5:慈雨


 白の間の訪問から、ちょうど一週間。ルエルがシュルークへ来てから、三週間が経つ今日。毎月の恒例として、ジャクラが一週間の眠りに就くことになった。
 眠りの間と呼ばれる部屋の中には、厚い絹の天蓋で覆われたベッドが一つ。窓にはどれもカーテンが二枚取りつけられていて、明かりをしっかりと遮断できるようになっている。
 水差しを置く程度の小さなテーブルの他には、家具らしい家具は何もない。夜空の底を覗き込むような、紫がかった紺の絨毯と、星明りを思わせる象牙色の壁だけが、ただ一面に広がっていた。
 差し込む午前の光は明るいのに、この部屋はなんて静かなのだろう。
 大臣たちに続いてドアをくぐったルエルは、ナフルに手招かれて隣へ立ち、フォルスと短い言葉を交わしたジャクラがベッドに入るのを見つめていた。占師が白い、頭を垂れた花を一輪、あの小さなテーブルに置く。今日は、顔を布で覆っていない。細い顎をした、ナフルと同じくらいの年代の女性だった。
 眠りの儀に同席することを、希望したのはルエルだ。この三週間、シュルークに雨は降っていない。空がかすかに曇ったと感じられることは何度かあったが、それもわずかの間のことで、ルエルの感情はまだ、この国の空模様を変えるには至らなかった。
 昼食の席でナフルから、ジャクラとフォルスはルエルに負担をかけないため、今回の眠りの儀の日取りを秘密にしておこうと考えていると教えられ、自ら同席を願った。ついてきて何ができるわけではないが、招かれてこの国へ来た以上、何も知らないでいることがいいとは思えない。ジャクラが煌野の皇子≠ニしてどんな生活を送ってきたのか、シュルークは彼の力をどのように扱ってきたのか、興味もあった。
 小さなガラスの杯が、軍事大臣アルギスによって、静かに差し出される。ベッドを囲む大臣たちの見守る中、受け取ったジャクラは迷わずそれを飲み干し、空の杯をアルギスに返した。
「お休みなさいませ、皇子」
「ああ。また今月も、恵みの雨のあらんことを」
 横たわって、目を閉じる。周囲はしばしの沈黙を守ったが、ほんの一分が経ったか否かというくらいで、アルギスが膝をついた。布団の上にあるジャクラの手を取るが、彼は目を覚まさない。
 すでに眠っているのだ。驚きに目をみはるルエルの前で、アルギスは慣れた手際をもって、ジャクラの脈を確かめた。
「眠っておられます。大丈夫でしょう」
 ナフルが隣で、詰めていた息を吐く。フォルスがその肩を抱いて安堵の声をかけ、大臣たちは口々に近くの者と言葉を交わし始め、誰もジャクラが目を覚ますことなど、まったくといっていいほど気にしていない様子だ。
「あの、すみません」
「何ですかな?」
 カーテンを閉めて儀式の終わりが告げられると、皆それぞれに部屋を後にし始める。見えない波に押し出されるように、大臣たちに続いて眠りの間を出たルエルは、自然と足並みから遅れ始める導師の姿を見つけて、そっと声をかけた。
「あれは、眠りを促す薬なのですよね? あんなに早く、深く、眠りに落ちるものなのですか」
 ハーディはルエルを見つめて、窪んだ目を瞬かせる。やがて白髪まじりの髭を片手で擦ると、そうですな、と声を潜めて言った。
「確かに、眠りを促す薬です。しかし、それはとても深い眠り。なぜなら、浅い眠りでは、人は夢をみるでしょう。夢をみてしまうと、眠っていても感情が動きます。それでは意味がございませんので、とても深く、眠らねばならない」
「……ええ」
「ゆえに、ただの睡眠薬ではございませぬ。皇子に飲んでいただいているものは、皇家に伝わる仮死薬をごく軽く、調薬し直したものです」
 ルエルは一瞬、耳を疑った。
「そんな……、まるで」
 毒ではないか、と。口に出さずに済んだのは、ハーディがそっと首を横に振ったからだ。はっとして口を押え、辺りを見回す。
 幸い、前方を歩いていたフォルスもナフルも、大臣たちも、各々の会話に気が逸れていてルエルの声を聞いてはいなかった。しかし、危なかった。言ってはならないことを、言いそうになった。
 ハーディは宥めるように、優しく微笑んで頷いてくれる。ルエルの困惑を当然と認め、自分たちのしていることがどれほどのことか、その恐ろしさを自覚している目だった。ただ少しでも間違いが起こってしまったら、ジャクラは目覚めなくなってしまう。薬の加減や、彼自身の体の調子や、数え上げたらきりがない不運を招く可能性を孕んでいる。
 皆、それを分かった上で、眠りの儀を続けるしかないのだ。
「……お顔の色が、優れませぬ。今日の勉強はお休みですから、お部屋に戻られたら、サルマに温かいチャイを持ってきてもらいなさい」
「……」
「我々はいつも、この一週間、皇子の目覚めを祈って過ごします。皇子が薬を飲んでくださるのは、我ら国民のため。私たちにできることは、あの方の眠っておられる間に、空が運よく潤みをもたらしてくれることを願うだけなのです」
 それでは、と一礼して、ハーディは階段を下りていく。大臣たちの背中はいつのまにか遠く、小さくなり、後方にいた占師の姿もいつのまにか消えている。
 彼らが角を曲がって見えなくなっても、ルエルは足を速めることができずに、物音ひとつない廊下をゆっくりと歩いた。


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