第五楽章


「それじゃあ瀬戸さん、また来月に」
「はい、また伺います。よろしくお願いいたします」
 上着を脱いだスーツ姿の上にドラッグストアのエプロンをつけて、壮年の店長は愛想よく頭を下げる。私もそれより深く一礼して、新商品のサンプルを詰めた袋を渡し、店を後にした。
 契約は順調だ。今期の新商品もそれなりに売れそうだな、と書類を思い出して頷き、アスファルトに踏み出した途端、照り返す日の強さに目を細めた。
 青々とした空に伸び上がる、ビルの隙間の入道雲を見上げて、鞄の中から日傘を取り出す。小さな折り畳みの骨を広げて、空を淡く、花型に切り取る。
 日々は規則的に、止まることなく流れて、すっかり八月の半ば。温室のようだった私の部屋にも、先日からクーラーが点いた。間もなく始まるお盆休みで世間は少し騒がしくなって、帰省の混雑を話題に挙げる人もぽつりぽつり、現れてきている。
 私の会社も休みにはなるけれど、カレンダー通りなのでそれほど長くはないし、実家は電車で一本なので帰ろうと思えばいつでも帰れる。私にとってはちょっとした連休、くらいの感覚しかないので、飛行機や新幹線のチケットの話をする同僚たちの輪の隅で、ぼうっと彼らの声を聞き流す毎日だ。
 ああでも、祖父母のお墓参りはもう何年、行けていないだろう。父の運転で両親が行くのなら今年は着いていくのもいいかなと、未定の予定を頭の中だけで、立てるともなしに巡らせる。
(あのピアノ、まだ十分綺麗に鳴ったのよ)
 墓前に、そんな報告をするのもいいかもしれない。私がずっと、ろくに触らなかったこともばれてしまうけれど、多分天国の祖父母はそんなこと、今さら言われなくても分かっているだろう。
 日傘を傾けて、スクランブル交差点、向かいの壁で流れているニュースを見る。
 あの日、置手紙を残して出ていってから、凪は一度も私のところへは戻ってきていない。
 ニュースでは一頻り凪の無事を報じて、空白の二週間について調査をしていると言われたが、結局、私の名前が報じられることはおろか、私の家に警察がやってくることもなかった。情勢が動いたり、事故が起きたり、円相場が変わったり、誰かが逮捕されたり、世界は意外と忙しなくて、見つかったとなれば一人の少年の二週間をそこまで追究もしないらしい。あのコンクールの事件自体が、もう過去の話題となりつつある。連日スクリーンに流れていた凪の写真も、戸坂の写真もまるっきり出なくなった。
 戸坂が拘留されたことで音ノ羽は一度消えかかったが、別のオーケストラに運営が引き取られ、コンクール自体は伝統ある登竜門ということで継続が決まった。戸坂の処分はまだ決まっていない。彼よりも、彼に金を渡した今年の優勝者の父親というのが、議員の一人だったことが話題になって、そちらのほうが大きく取り上げられている。
 凪の母親もその陰になって、あまり表沙汰にならずに終わった。元々十年前の話であり、本人が認めている以外に証拠がないことや、当時の戸坂の受け取った額が、多額といってもここ数年の額とは比べ物にならない程度だったことなども手伝って、警察はそれほど掘り下げることをしなかったらしい。
 逮捕、などという事態に発展しなくてよかったと思う。胸の内は分からないが、凪の無事が報道されたとき、彼の隣には母親も一緒に映っていた。皮肉な話だが、彼にとって母は人生を狂わせた人であり、ピアノと出会わせてくれた人でもある。すべてを憎めるはずがないだろう。ならば牢で壁を挟んで会うよりは、家で会ったほうがきっといい。
(凪もそう思えるくらい、落ち着いていればいいけど)
 信号が変わった。正面から歩いてきた人を避けて、反対側へ渡る。
 近頃こうして、凪のことを考えるとき、すべては私の妄想だったのではないかと錯覚しそうになる。凪がいなくなって、次に顔を見たときはニュースの中で。私の部屋には今までと変わらない、一人暮らしの静寂があって、こだわりのないものに囲まれて、当然、ピアノなんて弾かない生活を送っている。
 何もかも、存在しなかったのではないかとさえ思う。私が辛うじて、あの二週間を現実だったと信じていられるのは、干からびたバラと置手紙がテーブルの端に残っているからだ。それと、私のためではない、私が用意した数組の服。捨てられもせず、部屋の隅に畳んで積み上げてある。
 凪は出ていくとき、花束以外なにも持っていかなかった。馬鹿げた煽り文句を笑っていた雑誌も、古いゲーム機も、マグカップも、きちんと並べて置いていった。そういえば歯ブラシも、まだ洗面所に立っている。いってきます、と声をかけると、よく歯ブラシをくわえたまま、洗面所のドアから玄関を見て、手を振っていた。
 思い出で泣きたくなるなんて、私は案外弱い。
 良くも悪くも執着を持てない性分なのだと思っていたのに、凪との生活は思いがけず、私の中に大きな跡を残した。楽しかったのだろうか。世間に対する後ろめたさと、凪の脆さの狭間に立って、怒涛のような二週間だった気がしていたけれど。
 それでも楽しかったのかもしれない。もっと続いていけばいいのにと、心のどこかで思った瞬間がなかったとは言えない。
 思い出したら連鎖するように小さな出来事がたくさん掘り出されてきて、あ、まずい、と片手で目を覆った。人目を避けるように建物の傍へ寄ったところで、鞄からかすかな振動が伝わってきていることに気づく。
 着信だ。急いで取り出すと、登録していない番号からの電話だった。携帯から、と一瞬躊躇ったものの、仕事の連絡だったらいけないので、着信を受ける。
「はい」
 様子を窺いつつ、仕事らしい声で出ると、電話のむこうは静かだった。オフィスや店内というざわめきを感じない。あれ、と思った耳に、声が届く。
「はづき?」
 どくんと、心臓が大きく、鼓膜の裏に響きそうな音を上げた。
「その声……っ、凪?」
「うん、よかった出てくれて。久しぶり、はづき」
「久しぶり……ていうか、本当に凪なのね? なんで、どうして私の番号……っ」
 通話口の向こうで響く声も、口調も、聞き間違えるはずもない。まさか、と思う気持ちと確信の間で混乱しきりながらも、自転車にベルを鳴らされて、慌てて柱の裏へ移動した。
 車道の音が遠くなり、音声が一層クリアになる。凪がくすくすと、楽しげに笑った。
「ごめん、最後の晩にちょっと」
「何?」
「携帯、不用心に置いてあったからさ。番号だけ見ちゃった」
 え、と思いがけない暴露に唇を引き攣らせる私に、電話のむこうで凪はもう一度、ごめんねと笑った。最初の頃こそ気をつけていたが、元々あまり用心深い性格でもない私は、確かにお風呂の間なども、携帯をリビングに置きっぱなしにしていることが多々あった。
 別に見られて困るものも入っていないが、まさか凪が、わざわざ覗くような真似をしてまで、私の番号を控えていたとは。考えもしていなかったことに、はあ、としか返事が出てこない。
「怒った?」
「や、別に……怒るべきなんでしょうけど、いいわ。おかげでこうやって連絡も取れて、ちょっと安心したし。もっと早くに電話くれればよかったのに」
「色々あったんだよ。どこに行ってたのかとか、しつこく調べられてたから、電話の履歴からはづきのことがばれたら迷惑かかるかなって思ったしさ。そっち、何ともなかった? 何も言われてない?」
 凪らしい、さらっとした調子で問われて、うん、と頷いてから、今が電話越しだったことを思い出して、大丈夫よ、と答える。


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