11:大樹の下で


「――目を覚まさない、ですか?」
 眠りの儀から一週間が経ち、白の間に鐘が出されて、王宮内も心なしか明るい気配に包まれていたその日。昼食を終えて、午後の時間を部屋で過ごしていたルエルの元に届いたのは、思いがけない報せだった。
「はい。皇子が、未だに目を覚まされず……」
 報告の意味をとっさには理解できず、報せを持ってきたアルギスの目をまじまじと見上げてしまう。アルギスは居心地が悪そうに視線を避けて、歯切れ悪く、同じ言葉を繰り返した。
 ジャクラが、目を覚まさない。
「でも、本日中という予定ではないのですか? まだ薬が切れていないのでは?」
 ルエルは窓の外を見て、アルギスに訊ねた。空は赤く染まりかけているが、今日という日はまだ終わりそうにない。しかし、アルギスの表情は硬いままで、彼は静かに首を横に振った。
「通常なら、昼ごろには目覚めておられます。あれは強い薬ですゆえ、効果が少しでも過剰になると危険ですので、調合は分量を変えず、慎重に行っているはずなのです。この時間になっても切れないなどということは、今までに前例もなく……」
 アルギスの声音はいつになく細い。彼は事態を告げても表情を変えないルエルに痺れを切らしたように、とにかく、と頭を下げて言った。
「導師と調合士、それに眠りの間へ立ち入りを許可されていた方をすべて呼んで、現状の確認と解明をいたします。ルエル様にも、お集まりいただきたい」

 長い廊下を、アルギスは大股に歩いていく。追いかけるルエルは彼の背中に隠れるほど小柄で、ドレープのかかったドレスの裾をもたつかせながら、懸命に足を動かした。
 眠りの間に二人が着いたとき、大臣たちは全員集まり、寄り添い合って口々に潜めた声で話をしていた。アルギスの姿に気づいて顔を上げ、後ろから出てきたルエルを見て、それぞれに礼をする。ルエルは彼らに一礼して、部屋の奥へ視線を向けた。
「アルギス、ハーディ導師は……?」
「調合士を連れて、こちらに向かってくださるとのことです」
「そうか、分かった。一刻も早く、来てくれるといいが」
 ベッドの傍にはフォルスがいて、彼はアルギスと導師の所在について手短な確認を済ませ、再びベッドへ向き直った。隣には青白い顔をしたナフルが座り込んでいる。皇妃であるはずの彼女が、椅子に座らず床に膝をついていることに誰も気が回らないほど、大臣たちも血の気を失ったような顔色をして立ち尽くしていた。
 柔らかな布団は、呼吸に合わせて浅い上下を繰り返している。
 ルエルが静かにベッドの傍へ歩いていくのを、止める者はいなかった。皆、息を殺してその一挙一動を見つめていた。ルエルは背中にかかる視線を感じながらも、近づいて、フォルスとナフルの反対側にゆっくりと身を屈めた。
 この一週間、眠りの間へ足を運んだことはない。一週間ぶりに見たジャクラの姿は、眠りの儀に就いたときと変わりなく、閉じた瞼の下もただ眠っているようにしか見えなかった。
「ジャクラ?」
 転寝から起こすように、声をかける。ルエルはまだ、分かっていなかった。そんな行為はナフルがとっくに、声も枯れるほど繰り返したであろうということも、アルギスがあんなに狼狽していたことの意味も。
 揺らがず、騒がず――固く閉ざされたルエルの心には、彼らの放つ怖れや悲しみが靄のようにしか響いておらず、事態の大きさを理解できていなかったのだ。だから、呼びかけるなどという場違いな真似もできた。
 しんと静まった部屋の中、ルエルがシーツに手をついた衣擦れの音だけが響き渡る。返事はない。ルエルはもう一度、淡々とした声で彼の名前を呼んだ。
 彫刻のように動かない髪を、ルエルの息が揺らす。ジャクラはそれでも目を開けず、そのときになってようやく、ルエルは頭の芯が冷たくなるような感覚を覚えた。
「ジャクラ……? ねえ」
 体内を伝い、音もなく広がった冷たさに指先が震える。額にかかる髪をどけて、躊躇いがちに肩を揺すった。堪えかねたように顔を覆うナフルを、フォルスが自分の傍に抱き寄せる。
 その苦しげな表情が、ルエルの中に巡り始めた暗い予感を一気に加速させた。
「嘘でしょう? だって、薬はいつも通りだったって……こんなこと、今までに一度もなかった、って……」
「ルエル様、それ以上は」
「いや、離してください! あなたが言ったことよ、本当でしょう? こんな……、こんなこと嘘よ。あっていいはずがない」
 止めようとしたアルギスの手をはらいのけ、彼を睨む。ルエルの強い眼差しに、アルギスが伸ばしかけていた手をびくりと止めた。心臓が訴えかけるように、どくどくと鳴り続けている。
 やがてその響きは、胸の奥底に沈めてあったはずの感情と呼応して、ルエルの中で大きな爆発を引き起こした。
「な、何の音だ……!?」
 幾重にも閉ざされていた扉が、内側から次々と押し開けられていく。嫌だ、嘘だ。信じない、信じたくない。
 恐怖と焦燥、悲しみや怒り、その中に弱々しくも灯る切望が荒れ狂い、身を破るような激情となって、ルエルの扉をすべて打ち壊した。
 ザキルが駆け寄って、カーテンを開ける。
 大臣たちの目に映ったのは、空が見たこともないほど深い灰色に濁り、その間を稲妻が走る瞬間だった。雷が轟き、雨が降り始める。フォルスとナフルまでもが、あまりの音に窓へ目を向ける。


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