、分かってんだけどね。なんだろ、これ。……ああ、分かったかも」
 人の抗議を受け流して、何が「なんだろう」なのか、一人で何かを考え込んでいた男はようやく顔を上げた。そうしてくしゃりと、帽子を押さえて、その真っ黒な前髪の奥から私を見つめて、悪戯に笑った。
「もしかして、これが可愛い≠チて感情かな」
 え、と。瞬きも忘れた私の唇に、柔らかな感触が重なる。薄くて体温の低い、そっけない唇。馬鹿にしたような笑いばかり浮かべているそれでも、触れれば柔らかいんだと、見当違いなところに驚いた。ゆるりと離れた先で、漆黒の眸に一粒、遠いオレンジの光が沈んでいる。
 いつか、こんなふうに奪われる魂なら、それも悪くない。
 私は密かにそう思って、もう一度瞼を下ろした。



〈シリーズ・公園の悪魔/完〉

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