6:予兆


 ルエルの感情はひとたび目を覚ますと、日ごと夜ごとに鮮やかさを増していった。これまで曖昧な温もりや靄のようにしか感じていなかったものが、手に取るようにはっきりと、嬉しい、楽しい、難しい、と分かる。
 自分の中に、こんなにも多くの感情が眠っていたのかと、ルエルにとっては驚きの連続だ。今まで通りに生活しているつもりでも、慣れた食べ物、見覚えのある建物、見知った人々――何もかもが新鮮に感じられる。
 ハーディやナフルが言うには、それでもまだ一般的な人に比べれば、強い抑制が癖になっているだろうとのことだ。十六年をかけて身についた枷は、そう簡単には壊れない。今までの抑制が完全になくなったというわけではなく、緩んだ、という状態でしょうねと、ハーディは穏やかに微笑んで言った。
 確かに、時々降るようになった雨はまだ、小雨ばかりだ。どっと降ったのはジャクラが目を覚ましたあの日限りで、彼に比べるとまだ、表情や声音の変化も少ない。ルエルは考えながら、自分の唇に、それから頬に手を当てた。
そうだ、特に笑う≠ニいう顔は、まだ一度も――
「ルエル」
「ひゃ……!」
 頭の中をあれこれと埋め尽くしていた考えごとが、一斉に飛んでいく心地がした。慌てて振り返れば、ベンチに座っていたルエルを唐突に抱きすくめた犯人は、すでにその腕を離して笑っている。
 翆玉の首飾りが肩の揺れるのに合わせて、ゆらゆらと光をこぼした。
「待たせたな。声をかけたのにぼんやりしていたから、ついからかいたくなった」
「も、もう……! 何事かと思って、びっくり……」
 青々とした空から、一瞬降り注いだ天気雨に打たれながら、ジャクラは子供をなだめるようにルエルの頭を撫でた。悪かった、というわりには、大した反省の色は見えない。
 未だばくばくと落ち着きなく騒いでいる心臓を押さえるように、ルエルはドレスの胸元を握って、ふいと視線を背けた。本気で怒っているわけではないが、こういうときにどうしたらいいのか、人と関わった経験が少なくて分からない。特に、からかわれるなどという経験は、ルエルの人生になかったことだ。
 感情という形のないものを揺さぶられる、その感覚に慣れなくて、いつも狼狽する。
「行くか。日は高いが、たまには庭伝いに門まで出よう」
 差し出された手を取ることで、そんな証明の代わりになればと思う。謁見の間と同じアロマだろうか、それとも香水か、手を引いて歩き出したジャクラからは仄かにオレンジの香りがした。
 彼は、ルエルが雨を降らせるようになってからというもの、様々な方法で感情を刺激してみようと試しているようだ。驚きはあらゆる感情の中でも、特に抑制がしにくい。ニフタにいた頃は、誰もあえて心静かに過ごしているルエルを驚かそうなどとはしてこなかったし、やり過ごし方に慣れていないというのもある。身構えておける感情ではない分、ルエルにとっても無意識に抑えてしまうことが少ないものだ。
 加えて、悔しさや呆れ、戸惑いや、その後にやってくるむず痒いような可笑しさなど、他の感情も誘発する。明確に告げられたわけではないが、どうやらそのために、最近のジャクラは自分を妙にからかっているのだと、ルエルは思った。
 藍の間の中庭の入り口に建つ門をくぐり、青の間の中庭へ出る。白い歩廊と白い門に四方を囲まれたこの中庭は、照り返す日の光に、どこを向いても眩しい。ゆるりと目を細めたとき、洗濯物を抱えて歩廊をゆく二人の宮女がこちらに気づいた。
 声の届く距離ではない。ジャクラが軽く微笑み、彼女たちは微笑ましげに顔を見合わせて、ふわりと頭を垂れる。
 言い様のない気恥ずかしさが、ルエルの中にふと湧いた。
「どうした?」
「え……、っと」
 それまでごく自然に繋いでいたはずの手が、ふいにぎこちなく固まってしまう。思えば何を当然のように、疑問も持たずに繋ぎ返せていたのか――今さら分からなくなった。ジャクラはルエルの、突然の緊張を見逃さなかったらしい。空がわずかに曇っていく。
 何でも、と消え入るような声で言ってから、何か他の話でごまかさなくてはと、ルエルは必死に頭を巡らせた。
 言い難い。これも、長いことはっきりと感じていなかった感覚だ。悪いことを言うわけではないのだが、何となく、訊き難い。あなたはこういう場面を人に見られて恥ずかしくないの、とは、なぜと上手く説明ができないが何となく訊けなかった。
 そういえば、以前に大臣たちの前で抱きつかれたこともあったと、一人で思い出して納得する。感謝を示す抱擁であって、色めいたものではなかったが、ルエルのほうはそれでも十分に慌てたというのに、ジャクラは平然としていた。
 今も、平気なのかもしれない。
 何事も顔に出やすい人だというのに、ジャクラに表情の変化は見受けられなかった。視線が彷徨うわけでもなく、頬が赤くなるわけでも――否、それは肌の色のせいで、はっきりとは分からない。赤面を悟られにくいという点では、褐色の肌は羨ましいと、ルエルは内心頷いた。焦りや照れを大っぴらにしないで済むというのは、それだけで少し堂々として見える。
「おい、本当にどうしたんだ」
 それでも目の前の瞳が明らかに困惑しているのに気づいて、ルエルはようやく、じっと見上げていた視線を緩めた。「何を考えていたのか気になる」と、顔に書いてあると言っていいくらい、分かりやすい表情だ。
 人形のように微動だにしなかった自分と、対称的な人。
「あなたはどうして、感情を抑制するように育てられなかったのですか?」
 ルエルは思わず、ごまかしという当初の目的も忘れて、素直な疑問を口にしていた。
 唐突な質問に、ジャクラが瞬きをする。訊いたのは今が初めてだが、以前から何度となく、頭の片隅に思うことはあった。


- 18 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -