11:大樹の下で


 アルギスだけが黙して、ベッドを見つめていた。
「起きて、ジャクラ。こんなの、悪い冗談でしょう? もう感情を閉ざしたりしないわ、雨なら私がずっとシュルークにあげます。だから、お願い」
 布団の上に投げ出された手を握って、ルエルは震える声で懇願した。
「目を、覚まして――……」
 白くなるほど力のこもった指先は、握っているほうなのに、もはや痛い。嵐のような雨が、窓を叩きつける。
 そのときふいに、ルエルの中にあった手が裏返されて、ぎゅっと握り返した。
「……呼んだか?」
 今にも落ちそうに音を立てていた雷が、散り散りになって消える。代わりに雲を裂いて差し込んだのは、金色の、目映い太陽の光だった。
 頭の上から聞こえてきた声に、ルエルは突っ伏していた顔を上げた。
 琥珀色の目が、ルエルをまっすぐに見つめて瞬きをする。振り返ったナフルが息を呑み、フォルスが信じられないと言わんばかりに両目を見開いて、大臣たちが次々に声を上げ――
「アルギス」
 ジャクラはこの状況の中、自分の傍に跪いた軍事大臣の名を呼ぶと、涙で濡れたルエルの頬を拭って起き上がった。
「は。お疲れさまでした、皇子」
「いや、お前のおかげで助かった。ありがとう」
「え……、えっ?」
 ぽんぽん、と頭を撫でられても、まったく事態が把握できない。
 呆然とするルエルを横目にジャクラは靴を履いて、アルギスと共に立ち上がり、窓辺に並んでルエルと同じ顔をしている全員に頭を下げた。
「――この通りだ。騙して申し訳なかった」
 ジャクラがきっぱりと、そう宣言する。口を開けたまま何も言えずにいる者、まだ状況に追いつけずに呆けている者。ルエルもその一人で、背筋を伸ばして立ったジャクラを、知らないものでも見るようにぽかんとして見上げていた。
 ジャクラだ。ジャクラが、目を覚ました。
「どういうことです、ジャクラ」
 ありとあらゆる驚きの表情を向ける人々の中で、最初に口を開いたのはナフルだった。空気がひびわれるような厳しい声音に、ルエルまでもがびくりと肩を跳ねさせる。
 先刻まで悲しみに震える母だった彼女は今、何ものをも圧倒する皇妃の顔になって、ジャクラを睨み据えていた。
 アルギスが一歩、前へ出て深く頭を下げる。
「ナフル様、申し訳ありません。私も皇子に協力しておりました」
「あなたまで……!」
「しかし、これはすべて理由があってのこと。皇子」
 ジャクラはああと頷いて、アルギスの隣へ立った。大臣を見渡し、フォルスとナフルに目を向け、そうして。
「……俺も一週間ぶりに目を覚ましたが。お前もようやく、目を覚ましてくれたな?」
 ルエルを見て、一言だけそう告げ、崩れるように笑った。
 頭の中に浮かんだ可能性を、ルエルはまさかと否定しそうになる。しかしジャクラはそれよりも早く、集まった人々に向けて、口を開いた。
「この通り――、どうしても取り戻したいものがあったので、手段を選ぶわけにいかず、皆を巻き込みました。多大な心配をかけたことを、心からお詫びします。……良くない方法だとは分かっていたんだが、本当に悪かった」
 窺うように顔を上げて、ジャクラは最後に、大臣たちへ向けていつもの口調でつけ加えた。大臣たちはそれを見て、ようやくことの実感が掴めてきたらしい。わっと安堵の息を漏らし、先ほどまでの沈黙が嘘のように賑やかになる。
 外はまだ雨が降り続いているが、白くなった雲の間から日が射して、雷は跡形もなくどこかへ消え去っていた。
 フォルスはしばしそれを見てから、深く息をついて、ジャクラに向き直った。
「なるほど。少々荒療治ではあるが、理解はできた。お前はルエル王女の心を……彼女の動揺に賭けて、呼び起こそうとしたのだな」
「はい。目覚めてすぐ、アルギスに彼女の状態が変わっていないことを聞き、この可能性に賭けるしかないと考えました。皆には黙っていてくれるよう、アルギスに命じたのは俺です。導師にも事実を伝えてあり、調合士にも余計な不安を与えぬよう、いま伝えに行ってもらっています。多大な騒ぎを起こして、申し訳ありませんでした」
「まったくだ。……目的は確かに果たせたようだから、そこだけは褒めてやるがな」
 フォルスの視線を受けて、ナフルの「まったくもう」と憤りながらも嬉しそうな眼差しを見て、今の会話を聞いて、ルエルもやっと自分の考えに確信が持てた。ジャクラが周囲を混乱させてまで、こんな嘘を仕組んだ理由。
「私の感情を、取り戻すために?」
「それ以外に何がある」
「でも」
「これでも結構、堪えていたんだぞ? 一度は確かに心が通じたと思ったはずのお前から、見知らぬ他人のような目をして見られるのは」
 ルエルは言葉をなくして、懐かしむように頬へ触れるジャクラを見上げた。だってそれは、と心を閉ざした理由を思うが、開いた口からは何も言えずに、ただ首を横に振るだけだ。
 大切な人は別にいるのだと知ったから、傍にいることが辛くなって、想いを辛さごと忘れてしまおうと思った。けれど、そんなことはできない。ジャクラが永遠に目覚めないかもしれないと思ったあの瞬間、決意なんて呆気なく崩れた。一番でなくてもいいからこの人のために、彼の人生のために、自分を捧げたいと思ってしまった。


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