7:青に溢れる


「ジャクラ、服が……っ」
 ルエルだけではない。ジャクラの服も、広く開いた両足の裾はくるぶしまであって、今は水の中で花弁のように揺れている。濡れた、なんて話ではない。水浸しだ。けれども彼はいつもと何ら変わらない、明るい声で答えた。
「そうだな、後で謝らないとな」
「誰に、ですか」
「今日の洗濯を担当する者にだ。まあ、この天気なら、運が良ければ王宮までに乾くかもしれないが」
「靴、も……っ」
「ああ、それはさすがに干さないと乾かないか。帰りの心配ならしなくても、替えはアルギスが持っている。何かあったとき、砂漠を靴なしでは歩けないからな」
「そういうことではなく……」
「なあ、ルエル」
 名を呼ぶ声に、遮られる。なに、と顔を上げた瞬間、ジャクラはふいに立ち止まった。そうして振り返って、訊いた。
「どうだ? 初めての、オアシスの水の中は」
「どう、って……」
 琥珀色の双眸にまっすぐ見つめられて、ルエルは足を止め、その場で辺りを見回した。
 肌に触れる水は冷たい。熱を持った砂と対称的だ。布地が魚の尾のように、輝く水の下を浮遊している。
 綺麗だ。
 まともに考えればドレスを汚しているようなものなのに、その様は決して嫌なものではなく、美しい光景だと思えた。
 遠く、彼方へ目をやれば、透明な水は青く見える。ルエルたちが歩いたせいで波立っていた水面が静まり返ってくると、そこには何の音もなく、吸い込まれるような涼しい風だけが残った。
 心臓がひたすらに、どきどきしていた。疲れた体で、走ったからだろうか。冷たい水に、いきなり触れたからだろうか。
 ――きっと、それだけではない。
「……っ」
「ジャクラ?」
 楽しかったから、だ。
 ルエルがようやくその結論にたどり着いたとき、ずっと黙っていたジャクラが唐突に息を呑んだ。どうしたのだろう、と上げた顔を、両手で挟まれて頭が真っ白になる。
 彼は、何だかとても驚いた顔をしていた。
「ジャクラ、どうかしたのですか……?」
「どうかって、ルエル」
「は、はい?」
「お前――今、笑ったぞ」
「え……」
 言われたことに、今度はルエルが唖然としてしまう。今、何と言ったのか。笑ったと、言われたのか。
「無意識、だったのか?」
「ええ、全く……」
 戸惑いながらも頷いて、確かめるように、ジャクラと同じく自分の頬へ手を伸ばす。それが彼の手をただ上から押さえるだけだということにも、触れてからやっと気がつくほど、ルエルは動転していた。
「……ルエル」
 天気雨がぱたぱたと、水面を叩く。――私が、笑った。
 信じられない心地で立ち尽くすルエルと裏腹に、ジャクラはひどく真剣な顔をして、口を開いた。
「もう一回」
「は……?」
「もう一回、見せてくれ。すごく可愛かった」
「な、ええ……っ!?」
 頭の中が今度こそ、抑えきれない混乱で爆発するのを感じた。もう一回、と言われても、自分では笑ったことにさえ気がつかなかったのだから無理だ。再現のしかたなんて分からない。そう説得したいのに、ルエルには今、それだけの言葉をまとめる余裕が残ってはいない。
 雨が一層、強くなる。こんな大雨を浴びたのは久しぶりだ。何の感情が誘発した雨なのか、もはや自分でも説明がつけられそうにない。
 ルエルはひたすら、魚のように口を開いたり閉じたりさせながら、今は無理だと首を横に振るしかできなかった。


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