2:シュルークの皇子


 ルエルを乗せた輿は間もなくニフタの王城を出発し、西へ向かって城壁を抜け、半日をかけて国境へ辿り着いた。そこからしばらく、なだらかな丘陵地帯が続く。どこの国のものでもない地域だ。国を持たない流浪の民や、遊牧民がぽつりぽつりとテントを張っている時期もあるが、今日出会うことはなかった。
 ルエルは輿の隙間から、流れていく景色をずっと見ていた。雨を避けるため、屋根が張られた輿の中は暗くて狭い。外を見るか、目を瞑っているかしないと、慣れない揺れに気分が優れなくなってくる。そういえば、遠方へ出かけるなどいつ以来のことだろう。城壁の外へ出たことは、ほとんどない。
 城壁の内側には人々のための家や店が多く並び、外にも商人たちのための宿屋が並んでいた。宿は比較的、国の外れまで点在している。けれどこの辺りにはもう、そういった建物らしき建物は見当たらなかった。
 一行は夜通し、隊伍を組んで丘を進んだ。ドレスや髪を崩してしまうことと不安定な揺れが気になって、ルエルの眠りは浅く、真夜中から明け方にかけて舟をこいだくらいだった。輿の警護に当たっている兵士たちの、潜めた話し声が聞こえてくる。
「明けの明星だ。もう半分は越えたな」
 順調に進めば昼ごろ、向こうへ着くと聞かされている。星が出ているとは、自分がしばらく眠っていたから空が晴れてきているのだろうか? ルエルは輿の隙間から、明けの明星を見ようとした。けれど見えたのは、輿に取りつけられた屋根を覆う絹の、垂れ下がる房だけだった。
 空が白んでくる。行列は一定の速度を保って進み、次第に緑が薄くなって、土の色がむき出しになってきた。砂漠だ。
 差し込む光の眩しさにきゅっと瞼を細めてから、ルエルは驚きに、その目を瞠った。眩しい。空から光が差している? 輿の片隅に身を寄せて、小さな隙間から精いっぱい外を見る。
「なんだ、急に晴れてきたな」
「晴れというより、刺すような日の強さだ……汗が」
 輿を担いでいる兵士たちが、口々に暑さを訴えていた。ルエルも内心、久方ぶりに戸惑いというものを感じていた。降り続けていた雨が止んだばかりか、この唐突な空の晴れ渡りようはどうしたことだろう。照り返す砂の眩しさに身を引いたとき、前方で話し声が聞こえ、輿が止まった。
「姫」
 ゆっくりと、輿は地面に下ろされる。扉が開けられ、傍を警護していた兵士が膝を折った。
「シュルークの使者たちが、駱駝を率いて迎えにきております」
「え?」
 予定になかった目的地からの迎えに、首を傾げる。
「どうやら皇帝陛下の命により、砂漠に不慣れな我々を先導しに来ていただけた様子。ここから先は荷物も含め、駱駝に乗り換えていただいたほうが、早く進めるとのことです。いかがいたしますか」
 駱駝。ニフタの城で見た絵画の中の生き物を思い出して、ルエルは躊躇した。兵士もそれを察していたのだろう、無論、このまま輿で進むことも不可能ではないとつけ加えてくれる。
 しかしながら、地面から昇る、この茹だるような暑さ。未だかつて経験したことのない、ニフタの夏の鋭さだけを切り取って煮たてたような暑さが、ルエルの決断を後押しした。
「乗り換えます。使者の方に、そう伝えてください」
「はっ」
 兵士が立ち上がり、歩いていくのを見送る。彼は護衛のため、きっちりとした装備を全身につけている。
 彼だけではない。ルエルの行列に従う百五十余りの者たちは皆、それぞれに護衛であったり荷物や食べ物の運び手であったり、大切な役目を持って歩いているゆえ、軽装ではあっても鎧を身につけていた。いざというとき、ルエルであったり荷物であったり、護るべきものを護るためだ。だが、それゆえに彼らは、この暑さの中を容易には進めまい。
 荷物も共に運んでくれるというのであれば、彼らを身軽にしてやれる。駱駝に乗るのは心許ないが、ルエル自身も、この狭い輿の中にこもっていては、熱にあてられてしまいそうだった。
「お初にお目にかかります、ルエル王女」
 輿を降りるとすぐに、使者が駱駝をひいてやってきた。シュルークの男性独特の、片手を腰につけた深い礼をする。彼はルエルに皇帝からの直筆の手紙を渡し、自分たちが不審な者ではないことを示すと、駱駝を座らせてルエルの手を引いた。
 駱駝にはしっかりとした鞍がつけられていて、もはやそれは椅子と言ってもいい形をしていた。革のベルトを腰に回せば、身体を固定することもできる。
「立たせます。背中を後ろにおつけください」
 駱駝に乗り慣れない賓客を乗せるためのものだろうと、なんとなく察しがついた。先導と高みからの警備を兼ねている先頭の使者は、簡素な布団のような鞍一つで跨っているからである。
 彼とルエル以外は、みな駱駝に荷物を載せ、手綱をひいて歩くようだった。ルエルについてきた者たちも、列を作って歩く。それでも持つものがなくなっただけ、行列は幾分か速度を上げた。駱駝は輿よりも大きく揺れたが、鞍という名の椅子のおかげか、それほど不安定な心地はしない。
「……砂漠というのは、雲がやってこない場所なのでしょうか?」
 頭上に広がる紺色の丸い日傘から、こぼれる太陽の明かりを見つめて、ルエルはぽつりと訊ねた。手綱をひいていた使者が、ああと振り返って微笑む。
「我らが国の境を越えたのでしょう」
「国境を?」
「はい。砂漠は確かに雨の少ない土地ですが、まったく水がないということはあり得ませぬ。雲もできるし、雨も降ります。もし急に雨が上がったのでしたら、それは姫様がシュルークの空の下に入られたからではないかと」
 言われてみればそうだ。どんな砂漠にも、オアシスの一つや二つ存在する。


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