5:慈雨


 それからの七日間というもの、ルエルはどこか落ち着かない日々を過ごした。
 午前は変わらずハーディがいて、勉強を進める代わりに物語や詩を聞かせてくれるが、ジャクラはいない。ここへ来てからずっと、夕の日課だった二人の散歩もなく、サルマが気を利かせて中庭にお茶の用意をしてくれたりもしたが、夕日の赤さが傍らの空席ばかりを照らす。
 朝夕の食事の席も、彼がいないととても静かだった。ジャクラが特別によく喋ると思ったことはなかったが、思い返せばルエルが口を開くのは、大体が彼に何かを問われてのことだったのだ。
 朝起きてから夜に眠るまで、心がいつも、どうにもざわめいている。
 それは雨憑姫≠ニまで呼ばれた自分が招かれていながら、役目を果たせずにジャクラを眠らせてしまったことへの申し訳なさなのか、別のものなのか。感情を自覚して、名づけることを棄て続けてきたルエルには分からない。唯一分かることと言えば、自分はジャクラがいないというだけで、こんなにも口を利かなくなるという事実だけだった。
 もっとも、ニフタにいた頃はそれが当たり前だったという気もする。
「ルエル様、どちらへ?」
「眠りの間に。変わったことはないか、少し様子を見てくるだけだから一人で行くわ。夕食までには戻ります」
「……そうですか。お気をつけて」
 病に臥せっている人でもないのに、見舞いのように足を運ぶのは、なんのためなのだろう。霧の向こうにある一点の景色を見出したがる旅人のように、眠りの間を訪れては、変わるはずもない横顔を遠目に見て帰るだけだ。
 藍色の裾を揺らして廊下を歩きながら、ルエルは窓の外を眺めて、そっと目を伏せた。

 空は人々の祈りに応えるように、二日ほど雨を降らせた。ジャクラが眠っている間には、いつもこれくらいの雨があるという。それでもこの土地は年々、水不足の危機に迫られてきている。
 天が雨を与えるか否かは、祈りでは決められない。


 ジャクラが目を覚ましたという報せが届いたのは、予定通り、眠りの儀から一週間後の昼近くのことだった。ナフルとの食事のため、そろそろ彼女の部屋に行かなくてはと準備をしていたルエルも、サルマと共に部屋を飛び出して眠りの間へ急ぐ。
「段差がありますから……っ」
「分かっているわ」
 長いドレスの裾に足首を取られながら、今にも駆け出しそうな速さで廊下を歩いていくルエルを、サルマは気が気でないというように宥めようとした。通りがかりの宮女が、挨拶をしようとして間に合わず、ぽかんとした表情で見送る。
 誰もルエルがシュルークに来てから、こんなふうに慌ただしくしている姿を見たことはなく、驚くしかできなかった。
 視界の中を過ぎ去っていく何本もの柱を横目に、自分は何をこんなに急いているのだろうと、ルエルも考えていた。
 ジャクラが今日、目を覚ますことは、元々分かっていたことだ。だから朝食の席ではフォルスが昨日までより笑顔であったし、ハーディの授業は休みで、サルマはいつもより念を入れて、ルエルの肩までしかない髪に控えめな編み込みなど施してみせた。大臣たちも今日は王宮の外へゆかずに報せを待っているし、白の間にも朝から鐘が用意され、つい先ほど高らかに撞かれたばかりだ。
 何もかも、ただ当初の予定通りになっているだけ。それなのになぜ、と自分の心境が理解できないまま、足を止める。
「おお、ルエル様」
 眠りの間にはすでにフォルスとナフル、大臣の半数ほどが到着して、ドアは開け放たれていた。ザキルが飛び込んできたルエルを見て、招くように体をずらす。
 その後ろに、ベッドから身を起こし、靴を履こうとしているジャクラの姿があった。
「ルエル。来てくれたのか」
 久しぶりだな、とでも言い出しそうな調子で、琥珀色の目を細めて礼を言う。昨日まで彫像のように眠っていたことが嘘のような、ルエルの知る快活なその人が、戻ってきていた。
 知らせを受けたのだから、当然、知っていてここまで来た。起きているのは分かっていたことだ。ああ、それなのになぜ。
「――え……っ」
「これは……」
 堰を切ったように溢れる、胸の奥を奔る、この激流はなんだろうか。知っていたはずの情報は呆気なく押し流されて、分かっていただろうと諭す自分の声も、今は届かない。


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