第二楽章
「それじゃ、私仕事に行ってくるから」
玄関でとんとんと、ヒールに踵を押し込んで顔を上げる。廊下に立った凪は私のお古のパーカーに身を包んで、パジャマみたいなスウェットをはいて、行ってらっしゃいと片手を振った。
腕時計を見ると、もうすぐ七時半。少し急いで、電車に駆けのる時間帯だ。鍵を締めてくれるよう頼んで、慌ただしく階段を下りる。月曜の朝は毎週、土日のくせが抜けなくてぎりぎりまで眠ってしまう。
週末、凪は結局、自分から帰るとは言い出さなかった。私も何となくタイミングを見つけ出せず、昨夜も一緒にハンバーグなんて作って、平和なものだ。一日目の夜は張っていた緊張の糸も、日曜をごろごろと一緒に過ごすと弛んで、たったの二日だというのに、凪がいることにずいぶん慣れてしまった。
もう、私の中で凪は「見知らぬ他人」ではない。私の家に居着いた、凪、という名前のある、個の存在。
例え、それが本当の名前なのかどうかさえ分からなくても、気を張り、警戒して過ごすには二日間という時間は長く、二人しかいない人間と距離をとって過ごすには、私の家は狭かった。黙っていることはできなかったし、凪も私を放っておかなかった。たぶん、私と同じ気持ちだったのだろう。黙っていると、私たちは、私たちが一緒にいる今の状況の異常さを考え始めてしまって、どちらからともなく重い沈黙を漂わせてしまうから。
そうやって、表面的な気楽さの上で浮遊するように過ごした週末は、私にとって久しぶりに人と濃く関わった時間でもあった。
昨夜、明日は仕事だからと言った私に、凪は「社会人だったんだ」と驚いていた。世間的には大学生でもおかしくない年齢だが、短大を卒業してすぐ就職したので、もう社会人である。就職してしばらくのあまり余裕がなかった時期に、四年制大学に通った友人たちとはすっかり疎遠になってしまい、休日を誰かと過ごすことなんてほとんどなくなっていた。地元に帰れば幼馴染もいるが、今は向こうが、春に仕事を始めたばかりで手いっぱいだ。自分にも記憶があるから、安易に遊ぼうと誘う気にもなれない。
大人になるというのは、色々なものが見えてしまって、腰が重くなることなんだな、と思う。本当はそれも、分かったふうな言い訳にすぎなくて、ただ私が何かをすることを面倒くさがっているだけなのだと気づいているけれど。
私には趣味がない。こだわりがあって、手を伸ばして欲するようなものもない。くたくたになっても会いに行きたい友達もいない。渇望するものが何もない、つまらない人間であることを、仕事が忙しいというヴェールで覆って、なんとなくごまかしている。
少年は残酷だ。凪はそんな私に、何の仕事をしているのか訊き、化粧品メーカーの営業部だというと、なぜその仕事を選んだのか知りたがった。理由なんてない、と言ったときの、不思議なものを見るような目を思い出しながら、信号を渡る。
理由なんてない。なぜなら私が短大に行った理由だって、大学で四年も勉強するほど、やりたいものがなかったからだ。両親の勧めに従って、一応は学歴を得るために大学へ通った。
こだわりのない人間には、それはそれで、たくさんの道が用意されている。
私は流れるように入った会社で、抵抗もなく一本のねじになった。大きな活躍もしないが派手な失敗もせず、淡々と毎日を送っている。大衆受けするパッケージの、大衆受けする値段の化粧品を、大衆的なドラッグストアに卸す仕事の一端に暮らしている。
大衆だから、彼らにどんなものが受けるのか、手に取るように分かる。
私は、私のような人間が世間にはごまんといることを知っている。こだわりのない人間が好むのは、ぼんやりとして、特徴のないものだ。可もなく不可もなく、突出した部分を持たなくて、好き嫌いの判断のしようがないもの。
今の会社に入った理由を唯一、挙げるとすれば、そういう商品を作っている会社だから自分にもやっていけると思った。そんなところだろう。
夕刻、仕事を終えて帰路についた私は、片手にスーパーの袋を提げ、片手に洋服屋のロゴがでかでかと印刷された袋を提げていた。サイズはすべてこちらでお間違いないですか、と心なしか念入りに訊ねてくれた店員さんも、何とも妙に思ったことだろう。中身は全部、メンズ服。凪の服だ。
週末、私の持っている服から着られそうなものを貸してみたが、如何せん、いくら中学生といっても女物では無理があった。肩幅が合うのは上に着るようなパーカーやジャージ類ばかりで、シャツなどがない。文句を言うなと着せておいたが、凪の「暑い」という発言もごもっともな長袖だった。下もスカートというわけにはいかない。だらっとしたパジャマ代わりのズボンしか、貸せそうな服がなかった。
季節も季節だ。着たきり雀で置いておくわけにもいかず、洗濯は避けられない。
好みも知らないのでファストファッションだが、ひとまずこれだけあれば、日中の服と寝間着と着分けても洗濯に困ることはないだろう。いつまでいる気なのかは知らないが、とりあえずの話、今日はいる。長袖をまくって死にそうな顔をしている少年と暮らす趣味はないのだ。私は潔く、適当に、買ってきた服を持ってアパートへ帰ってきた。
「あら、瀬戸さん」
「あ……、こんばんは」
階段を上がってすぐ、玄関の鍵を開けるのを面倒くさがって、ブザーを押そうとしたところでお隣のドアが開いた。慌てて指を離し、押す前でよかった、と胸をなで下ろす。
だが、出てきたお隣の奥さんは私を見るなり、不思議そうに瞬きをして言った。
「お出かけだったの?」
「ええ、まあ。仕事なので」
「そうよね、平日ですものね。でも、私てっきり、お休みなのかと思って」
何を言っているんだろうと首を傾げる私に、奥さんは「だって、」と笑顔を浮かべる。
次いで彼女が口にした言葉は、私を心臓が跳ね上がるほど戸惑わせ、いつにない素早さで言い訳を考えさせた。
「凪! ちょっと、凪っ」
玄関で放り出すように靴を脱ぐ。ストラップが引っかかって、ヒールがハの字にだらしなく飛んだが、今は構っていられない。買い物袋をがさがさ喚かせながら、慌ただしくリビングへ上がると、丸いラグに寝転がって私の雑誌を読み耽っている凪の姿があった。
ちろ、と目だけ動かして、仰向けになったまま私を見る。
「おかえり」
「ただいま。ねえ凪、聞いたわよ、お隣の奥さんから」
「なにを」
「昼間、ピアノ弾いたんですってね。貴方でしょ?」
確信を持って問いかけ、私は荷物をテーブルに投げ出した。どさりと置いてから、スーパーの袋の底に玉子が入っていたことを思い出して、あっと覗く。良かった、割れていない。
「なんで、おれだって言うの」
「お隣さんが、この部屋から聞こえたって言うんだもの。それに、このアパートでピアノを置いてる部屋なんてそうそうないはずよ」
答えると、凪は「あー、そっか」と笑って上半身を起こした。癖のついた髪を指でいじって、まっすぐに戻す。
先刻、言われたのだ。ピアノの音が聞こえたから、お休みなのかと思ったのよ、と。貴方じゃなかったの? と問われて、背中に冷たい汗をかいたかと思った。
「なんて言った?」
「弟が遊びに来てるって。それ以外に言いようがないでしょ」
「学校とか、よく突っ込まれなかったな」
「幸い、根掘り葉掘り訊かれるほど親しいわけでもなかったから。ていうか、凪」
「なに」
「やっぱり、貴方なんでしょ? ピアノ弾けるのね」
ゆるやかに、唇を上げて笑う。凪は何も言わないが、それは否定ではなかった。
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