片道シャンゼリゼU

 ねえ、と笑う彼ほど、万華鏡の化身という言葉が似合う人を、私は他に知らない。
 ああ美しいよ、と背の低いほうの男が言いながら、ゆっくりと近づいてきた。息を殺す私の横で、楼主だろうか、二人の男は口々に、世間話のように言葉を交わす。
「東国の、辺境のほうでたまに見かける病気だそうだけどなあ。現地の人でも発症は稀だっていうのに、気の毒なもんだ」
「多分、客にもらったんだろうけどよ。何せ誰が運んできたかも分からないし、向こうにも薬はねえんだろ? 罹ったら、どうしてんだかね」
「お前さん、知らなかったのか」
「何かあるのか?」
「憐れなもんだよ、万華病の患者ってのは大体、最期は剥製にされちまうのさ」
「はあ?」
 背の高いほうの男が、頓狂な声を上げた。しい、と諌められて、慌てて口を塞いでいる。
 植木の陰にいた私も、同じく自分の口を覆っていた。もう片方の手で、胸を押さえた。心臓が冷たく騒いでいる。手を離したら、声が、心臓が、この身からすぐにでも飛び出してしまいそうだ。
「あの太夫、たまにさ、手や頬に色がついているときがあったろう」
「ああ」
「あれは、万華鏡に乗っ取られかかってる証拠なんだよ。万華病っていうのは、最初に影が感染して、進行するとあの七色の影に体中が侵されていく。そうなるとな、脳まで侵されてるから、もう人格も元のままじゃいられなくなるのさ」
「そんな……」
「だから、次第に手に負えなくなっていって……肌に、一番綺麗に万華鏡が乗っかった状態で、今だとばかりに殺されることが多いんだよ。その状態で剥製にすりゃ、とんでもない値がつく。万条屋も、いずれはそうやって元を取るつもりだったから、あの太夫には部屋から着物から、格別の待遇をしてきたんじゃねえのかな」
 気の毒な話だよ、と、万条屋か華か、どちらに同情しているのか定かでないまま、男はぼやいた。二人は声を落として話しながら、私の視界の中をゆっくりと過ぎていって、やがて足音も聞こえなくなった。
「帰るのかい」
「っ!」
 ふらふらと立ち上がった背に、静かな声がかけられる。
 肩を飛び上がらせ、振り返ると、二階から私を見下ろしていた男娼がいつのまにか、すぐ傍に立っていた。
「ええ、行かないと」
「あんた、噂の太夫の馴染み?」
「……いえ、別にそういうわけでもないわ。私のことを、誰かに……」
「言いやしないよ。別に、どうだっていい」
 薄く笑みを刷いて、煙管を片手に、傍観するように男は言った。
「ただ俺は、教えにきてやっただけさ。もうすぐ、大門の警備が交代する。そうなったら、出ていくときにまた足止めをされるだろうから――帰るなら、早めに帰りな」
 細い煙が、風に乗って道をまっすぐに流れていく。
「どうして、わざわざ」
「別に、深い意味はないよ。ただ、見たいだけ」
「見たい?」
「通り一番の太夫がここを逃げて、運命が変わるのかどうか、とか」
 煙はやがて、細く薄く、糸のように伸ばされて見えなくなった。
 会釈を残して、礼は言わずに背中を向ける。言ってしまったら、私が彼の言う〈通り一番の太夫〉を知っていると、認めてしまうようなものだ。鳶色の目に見送られて、私は通りを、心持ち急いで歩いた。
 大門に着くと、警備はちょうど入れ替わろうとしているときで、元の男が私を見とめて、お疲れさんですと一礼した。
 私も彼らに礼を返して、何事もなかったように門を出た。そうして道を曲がって、繁華街の片隅に滑り込んでから、深呼吸のつもりで吐き出した息は大きく震えていた。

 その晩、私はランタンの小さな明かりを手元に置いて、暗い部屋の中で本を捲っていた。花街の帰りに見つけたその本は、とある医師が書き残したという、東国の古い旅行記。
 書中の一項に、風土病、奇病についての記録があり、その中のさらに一頁を見つけ出して、私は黙々と目で追っていく。
 万華病について。
 そこに記載されているのは、医師が現地で生活する間に出会ったという「奥の子」という少女と、彼女が患う、目を疑うような「鮮やかな病」の一連の記録だった。村長の孫であった少女はいつも、屋敷の一番奥の部屋に閉じ込められていて、彼女の存在は公然の秘密と化していたという。
 家に滞在した医師の腕を見込んで、村長がその子を診せたが、手の打ち方は見いだせなかった。
 何せ、少女は健康体だったのだから。
 体に万華鏡を飼っていること以外、どこにも弱いところはなく、生活に支障もなければ、精神的な衰弱も見られない。ただその影が赤に青に、シャリンシャリンと音を立てながら常に動いており、時々、肌に這いのぼっている。
「私に、何か用なの?」
 厚い本を机に下ろすと、ランタンの火はかすかに揺れた。薄く開いていたドアから、滑り込むように、影が入ってくる。
 影――そう、影だ。今の華は華であって華でなく、その身を七色の煌めきに侵されて佇んでいる。その煌めきの底に、本当の華がいる。私の拾った、しなやかで寂しい、黒一色の猫が。
「ドア、閉めて。そこは寒いでしょう」
 声をかけると、たじろぐように肩を引いた。手招きをする。静かな所作がおとなしやかに見せているが、決して小さくも、痩せ細っているわけでもない体が、薄暗闇に足を踏み入れた。
 左の頬に青色が散っている。それは首へ続き、襟元で一度隠され、袖から覗いた手の先まで大きく張り巡らされていた。
「不安なの?」
「……っ、どうして?」
「この本に、書いてあった。青色に多く占領されているとき、万華病の患者は疑い深くなり、慎重で冷静だって」
「な……」
「赤は逆なのね、感情的で大胆、突飛……、黄色は子供っぽくて紫は享楽的。色の持つイメージが反映されるのかしら。合ってる?」
 半ば確信を持った私の問いに、華は六花をばらまいたかのごとき青白い頬を左右に振った。
「何の、ことだか」
「貴方のことよ。……万華病、なのよね?」
「何の話でしょう? この体のことを仰っているなら、私は」
「奇術でも病でもなく、昔からこんな体質、と? ごまかすってことは、まだ華の意識が残ってる。恒常的に脳が侵されるまではいってない……私とした会話を、思い出せるのね」
 言葉を遮り、畳みかける私に、華がぐっと唾を飲んだのが見えた。
 思い出すのは、最初に会ったときの彼の言葉。もしかしたら本当に、華は自分の体を病だとは知らなかったのかもしれない。けれどそれなら、逃げてくる必要などない。
 待遇の良かったという万条屋から、華が逃げてきたのは、やはり自分の病と命運を知っていたからではないのか。
「私を、騙したの?」
「そうだと言ったら?」
「どうとも思わない。だって、探らなかったのは私だもの」
「……ええ、本当にね」
「分からないって顔してる。私がどうして今まで、貴方のことをろくに訊かなかったのか、不思議?」
 ふ、と華は笑んだ。眉を下げた、いつもの婀娜めいた微笑みとは違うそれが、肯定であることは言われなくとも伝わってくる。
 ずっと、本心では気がかりだったのだろうか。そんな素振り、ほとんど見せないから分からなかったけれど。
「執着なんて、別にしていないつもりだったからよ」
 墨色の眸が、はっと揺らいで見えた。
「私、貴方はいつか突然、細く開いた窓から出ていくんじゃないかしらって思ってた。私が捨てたらいなくなるんじゃなく、貴方の思ったタイミングで、特に理由なんてなく」
 でも、そうはならなかった。
 猫のように気まぐれを装いながら、その実、華は籠の鳥で、私が扉を開けたままにしても逃げてゆくそぶりを見せなかった。だから、馴染んでしまった。すぐ隣に、華がいることに。
 いつか出ていくものだと思っていたことさえ、忘れていた。
「僕だって、それは同じですよ」
 くしゃりと、髪をかき乱して華は私を見下ろした。青を侵食するように、頬に緑が射し込んでいる。
「明日には捨てるようなことを言ったくせに、貴方の明日は一体、いつになったらやってくるんです。捨てられるのを待つのは、もう飽きたと言いたくなってしまう」
「華……」
「貴方は僕に執着しているんじゃないかと、……手放す気をなくしているんじゃないかと、錯覚しそうになります」
 細められたその目がゆっくりと閉じ、華の体が傾いて、静かに崩れ落ちた。細い寝息が聞こえてくる。私はしばらく、呆然と床に倒れた華を見つめてから、そっと近づいて、うつぶせになった体を横に起こした。
 眠っている。最初に部屋へ入ってきた夜のようだ。白磁の輪郭を縁取る黒髪と、居所を探すように這いまわる色とりどりの煌めき。見れば赤や紫など、先ほどまではなかった色も、青や緑に割り込むようにして華の上に現れていた。
 七色の興亡を宥めるように、手のひらを滑らせて思う。
 蓬莱の玉の枝のように価値があり、生きて扱いは難しく、楼主や医師であっても儘ならない。
 冷静に考えれば、手放すべき代物なのだ。普通の人間の手に負えるものではないと分かっている。けれど手放すということは、万条屋に返すということだ。そしてゆくゆくは。
 末路など一つしか見えなくて、想像を振り払うように、かぶりを振った。
 私はこの万華鏡を、どうしたいのだろう。

 何を思っても日は明け暮れて、どんな秘密を抱えた身の上にも、日差しは降り注ぐ。
 繁華街の菓子屋で胡桃のタルトを買って、いつものように数日分の食事を選びに店を眺め歩いた私は、疲れた足を休めようと路地裏の喫茶店へ爪先を向けたところで、頭上から注いだ光の眩しさに目を細めた。
 万華病のことを知ってから、何日が経っただろう。私の家には今も、かつての太夫が猫のように暮らしていて、暖炉に薪をくべ、編み物をする私の横で、古い銀食器を磨いたりして過ごしている。
 あの晩、私と話したことを、華は覚えていないと言った。かけておいた毛布は目が覚めると私の上にあり、おはようと声をかけると、昨夜はまた潜り込んでみたいでご免なさいとだけ笑った。私が本を読んでいたことも、二人で交わした言葉も、記憶にないそうだ。
 私は、万華鏡が体に投影される理由を訊ねた。華は袖を口元に当てて、さあ、そういう体質なので、と言った。
 影は、華がしゃんとしているときにはほとんど、体にのぼってくることはない。浅く眠ったときや、何かに没頭して気を抜いているようなとき、ふらりと膚を染める。きっと、華自身の意識が強いときには、脳が万華鏡を抑え込んでいるのだろう。七色の意識と華の意識とは、常に競り合っている。
 それはいつか、決着のつく争いなのだ。
 そして決着がついたあかつきには、きっと世間の多くは、華を。
「――ン、っ!?」
 頭に猟銃の影がひやりと思い浮かんだとき、角を曲がったはずの体が、強い力で引き戻された。よろめいた私を押さえつけた腕が、鼻先にしめった布を押し当ててくる。
 息を呑んだ私は、甘さと苦さの入りまじった強烈な匂いを、胸いっぱいに吸ってしまった。
 視界が暗雲を散らしたように、濁っていく。意識の絶える最後の瞬間、振り上げた腕は、何者かに捕まれた。


 ――奥の間の少女は次第に赤色を帯びていく傾向が強くなり、やがて赤が群を抜いて他の色に勝るようになるころには、すでに日中も赤に支配され、その人格を失いつつあった。赤色は情熱的かつ短絡的で、愛と憎が表裏一体となった激情の化身のような生き物だった。調査に赴いて私は何度、まだ年端もゆかない彼女に婀娜めいた悪を感じて戦慄したか分からない。彼女はすでに、少女というより一介の魔性に近かった。私に跨り、首に手をかけたあの子の、底抜けに蠱惑的な微笑みを忘れることはないだろう。
『東方探訪記/万華病について/奥の間の少女の最期』より抜粋


 きんと冷えた床の、冷たさが脚にしみて目を覚ました。薄く開けた瞼の間から見えたのは、灰色の石の床と、広がったスカート。身じろぎをしようとして、腕が上にあることに気づく。
 ジャラ、と重たい金属の音が、石の部屋に響いた。
「やあ、お目覚めでいらっしゃるかな」
 正面から聞こえた声に、顔を上げる。
 太い、木の格子の向こう側で椅子に腰かけた袴姿の男が一人、脚を組んでこちらを見下ろしていた。
「……万条屋」
 浅く息を吸って呟くと、男はおやという顔をする。呆気に取られたというよりは、どこか嬉しそうな、愉快なものを見るような目で、白髪まじりの眉毛を吊り上げてくつりと笑んだ。
「名乗らずとも、私の名前をご存知とは。うちにいらしていただいたことはないと記憶しているが、どこかでお会いしたかね。……それとも」
「……」
「何か、私に捕らえられるような心当たりがおありかな」
 恰幅の良い、初老の男だが、だらしなさよりも威厳があり、老いよりも年季を感じる。万条屋はその視線の一つ、仕草の一端から、生きてきた年数に恥じない賢さを滲ませた男だった。
 勝てないな、と瞬時に悟る。私はこの、自分より遥かに深く長く、世を生きてきた男と渡り合えるほど、明晰な女ではない。
 ただの、娘だ。見た目の年齢以上には別段なんの隠し持った能もない、普通の女だ。
「万華鏡をひとつ、捜しているんだ」
 ぎっと、椅子の軋む音が聞こえた。
「大方の場所は掴んでいるが、確信がない。何せ門の記録を元に、何をしにきたのか分からないお嬢さんを一人、探り出しただけだからね」
「……そのお嬢さんが、貴方の捜し物を持っていると?」
「私はそう踏んでいるよ――ある程度の証拠も掴んでいる」
 格子の隙間から、ひらりと寫眞が差し込まれる。そこに写っていたのは、薪を抱えて勝手口の扉を閉める、華の姿だった。
 格子の前に立ち、私の顔を眺めていた万条屋は、やがてその場にしゃがみ込んだ。
 そしてゆっくり、諭すように華の寫眞と私を視線で指して、口を開いた。
「分かっているよ。あなたが私から、盗みを働こうとしたわけではないだろうとも。誘いをかけて、転がり込んだのは万華鏡のほうだ」
「……」
「だが、あなたもおかしく思ったからこそ、この通りを訪ねてきたんじゃないかね。どうだい、人のものと分かった以上、返すのが道理とあなたも悩んでいたのではないのかな」
 こうして私に捕らわれた末のことであれば、大人しく手放しても、あなたが薄情ということにはならないと思うが、と。万条屋はあくまで私の立場を考慮したように、そそのかした。
 門の記録を、元に。脳裏に鳶色の目をした男娼がよみがえってくる。彼ではなかった。私の出入りが万条屋に通じたのは、ひとえに、私があの大門の管理を見くびっていたせいだ。
 失せものを捜すのは当たり前。盗人が浮かび上がれば、恨むのも当たり前。
 ならば私が万条屋に捕らわれたことだって、可哀相なことでも何でもない。
「華は、うちにいるわよ」
「そうかい、やはり……」
「でも、返すつもりはない」
 ただの、因果応報だ。そう思ったら、心の芯にへばりついていた恐怖が断ち切られた。万条屋の細い目が、驚きに大きく見開かれる。
 最初から分かっていたことだ。あんな美しいものが、誰の所有物でもないはずはないことくらい。私には分不相応の、落し物であることくらい。
 分かっていたけれど、私は拾った。迂闊に手を出す代物ではないと察していながら、手放せなかった。今だって同じだ。華はうちにいる。私の手にある。分かっていながら手放さなかったという事実が、私の望みをもうずっと、物語っていたのではないか。
「華は、貴方に返さない。剥製になんか、させない」
「……そうは言われてもね。お嬢さん、あなただって見たろう。別人のように七色に変わる、あの姿を」
「ええ」
「同情なら、やめておきなさい。遅かれ早かれ、あなたが拾った華は消える。代わりに何が残るかも分からないんだから」
 万条屋は肩を竦めた。呆れを隠す気配のない目には、いっそ初めよりも人間味が見える。馬鹿はやめなさいと、年配者として私を諭す気持ちも決してゼロではないのかもしれない。
 けれど私は、頷かなかった。脳裏によみがえるのは真夜中、赤に青に染まりながら、私の前に現れた華の姿。
「……それなら八人と出会うつもりで生きていく、と言ったら?」
「何?」
「華がこの先、何色になったとしても、いつか私のことが分からなくなっても、私は八人の華と出会ったつもりで、それぞれと関係を築いていく。幼かろうが、狂っていようが、今の華と比べたりしないわ。同じ名前の別の人だと思って、どの色も受け入れる」
 彼らの私を視る眼差しは、それぞれに違っている。けれどただ一つ、共通していたのは、受け入れられることを望んでいたということだ。多分、すべてが別の人格だったとしても、根底には華がいる。
 何者になっても首輪を繋いでいてくれる、自分を捨てない場所がほしいという、理性を保った平時では絶対口にしない華の望みが。
「私は、華がどんなに凶暴になっても、手を噛めない相手になってみせる」
「っ、たわけが!」
 蹴り上げられた格子が、激しい音を立てて揺れた。とっさに跳ね上がった両肩の先で、鎖の音が重たく響く。格子の隙間から見上げた、万条屋のこめかみには青筋が浮かんでいた。
「夢物語を言ってまで、私にあれを返したくないか。この状況で、その有様で、本当はお前なぞどうとでもしてやれるが、太夫が女と駆け落ちしたとなれば、お前も華もただでは済まない。あれを傷物にするには惜しいから、お前は無事でいるのだぞ。お前の命が守られているのではない。状況が分からんか」
 力任せに、万条屋は近くにあった杭のようなものを引いた。途端、腕が引きあげられ、脚が中途半端に床を離れる。
 自重に軋む手首が痛い。跳ね返すように睨みつければ、一瞬の激昂はいくぶんかなりを潜めたのか、万条屋は唸るように告げた。
「あれは、私の資産だ」
「資産……ですって?」
「そうとも。ただの老いて年季を明けていく太夫ではない、生きて稼ぎ、若く美しいうちに、死んでまた大輪の華を咲かせることが約束された資産だ。あの身一つで、家一軒、百の陶磁、千の銀、生涯において困らない財を私は得ることができる。浮世に寂れて死んでいく不安から、救われることができる。恐ろしいのは飢え死ぬことだけだ――私はそれさえ避けられるならば、生霊に身をつつかれても生きてゆける」
 杭が離され、体が床に叩きつけられた。けれど痛みより、私は万条屋の言葉に強く引きつけられていた。
 顔を上げ、飢えとは程遠く肥えた男の目の奥を覗き込む。
 暗く沈んだその芯に、男が万条屋と呼ばれるずっと昔の、眼窩まで黒々と染みついた死の恐怖を垣間見た気がした。
「貴方は……、華が欲しいわけじゃなく、安心できるだけの資産が欲しいの?」
 探るように問えば、万条屋はまるで、私の問いのほうが至極当たり前のことだと言いたげに眉を寄せた。
 稀少性への執着や、自分のもとを逃げ出した者への執着ですらなく。この男はただ、華の持つ価値、それ自体に目を置いている。
 ――ああ、それならば私は。
「……聞いて、大切な話をしたいから、鎖を外してもらえないかしら。万条屋、私と――」
 脳裏に、七色の煌めきが滲む。
 その底に潜んでいる、今にも埋もれてしまいそうなたった一つの闇。いつまであるか分からない、束の間の夜のような黒。
 私は貴方に、すべてを賭そう。

 地下牢に騒々しい足音が聞こえてきたのは、拘束を外された私が壁にもたれてひと眠りし、体の芯に残っていた薬のだるさがちょうど抜けた頃だった。閂を開け、階段を駆け下りてくる足音が聞こえる。
 ガラスの砕けるような音。こんな足音で歩く人を、私は二人と知らない。
「華さん、格子の鍵は……」
「うるさい、ここの構造くらい知ってます」
 らしくない罵声に、乾いた喉から笑いが漏れてしまう。耳聡い黒猫はその声を聞きつけたのだろう。ばさりと羽織のひるがえる音がして、格子戸が外されるまで、あっというまの出来事だった。
「なんだ、そこを動かせば外せたのね。自分で出ておけばよかった」
「……っ、貴方は何をやっているんですか」
「ごめんね、迎えに来てもらっちゃどっちが飼い主だか分からないわよね。でも、そろそろ出たいと思ってたから、丁度よかった」
 私の目ではどこが継ぎ目なのかも分からなかった、精巧に作られた扉を床に投げ出して、華は肩で息をしている。走ってきたのだろうか。なんて似合わない所作だ。想像すると面白くて、少し笑ってしまう。
「行きましょう、華」
 牢を出て、手を差し伸べると、華はぎっと奥歯を噛みしめた。遅れて階段を下りてきた下男が、動こうとしない華を見つめて狼狽している。
 私は黙って、答えを待った。暗闇の中、足元で静かに万華鏡が回り、やがて華が震えるように唇を開いた。
「貴方が万条屋と、取引をしたと」
「ええ」
「家にいたら、突然見知った顔が入ってきて、呼び出されました。代わりにもう、この家の一切合財は万条屋のものになったと言って」
「ええ」
 鼈甲の眼鏡の奥で、墨色の目が歪む。
 怒りも、呆れも、困惑も、すべてがこんなにはっきりと華の顔に浮かぶところを、初めて見た。太夫と言えどもやはり人間なのだ、と漠然と納得する。元、太夫とつけるべきなのかもしれないが。
「正気ですか。全財産と引き換えに、僕を買い上げたなんて」
 つい先刻、私の手で太夫の称号を剥奪されたばかりのその男は、男娼であった頃には絶対に見せなかったような顔をしても、やはり美しかった。
 私と万条屋は、取引を交わした。この世に一つの万華鏡と、この手に溢れていたすべてのものを引き換えに、互いの要求に決着をつけたのだ。
「正気かどうかって訊かれると、正直どうかしらとは思うけど」
「……っ、だったら」
「でも、仕方ないじゃない。比べものにならなかったんだから」
 答えると、華は戸惑った顔で、何かを言いかけていた口を噤む。突飛な思い付きだったのは自覚している。けれどそれが、私には最良の選択だった。
 引き換えにした家の、リビング、部屋、二階まで、隅々までを思い返す。情景の中で、別れを告げることに迷いはなかった。静まり返った家具や柱だって、もう何年も埃の下にあって、私の声などとっくに聞こえていない。
 そして私も、思い返しても思い出せない部分がたくさんある。それが答えだ。
「私、あの家に好きなものなんて一つもなかったのよ」
「え……」
「どこで何をして、何でできたお金で買ったのか、両親が集めるだけ集めて死んだ、価値の分からないお宝ばっかり。私にはいつも、あの家が薄暗くて後ろめたいものに見えたわ。お金だってそう。束になってるのを見れば見るほど、誰かの恨み、苦しみの塊を掴んでる気がして、結局大して使いたいとも思わなかった」
「……貴方」
「欲しいものなんて、何もなかったの。手放したくないものなんて、この世にあると思ったこともなかった。この意味が分かる?」
 後悔など、するはずもない。
「華、貴方は私が人生で初めて、自分の意思で手を出したものだわ」
 選択は初めから、二つに一つなどではなかったのだから。私には迷える理由がなかった。華と同じ天秤に乗せるものなど、持っていなかった。
「行きましょう、華。ここは少し窮屈だから」
「……ええ」
「続きは外で。歩きながらにしましょう」
 差し出した手を、いつかのように華が掬い取る。口付けるかと思ったが、身を屈めた彼は祈るように私の指へ額を当てて、立ち上がった。
 その顔は私の知る、いつもの華に戻っていた。
 階段に足をかけた私たちを、下男は止めない。外に出てみて牢がまさしく、万条屋の楼の真下にあったことを知ったが、私をそこに放り込んだ万条屋の姿はなかった。
 万条屋はいくつもの花街の、一番奥に建っていた。通りは水を打ったように静かだ。人っ子一人歩いていない砂利道に、夕の日差しが赤く広がって、大門の向こうに続く街を朱色に染めている。どこからか漏れ聞こえてきた琴の音色が静寂を破って、華が初めて、黄昏ですねと小さく口を開いた。
 大門を抜けるとき、私はそうねと答えた。警備は私たちに何も言わない。ちらと目をくれてそのまま、退屈そうに笠を持ち上げて、何も変わったことのない通りを見やる。
 シャリン、シャリン、と小さな音を足元に引きずって、繁華街を通り抜け、港を横目に歩く間、私はひたすら、この雲一つない夕空のように、もうなんにも持っていないのだということを実感していた。ただ一つ、あの空にも煌々と光が燃えている。私の手には燃え尽きそうな闇が繋がれていて、その下で爆発のときを待つ色とりどりの光は、赤に青にと移ろいながらきっと今夜も私に語りかける。
 どうか、手放さないでいてと。繋ぎとめていてと。
「これから、どうするつもりですか」
 歩き続ける私に、華が問いかけた。そうねえと頷いて、牢の中で華を待つ間、微睡みながら考えていた行き先を打ち明ける。
「大陸へ行くわ」
「は……?」
「船に乗って、案外すぐよ。小さな頃に行った記憶があるの。貴方の着物、ちょっと目立つし……買い換えれば、切符代くらい浮くでしょう。いい?」
「それは、別に構いませんが」
「大陸へ行って、先のことはそこで考えましょう。貴方のことを誰も知らない場所へ行って、慎ましくてもいいけど、逃げも隠れもせずに暮らすの。私は貴方と隠れて生きるために、貴方を買ったわけじゃないんだから」
 港に碇泊する船の一隻が、汽笛を鳴らした。その奥に、三日に一度やってくる大陸からの船の復路に乗って、昔一度だけこの海を渡ったことがある。降りた大地は雑多な場所で、酸いも甘いも、聖も俗も、様々なものが入り乱れて慌ただしく動いており、混沌として煌びやかだった。
 あの街で、喧騒の片隅に紛れて、静かに暮らしていきたい。華のことを、本当も嘘も、誰も気に留めない場所で。
 ひいふう、と切符代を考えて指を折った私に、華がぽつりと、思い出したように口を開いた。
「一つだけ、お願いがあります」
「何?」
「いつか、後悔で死にたくなったら、先に殺してください」
 閉じかけた片手を、思わず開く。
 華は笑っていた。ゆるりと目を細めて、唇に月を描いて薄く、いつものように淡々とした笑みを浮かべて、言葉を握りこませるように、強く私の手を握った。
 結んでいた唇から、ふ、と笑いがこぼれ落ちる。
「分かった。誓うわ」
「……そんなにあっさり約束してくれるんですか。僕にはやっぱり、貴方はよく分からない」
 呆れたようにため息をつきながら、華はそれでもどこか、躊躇の断ち切れた顔をした。私は望んでいる。そんな日はやって来ないことを。けれど約束する。いつか、心の底からすべてを放棄したいときがやってきたら、今ここにいる、私が手に入れた、最初の華との誓いを守ると。
 例え、そのとき私の傍にいる華が、何色の華であったとしても。
 芯に眠る一片の黒を目がけて、もう一度貴方が欲しくなったのだと、私は笑おう。



〈片道シャンゼリゼ/終〉

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