フロウ・ライトU



「いい歳なさって、あんたさんは結構お転婆だこと」
 かっか、と夫人のしゃがれた笑い声が居間に響く。体というものは、動かさずにいるとつくづくどこもかしこも錆びて、一人では何もままならなくなってしまうのだと心から思い知った。
 私の腕はもう、背中には届かないようだ。窟の中で打ちつけた肩甲骨の下の辺りと、とっさに腕を伸ばしてひねった肝臓の後ろの辺りがぎしぎしと痛む。三日が経つが一向に治る気配を見せない。今がピークだ仕方ない、と夫人は救急箱の中で乾きかけていた湿布を大盤振る舞いしてくれながら、面白いものでも見ているように笑う。

 あの日、呆然となって言葉をなくしてしまった私に、アヲは教えてくれた。昔、海で溺れて〈夏の欠片〉を呑みこんだこと。それは水面の青色を吸って燦々と降り注ぐ、金色の夏の光で、うす緑に輝いて、刹那の光景が永遠に見えるほど目映かったこと。
 憧憬を、抱いたかもしれないこと。
 光になりたいとか、生きていたいとか、何に対する憧れだったのかまでは分からない。ただ、死にもの狂いにもがく手と泡ばかりが見える視界の中で、その夏の光は自分を見下ろす神の目のように絶対的なものに見えたこと。どうせ息が続かなくなるならと、最期に光を呑みこんだこと。
 気がついたら、あの窟に倒れていたこと。
「神様がやったのか海がやったのか、あの光がやったのかは分からないけど――誰かがぼくを、あの光と同じような存在にした」
 そう言って、彼は一度隠した体を自らの手で晒した。
「ぼくは夏しか生きられない。毎年、七月の一日になるとこの窟で目を覚ます。それから日毎に体の一部が結晶化して、このうす緑の石になっていって、どんなに慎重に生活しても九月は迎えられない。八月の終わりごろに、砕けて海に還る」
「じゃあ、きみ。あと……」
「そうだね、今が八月の十日だから、あと二週間くらいじゃないかな。見えないけど背中も多分、固まってきてるし」
 白いシャツに、手を伸ばす。私の手を、アヲは拒まなかった。しなやかな骨と薄い筋肉のほかは何もない背中の、右の肩甲骨の下のほうが、結晶になっていた。うす緑の向こうはさらに鮮やかな緑色をしている。人体の色は透けていなかった。
「もし、せんせいがぼくと話したいと思ってくれるならさ」
 背中を向けたまま、アヲは言った。
「今年は声帯が最後まで残るよう、祈るよ。だから、耐えられなくなるまでは、遊びにおいでよ」

 ばしん、と肩を叩かれて我に返った。
「ほれ、これでよし。はじっこがめくれんように、テープもしといてやったからね」
「毎度お手数をおかけして申し訳ない」
「いいよ」
 ひんやりとした感触が、背中に広がっている。初めて会った日、アヲが「おまじない」と言って当ててくれた蛍石の温度を思い出しながら、私は結露に濡れた麦茶に手を伸ばした。夫人は両手をくんくんやって「湿布臭い」とぼやくと、台所で洗い、古いビニールクロスのテーブルに戻ってきた。
 よいせ、と椅子に腰を下ろし、作りかけの篭を引き寄せる。籐を編むのが趣味の人である。昔、まだ捕鯨が規制される前、旦那が海に出ていたころは、時化が続くとよく籠だの小さな丸椅子だのを作って生活の足しにしていたそうだ。
「あんたさん、今日も出かけるんだろう」
「はい」
「悪いが、海へ入るならちっと離れたところにしてくれんかね。盆の海に立つ人を見ると、兄さんがいると言って、うちのは駆けていってしまうでね」
 しゅるり、籐をくぐらせながら、夫人は「水母に気をつけな」と付け加えた。



 おーい、と呼びかけると、おーい、と声が反響する。窟の中は奥が行き止まりになっている。声が抜け道を見つけられずに、四方の壁に当たって跳ねるのだろう。
「せんせい」
 壁の向こうから、アヲが顔を覗かせた。その手が握りしめられているのを見て、私は思わず顔を顰めてしまう。
「きみ、また取れたのか」
「そうなんだよ。どこだと思う?」
「……後ろを向いてみろ」
「あーあ、つまんないの。勘の鋭いひとだ」
 言いながら笑って、アヲは私の言うとおりに背中を向けた。真っ白なシャツの、襟ぐりのところ。肩のつけ根が一ヶ所、欠けている。
「見えるところに出てきたのは初めてだな」
「そうだね、今年は結構長持ちしてるけど、さすがに」
「痛くはないのか?」
「平気だよ、結晶化するときも取れるときも何ともない。怪我とは違うんだろうね。海も沁みないし」
 欠けの跡を平然と指で触って言う。痛くないと聞いたばかりでも、肉体であったはずの場所に指が沈んでいくのを見るのはぞっとしない。私は思わず目を逸らした。そうして気分を変えるように、アヲ、と篭を差し出した。
「なに? これ」
「サンドイッチだ。世話になっている民宿の夫人が、夏の空腹は体を壊すと言ってな。持たせてくれた」
「ぼく、別にお腹空かないよ」
「私はそうじゃない。構造上の理由で付き合えないなら、無理にとは言わないが、どうだ?」
 隙間なく編まれた籐の篭は、夫人の手製のランチバスケットである。ついこの間できあがったから、使ってみて感想を聞かせてくれと言われた。丸いボタンに引っかけた紐が蓋を留めている。質素だが、実用的でしっかりした作りだ。
「もらって、いいなら」
「住処に上がりこませてもらっている礼だ、勿論さ。ここは快適だな。吹きこむ風も、潮の香りも、ぬるい水の気配も――すべてが夏なのに、涼しい」
 海の水位は毎日変わる。おかげで窟の中も、座れるところは日によって違う。私は話しながら、黒い岩肌に手で触れて、乾いたところを探して座った。アヲはその辺りに、あまり頓着しない。
 かつん、と硬質な音がひとつ、響いた。
「あ」
 うす緑の欠片が、転がってくる。一瞬、彼が手にしていたものかと思ったが違った。アヲは片手にママレードの挟まったサンドイッチを、もう片手にしっかりと結晶を握っていた。
 サンドイッチを口にくわえて、ハーフパンツの裾を引っぱり上げる。
「うあ」
「また取れたのか。そこだな」
 くぐもった声で、彼はうん、と頷いた。大腿の中心が一ヶ所、蛍石に侵されて凹んでいた。何を思ったか、アヲはそこを指で引っかいた。途端、結晶はもうひとつ取れ、岩の上を転がってくる。
「きみっ、あのなあ」
「ふふ」
「やめなさい。まだ動いている体なんだから、大事にしないと」
 私は這うように駆けていって、それを拾った。この辺りはまだ水が入り込んでいる。落としてしまったら、海へ流れていってしまうかもしれない。
「いいじゃん、どうせ最後には砕けて、みんな海へ消えてくんだから」
「そうなのか?」
「そうだよ。腕だってなくなるから、だんだん集めてなんておけなくなる。でも、どこから集まってくるのか、来年になればまた寄り集まってぼくになる」
 だからほっといていいよ、と、アヲは言った。実はもうポケットに入らなくなっちゃったから、これ以上は持ってられないんだよね、と。確かに彼の紺色のポケットは、重そうに膨らんでいる。
「ついでに、これも」
 ぽん、とアヲは手に持っていた結晶を投げてよこした。一直線に横を通り抜けて水へ落ちそうになったそれを、私はまた、反射的に掴んでしまう。
 情けなく転んで、サンドイッチの端が海水に湿った。なぜそうまでして止めたのか、自分でもよく分からなかった。
 アヲはぽかんとした顔をした。それから両目に笑みを滲ませて、困ったように肩を竦めた。
「変な人。気持ち悪くないの、たった今までぼくの体だったものだよ」
「何とも思わない――とは言い難い。でも、きみなんだろう。だったら尚更、目の前で沈んでいくところは見ていられない」
 見えない呼吸の泡が、結晶から昇るような気がしてしまう。友人の体が溺れていくのを「いい」と言われるままに見送れるほど、私は情景や会話の美しさだけで物事を判断できない人間である。
 潔くなれないのだ。アヲはうつむいた私に、ふ、と笑った。
「じゃあさ、せんせい。ぼくを持っててよ」
「え?」
「潮時だと思ったら、海へ捨ててくれればいいから」
 いつの間にサンドイッチを食べ終わったのだろう。空になった手をぱっぱとはたいて、アヲは両手をポケットに突っ込んだ。そして次から次へと、蛍石を投げ出した。
「待て、きみ」
 私は慌ててサンドイッチを口に押し込み、両手で欠片を拾った。拾う傍から、近くにあったランチバスケットに放り込んだ。息を切らして這いまわり、膝が水に濡れるのも気づかずに、ママレードの香りが喉の奥にわだかまるのを飲み下して、ひとつ残らず拾った。
「そろそろぼくも、ここを離れる頃合いってことなんだろうな」
 それが八月の終わりのことを指しているのか、自分が私の手に渡ることを他人事のように見下ろして達観しているのか、どちらでもないのかは分からなかった。
 顔を上げたときには、アヲはいつものように笑っていた。その頬が一瞬、うす緑の光を帯びた。



 その日は朝から神輿が通るとか何とかで、木船町はにわかに慌ただしく目を覚ました。夫人は果物屋の奥さんが西瓜を切るのを手伝うと言って、ブラウスの襟に手拭いを巻いてそわそわと身支度をし、迎えにどこか別の老婦が連れ立ってやってきて、八時ごろから家を出ていった。後には寝起きの私と、ランニング姿のぼんやりとした旦那が残された。
 壊れかけのまま何年動いているのだろうといった風情の扇風機が、プルプルと回って、旦那の薄く渦になった白い髪を吹き乱す。その光景だけを眼前に、私は朝食の皿や椀にかけられたラップを一つ一つはがし、風鈴の音を聞きながら冷めた味噌汁を啜った。
 神輿の荷物だろうか。何か提灯や旗をさげられる長い杖のようなものを積んだトラックが、沿道を走り抜けていく。後に続く車はない。ただ波の打ち寄せる音と、水平線がまた広がった。
「醤油、取ってくんねえか」
 ふいに旦那が指を差した。私の傍らに、醤油さしがあった。
「どうぞ」
「わりい、ね」
 私が取って差し出すと、えらく深々と頭を下げて言う。一応は自分が民宿の主で、私が客であると認識していないわけではない。ただ、旦那はいまだに私がどこから来たのだったか、いつからいたのだったかなどといったことが、時々分からなくなっているようである。あれは誰のせがれだ、とよく聞こえる耳打ちを夫人にする。
「お前さん、誰のせがれだったかね」
 今日は、夫人がいないからだろう。直接、ちょっと訊き難そうにしながら、私にたずねてきた。
「俺んだったか?」
「似ていますか」
「いいや、俺には娘しかいねえからよ。息子は怖いからいらねえって言ったら、神様が本当にくれねかった」
 ははは、とゆっくり、息を吐き出すように笑う。旦那は目玉焼きの裏と表、両方に醤油をかける。塩だけをさっと振って食べるのが好きな私には、ひどく味が濃そうに見える。それを白飯の上にのせて、箸で切り分けながら食べる人だ。
「長男が欲しいとは思わなかったのですか」
「思わねえことはねえがね。死んだら、生まれなかったときよりずっと苦しむのが母親ってもんだ」
「……死んだら、」
「俺の兄貴は親父を見て、鯨漁師になって死んだ。男の子ってのは深く考えずに親父を追いがちだ。俺もその頃は、まだ漁師だったでな。俺を追いかけてせがれが死んだらと思うと、怖くて、娘で安心した」
「……」
「ああ、見ろ。今日はずいぶん凪いでんなあ」
 茶碗を置いて、箸を持った手でほれ、と外を指し示す。開け放した居間の戸の向こうは、道を挟んで海が広がっている。
 水平線は白虹のように輝いていた。太陽の金色が波の揺らめきのひとつずつに反射して、幾万の鱗を持つ巨大な竜のように、沖はゆったりと波打つ。
「おや、お前さん」
 ふと、旦那が私に視線を戻して、気がついたように口を開いた。
「……誰のせがれだったかね」
 扇風機が重そうに、首を回している。



 原稿用紙を愛用する理由のひとつが、ます目の存在である。ます目とは私にとって、目盛りのようなものである。物語を書き終えて筆を置いたとき、限られたその話という器の中に、どれだけ純度の高いものを詰め込めただろうかと考える。言葉を精製し、ひとます、一文字――ひと滴ずつが、確かに価値の高いものになったかどうかを振り返る。物語の中に、役目をなさない文字は不要だ。たったの一文字であっても、不純物が混じれば透明度が落ちる。
 息を止めて、ひと文字ひと文字の存在意義を見極めながら書き出して、どっと息をついて、またその中から濁りの部分を掬って捨てて。そうして残された髄液のようなわずかな文字だけが、まことの価値を持つ。その文字たちで綴られた物語だけが、珠玉と呼べる美しさを放つ。

『――だから、先生の物語は分かりにくいんですよ。雑味がないから、多くの人の舌に引っかからない。反射が一方向だから、見る目の養われていない人には何も見えない』

「……い、せんせい。せ、ん、せい?」
 はっと目を見開いたとき、目の前にアヲの目があった。呑んだ息はかすかに潮の味がした。涼しさの中に、遠い波の音とぬるい水の気配が充満している。窟だ。
「私は……」
「転寝してたから、そっとしてたんだけどさ。気づいたらうなされてた。大丈夫?」
「ああ。ああ……そうか。すまなかったな、心配をかけた」
 壁にもたれて他愛無い話をしながら、アヲが拾ったという貝殻の種類をあれでもないこれでもないと論じていたことまでは覚えている。そこから記憶が途切れる。欠伸が十回は出ていたか。
「昨夜が遅かったんだ。久しぶりに仕事をしようと鞄を開けてな」
「仕事道具を取り出した」
「ああそうだとも。そして机に並べて」
「お話を書いた?」
 私は立てた指をふいと振って笑った。アヲは瞬きを一つして、それから声もなく苦笑した。
「一文字も書けなかった。昨夜こそはいけると思ったんだがな」
「ゲージュツカってやつだね、せんせい」
「馬鹿にしているだろう。本当の芸術家なら、きっと筆は止まっても、頭まで止まることはない」
 それもあんな、一回りも歳の離れた編集者の言う、吐息みたいなダメだし一つで止まるなんてあり得ないだろう。生身の人間にうなされるなど、夢まで酔狂のかけらもない。せめて夢を見るならば何か、作品の構想になるような夢であればよかったのに。
 はあ、と顔を洗うように両手で覆って息をつく。アヲが蛍石を宙に放っては掴み取り、放っては掴み取りながら、私の顔色を窺っていた。
「熱いコーヒーが飲みたい」
「買っておいでよ。自販機だったら、そこの道を左に行ったところだよ」
「ああ、そういえばあったな。そうだなあ、そんなに遠くはないか……」
 夫人に頼まれて行くスーパーの途中に、めったに売れなそうな販売機が一台、立っていたのを思い出す。顔を上げて、私は窟の外に目を向けた。刺すような金色の日差しが、燦々と降り注いでいる。
 一人では、重い腰が上がる気がしなかった。
「アヲ、どうだろう。一緒に行かないか」
「え、ぼく?」
「オレンジジュースを買ってやる。あるかどうか知らないが」
 ぴくりとアヲの目が動いたのを、私は見逃さなかった。さて、と立ち上がって、湿気に湿った尻をはたく。今日は座り所が悪かったかもしれない。下着までかすかに冷たくなっていた。ズボンをつまんでは放し、気にしい気にしい歩き出した私に、アヲがついてくる。
「フルーツ牛乳でもいい?」
「ああ、ああ。なんでもいい」
「やった、ありがとう。気前がいいね、せんせい」
 アヲは私を追い越し、振り返って笑うと、岩の歩きやすいところを導くように先に立って歩き始めた。一回り小さい彼の足が踏んだところを、私のサンダルが踏んでいく。硬いビニールの鼻緒も、すっかり足に馴染んだ。玄関先にほったらかされている革靴を先日、とうとう夫人が靴箱の一角を片づけて収納してくれた。
 窟から一歩、外へ踏み出したアヲがううん、と伸びをする。日差しが彼の白いシャツを透かし、その下に広がる緑の原を一瞬、私の目に映させた。
 あれからも、よく。アヲは結晶が落ちるたび、もうそうするものと決めているように、私に渡してよこす。一つとして、自分の手元に残しておきたがるそぶりを見せない。せんせい。彼が蛍石を投げ渡す声のトーンを、私も耳で覚えてしまった。
 潔いことだ。
 迷いのない足取りで前を歩いていく少年の背中に、私は黙々とついていくだけで精いっぱいだった。大股に潮だまりを跨ぐ。砂浜へ下り、炎天下の道へ出る。睡眠不足の体には堪える気温だな、と空を見上げる。
 太陽が真上に輝いていた。くらりと、視界が眩んで傾いた。
「せんせい」
 アヲが、私を支えた。その肘から、何かが罅割れる音がして、アスファルトの上に蛍石が転がった。
「『潮騒』を読んだことはあるか」
 私は彼に訊ねた。切れ長の大きな目が、間に皺を寄せる。
「小学生のときに、初めて図書室で手に取ってな。内容も真髄もほとんど分からないまま、ただ無性に惹かれて、貪るように読んだ」
「誰の本?」
「三島だ。今の私と同じくらいの歳で、腹を切って死んだ。太宰も芥川も、私が好きだと思った作家は、皆自ら命を絶っている」
「せんせい」
「死に場所を探して、ここへやってくるような人間でありたかった。幼心に憧れた彼らが揃って持っていた何かを、私は持っていない。彼らのような人間には、一生かかってもなりえない」
 水平線が、銀色の弧を描いて輝いている。憧憬は彼方に浮かぶニライカナイほど遠い。私は自分という人間の、頑丈さに時々嫌気が差す。どんなに心折れたつもりになっても、不貞腐れた心地になっても、結局のところ、いかなる不遇にも理不尽にも負けず、唾を吐いて愚痴を垂れながら、この世で生きていき続けられてしまうのだ。
「脆いものが書きたかったんだ。せめて物語だけでも、触れなば傷つき、傷つけるような、研ぎ澄まされたものが書きたかった。私の憧れて、手に入らなかった精神を、私の一生に投影する代わりに、せめて物語の中に創り上げたかった」
 でも、それは否定された。
 一部の人にしか届かない――つまり時代のニーズに合っていないという、ひどく不躾でありながら、現実的で、的確な理由で。
「時代の求めるものを変えるほどの才能は、私にはない。そんなものは最初から分かっているし、求めてもいないんだ。でも、貧乏でも、報われなくてもいい。最低限生きてゆければいいから、物語の中でくらい、憧れを書かせてほしかった。それだけだ」
 時代に嫌な顔をしながらも適応してしまう人間だから、時代錯誤のものにひどく焦がれる。私はそんな、私に似た一部の人間が読んでくれる、わずかな称賛以外はいらなかった。私を育てようなどと思わず、矯正しようとせず、さしたる利益も生まないが発行部数を間違えなければ損も与えない程度の存在として、そっとしておいてほしかった。
 例えそれが、独り善がりに見えたとしても。
 それなら独りで生きていくから、そっとしておいてほしかったのだ。
「コーヒー、買いに行こう」
 うつむいた私の袖を引っぱって、アヲは水を飲む鹿のように身を屈め、アスファルトの上の結晶を拾った。それを私の、汗で前髪のはりついた額に押しつけて、笑った。
「十分、ゲージュツカってやつだと思うよ、せんせい。疲れてるだけで、本当は何も迷ってないでしょ。偏屈で、頑固だね」
「おまけに繊細で、独身だ」
「傑作だなあ」
 アヲが、あんまりにも軽やかに言うので、つられて唇が上がった。引っ張られるままに歩いていく。蛍石は、私の手に渡った。
「なあ、アヲ。私は近いうちに、東京へ帰らなければならないと思うんだ」
「ふうん」
「そのとき、きみの欠片はどうしたらいい。どこか希望の場所があるなら、まとめて置いていくが」
 フルーツ牛乳でも、一本供えてさ。小銭入れを取り出しながら言った私に、アヲはちょっと笑って、考えるそぶりもなく答えた。
「連れていってくれないかな」
「私の住処にか。狭くて、散らかっていて、陰気な二流小説家しか暮らしていない。海も遠いぞ」
「いいよ。なんか、多分さ、勘なんだけど」
「ああ」
「そろそろ、ここに甦る理由も、なくなっちゃうから。もしかしたら、せんせいのところにいたほうがいいかも」
 ホットコーヒー、百円。フルーツ牛乳、百二十円。百円を二枚と十円を二枚、寂れた舗道に佇む自販機にぴったり投入する。ガコン、と缶の落ちる音が響いた。
「真夏に熱いもの、飲むとか」
 呆れたように言いながら、アヲがホットコーヒーを押しつける。利き手の人差し指がすっかりうす緑になっていた。私は彼のペットボトルを開けてやった。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -