9:氷の扉


「見てください、ルエル様。綺麗な傘でしょう」
 細い、銀の骨に支えられた白地の傘が、サルマの手で開かれる。中心から黄色い花の模様をレースのように描いて、骨の先に刺繍糸の房を垂らした新品の傘だ。
「まあ、本当ね。でも、どうしたの? これ」
 明るい色合いが、上機嫌なサルマによく似合って愛らしい。ルエルは彼女がこんなものをどこで手に入れたのかと、珍しく思って訊ねた。
 シュルークには基本的に、傘を差すという文化がない。元々晴れの日の多い土地柄に加え、ジャクラが生まれて十八年、ほとんど雨が降らなかったせいで、必要とされてこなかったのだ。日光の強さにも慣れているこの土地の人々は、日傘も差さない。女性では時々どこからか入手してくる人もいるそうだが、サルマはこれまで、肌が日に焼けることを気にしているそぶりはなかった。
「白の間で売っていたんですよ。傘商人が現れたんです」
「傘商人?」
「ええ。この傘はただの日傘ではなくて、晴雨兼用なんですよ。日傘よりも細かい織り目に蝋を塗ってあって、少しの通り雨なら防げるんです」
 目を丸くするルエルに、サルマが微笑む。
「近頃、シュルークにも雨が増えてきましたから。今、白の間では傘を扱う商人が多くなって、人気が出てきているところなんです。街でも織物と一緒に傘を作る工房が出てきて、昔職人だった人なんかを探して雇い入れているそうで」
「そうだったの……、知らなかったわ」
「皆、この雨を喜んでおりますよ。今日、白の間へ行かれるのでしたら、ご覧になってみてはいかがですか。帰る頃には、両手に傘かもしれませんが」
 アクセサリーだの織物だの、挨拶の代わりにと気前よく次から次へ渡してくれた白の間の商人たちの姿を思い出し、ルエルはサルマの言葉にくすくすと笑った。閉じた傘を、サルマは「すみません」と断ってから、大切そうに壁へ立てかける。
 こんなふうに新しい、日傘でない傘を持ち歩いている人が、他にも増えているということか。
 ルエルはドレッサーに座って、じんわりと温かくなる胸を押さえた。雨呼びの力が多くの人に受け入れられる可能性など、昔は考えもしなかったことだ。灰色の雲しか生まないと思っていた力も、ここでは役に立てられる。
「一目お会いしたときにも、お可愛らしい方だとは思いましたけれど……」
 背後に立って、髪を梳かしてくれていたサルマと鏡の中で目が合う。唐突な発言に頬を赤らめながら、なに、と促す意味を込めて見つめたルエルに、彼女は綻ぶような笑みを浮かべた。
「そのようにはにかまれてしまっては、喜ばない殿方はおりませんわね?」
「そ、そんなこと……」
 意味ありげな微笑みを向けられて、首の代わりに両手を振って否定する。サルマはにこにこするだけで、その否定を受けも捨てもしなかった。
 鏡の中の自分の顔に、どうしたらいいのか分からないと書いてあるかのようだ。サルマが髪をゆっくりとまとめているので動くわけにもいかず、ルエルは気を散らすかのように、足を揃えたりショールをいじったりして窓の外を見た。
 可愛い、という称賛を、丸ごと受け止めて喜べるほど自信はないし、幼くもない。
 けれど周囲の変化に気づかないほど、ルエルも鈍感ではなかった。よく笑うようになってからというもの、大臣たちや商人たちが、以前より気楽に接してくれているのを感じる。今までは社交的な彼らに与えられる、一方的な親切だった。今は少し違う。ただ優しくしてくれるというのではなく、互いに歩み寄りたいと思ってもらっている、個人の意思がそこにあるのだ。
 感情を表に出すというのは、こんなにも自分の周囲を豊かにすることなのかと、日々強くなるその変化に驚く毎日を送っている。サルマだって変わった。初めから気取らず、気後れせずといったふうだった彼女でさえ、何が変わったとは上手く言えなくても、今のほうがずっと良い付き合いをしてくれているとルエルは思う。
 いつのまにか、ジャクラの言っていた通りになった。
 ふと、シュルークに来てすぐの会話を思い出して、心の中で頷く。今の自分には、ここでの生活が、心の底から楽しい。

「ルエル」
 待ち合わせの時間に中庭へ降りていくと、ジャクラは先について、ベンチに座って待っていた。公務が休みの今日は、王宮での正装とも言える袖の広い上衣ではなく、ラフなチュニックに上着代わりのストールを巻いた格好だ。ルエルもシンプルなワンピースに、絹のショールを肩にかけている。
「すみません、待たせてしまって」
「いや、そんなに。というか、別に遅れてはいないぞ」
 準備にそれほど時間をかけたつもりはなかったのだが、出がけになってショールを留めるピンを悩んでしまい、ぎりぎりの到着になった。日の差す芝生を足早に駆けて寄ると、ジャクラは小さく笑って頭を撫でる。
「行こうか。ムラーザが、お前に会うのを楽しみにしていた」
 差し出された手を取り、ルエルも頷いて微笑み返した。彼は変わらない。宴の夜の一件のあとも、今までのままだ。


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