白雨の館編U

 廊下に出ると、ウィータさんは「こっちだよ」と私を案内しながら邸を奥へと進み、しばらく歩いたところで一枚のドアを開けた。そこは邸の片隅にある給湯室のような部屋だったが、壁の一面がガラスになっていて、小さなドアで外と行き来ができるようになっていた。
「裏庭なんだ。薬草と魔法植物を主に育ててる」
 思いがけない明るい景色に、は、と感嘆の息が漏れる。ガラスの壁は外の光を、部屋いっぱいに吸い込んでいた。
 ウィータさんはドアの近くに育てられている植物を何種類か選んで、かごに摘んで戻ってきた。抽出して、お茶を作る。一つの鍋にお湯が張られて、苦味を取るもの。ガラスのポットが用意されて、そのまま使うものと分けて入れられた。
 ふつふつと、沸騰する水面にいくつもの香りが混じりあう。
「夜会のときはごめんね」
「……え?」
 ふと、ウィータさんが私を見下ろして言った。何の話か分からずに首を傾げると、彼はちょっと笑ってお団子にしていた髪をほどく。
 そうして前髪ごと、片側にかき寄せた姿を見て、脳裏にはっと思い出される光景があった。
「あのときの、ワインの……?」
 一ヶ月ほど前、本部からの任務で潜入した、アラン・カーディアの夜会にて。
 人ごみの中でぶつかって、私のワンピースにかかったワインの染みを綺麗に消してみせた――招待客の一人だった、あの魔法使いではないか。
(そうだ、アンクさん。あの人も)
 ウィータ、と。私と話していた青年を呼んだ、あの人はアンクさんだ。
 私は思い出すと同時に、ドアを振り返った。師匠をアンクさんと二人きりで残してきてしまった。あの人もまた、アランの招待客ではなかったか。

「……さて、本題の件だが」
 イズとウィータ、二人のくぐったドアがゆっくりと閉まった後、応接間では空のカップを手にしてアンクが口を開いた。ぱちん、と空いたほうの手で指を鳴らすと、カップの中に紅茶が湧き戻ってくる。
 好みを顔に出したつもりはなかったのだが、キーツのカップには珈琲が注がれた。成る程、と思って、思わず唇を吊り上げる。
 これが、アストラグスの七賢者全員が名を知る魔法使いか。当代の七賢者には直接的な交流はないと聞いていたが、かつて少し地質と魔物の関連を探るのに協力を仰いだだけで、本部の記録に今も名が残るというだけある。
「最初に、訊いていいか」
「なんだ」
「あんたは、今回の件についてどこまで知っている?」
 熱い珈琲を一口啜って、テーブルの下で脚を組み、キーツが訊ねた。ふう、と琥珀色の水面を冷まし、アンクが思案するようにその目を伏せる。
「おそらく、君が七賢から聞いている通りだ。大したことは知らない――僕があの夜会に居合わせたのは、間接的な知人の誘いであって、主催者だったアランとの交流はなかったのでな。ただ、偶然の顛末だが、君たちが持っているべきものを一つ、持ち帰ってしまった」
 カップを置いた手で、ジャケットの内側を探り、アンクはそこから一枚の薄い封筒を取り出した。テーブルクロスの上を滑らせ、キーツの前に送る。
「招待状だ。あの夜会で、別邸の爆発に巻き込まれた者たちを手当てしていたときに、たまたま発見した」
「これが……」
「傷の具合を診るために、僕の弟子が一人の男のジャケットを脱がそうとしたんだ。そのとき、不自然な魔力を感じたのでな。勝手ながら調べさせてもらったところ、それが出てきた」
 すでに剥がされた蝋の封を開け、キーツが中を確かめる。そこに記された宛名に、伸びた赤髪の間から覗く灰色の目が、にわかに厳しさを帯びた。
「テイラー・ファントム……」
「今はその名が現れているが、最初はエリオット・クランという名が記されていた。妙な魔法が込められていたので、僕が解いたところ、その名に変わったんだ。どうやら、偽名を使って招かれた者だったようだな」
 アンクは紅茶を傾けて、招待状を持ち帰った経緯を簡単に説明した。名を偽る魔法が、こちらの大陸の呪いと似た魔力を持っていたため、自分の手元に預かって処分するつもりで帰国したこと。帰宅後、改めて調べてみると呪いではなく目隠しのような魔法で、本名を隠していたことが発覚したこと。
「治療が終わって寝かせておいた部屋からは、いつのまにか消えていた。だから僕は、彼がそのテイラー・ファントム本人であったかどうかは知らん。だが、他人の招待状を預かるという状況も、中々ないものだろう。本人であったとみて、間違いないのではないかと思う」
 アンクの言葉に、キーツもそれはほぼ間違いないだろうと頷いた。

「どうやら、夜会でオレたちが手当てしたお客さんの中に、アストラグスの捜してる人が紛れてたらしくてさ」
 こぽこぽと、煮立ったお湯をかき混ぜながらウィータさんが言う。
 春の明るさと積もらない雪を壁一面に眺めながら、一通りの話を聞いた私は、警戒を解いて椅子に座っていた。
 アンクさんがアランの直接の知り合いではないこと。今回私たちがこうして顔を合わせいているのは、アストラグスの賢者側から、アンクさんに夜会の件で接触があったのが先であること。
 まあ、思えば本部からの連絡にも一応はそう書いてあった気もする。師匠があまりきちんと見せてくれなかったせいで、今回の仕事がいまいち把握できていなくて、無駄に身構えてしまった。
「お礼の連絡と一緒に、何か手がかりを知っていたら教えてくれってお願いされたの。まあオレたちも、決定的なことを知ってるわけじゃないんだけどね」
 その節はお世話に、と呟けば、ウィータさんは何とも言えない顔で笑った。
 アストラグスでは仕方がないとはいえ、討伐隊の仕事のやり方は過激だ。魔法は武器として使うには、あまりに多くの損害を出す。穏健な使い方を主とする国の人には、多分、私たちの仕事は理解がしにくいだろう。
「ま、そういうわけだからさ。心配しなくてもあの二人は、情報の受け渡しをしてるだけだと思うよ」
 押し黙ってしまった私の空気を変えるように、ウィータさんは明るい口調で言った。火を止め、漉したお茶をポットに移して、フレッシュハーブを熱で開かせる。
 慣れた作業を思わせる手際だった。そういえばこの裏庭を管理しているのはウィータさんだと、着いたとき、師匠と話していたのを思い出す。
 棚から手ごろなカップを取り出して、ウィータさんはそれを、薬草の香りの残るお湯にくぐらせて軽く温めた。
「うちの師匠は誰の味方でもないし、敵でもない。勿論、オレもそうだからね。……けど、まあ」
 同じ棚から、銀のお盆が出てくる。
「オレはお客さんって歓迎だから。歳も近いんだし、気楽にしてよ」
 ポットとカップを並べたお盆を持って、彼はにっと笑った。結び直したお団子の似合う、きっぱりとして快活な笑みだった。
 行こう、と声をかけられるままに、来た道をまた並んで帰る。
 四人分のカップはお盆に収まって、私が持つものは特になかった。要は、大切な話の間、外へ出されただけだ。任務を受けた師匠しか聞けない、機密事項なのかもしれない。本部からの依頼には、たまにそういうものもある。

「治療をしたとき、彼自身から特別な魔力は感じられなかった。一般の招待客……、ごく普通の人間という印象だった」
 だからまさか、国を挙げて捜索がされているような人物だとは思わなかったんだ、と。紅茶を傾けながら、記憶をたぐるようにしてアンクは語った。招待状を見下ろしていたキーツが、ほう、と顔を上げる。
「成る程な。それも、俺たちにとっては新しい情報だ」
 ポケットから封のされていない封筒を一つ取り出し、ばさりとアンクの正面に放り投げる。
 紅茶を持っていた手でそれを拾い上げ、アンクは中を見て、眉間に小さな皺を寄せた。
「食卓に金を置くのはやめろ。こんな上乗せをして、何のつもりだ?」
「新たな情報には対価を惜しむなと、マーロウの判断だ」
「マーロウ? ……ああ、あの賢者か。なら、そいつに伝えておくといい。招待状の対価なら十分受け取ったと」
「あんたな……」
 つき返された封筒を見て、キーツが億劫そうに腕を組む。受け取らない、という意思表示でもあった。これだから、世俗の泥を離れて暮らしている者と接するのは苦手だ。
「分かれよ、口封じだ」
「口封じ?」
「あんたがどこまでも中立の立場で、テイラーみてェなちっぽけな個人に加担しないことは分かってる。分かっちゃいるが、アストラグスは不安なのさ。俺たちがアイツについて知っていることは、あまりに少ないんでな。情報は一つでも、得たいし漏らしたくない」
「……そういうものか」
「ああ、だから形だけでも受け取ってくれ。でないと、俺があんたときちんと話をしてこなかったんじゃないか、あんたがテイラーと通じてるんじゃないかと、中央の無駄な不安を煽る。当代の賢者もだいぶ歳をとった……近頃は猜疑心の鬼だ」
 ふむ、としばらく考えるように遠くを見つめていたが、アンクはやがて「分かった」とだけ言って封筒を受け取った。その足元に置いたトランクは、本題に入ってすぐ、キーツから有無を言わさず押しつけられたものだ。さすがに、この中身は見なくても分かる。
「しかし、どういうつもりだ?」
 一旦、それらから目を離して、アンクが問いかけた。何の話だという顔をしたキーツに、紅茶を飲み干して向き直る。
「君の弟子のことだ。よりによって同行させるとは、君の神経が知れないな。死んだと思っている父親が、生きていて、国がそれを事件に関わりのある人物として捜しているなど――僕が彼女の前でその招待状を出したら、君はどう対応する気だったんだ」
 淡々とした口調の断片に、苦々しい怒りが滲んでいる。珈琲を傾けながら、キーツは送られてきた任務の文書を思い返した。
 ――〈尚、此度の任務では父親に関する情報が明らかにされる可能性が高いため、イズ・ファントムを連れての訪問は控えること〉。
 もっとも、本部が気にしているのは、イズが真実を知ってどう動くか、だ。目の前にいる魔法使いの懸念とは、感情の出所が違っている。
 黙り込んだキーツを探るように、アンクは俄かに語気を強めて続けた。
「夜会のこともそうだ。テイラー・ファントムが本当に君たちの捜しているほどの人物ならば、迂闊にもあの爆発に巻き込まれるなど、普通ではあり得ないだろう」
「そうか? 単に不運だったのかもしれないぜ」
「追われていると知っていて、君たちのいる場所に近づくような馬鹿が、国を動かすほどの事件に噛んでいるとは信じがたい」
「……」
「近づいたのは、君の弟子がいたからだ。君はテイラー・ファントムを誘き寄せるために、娘である彼女をあえて夜会に連れていった。違うか?」
 人形のような琥珀色の双眸の芯から、ゆっくりと、感情が滲み上がってくるのを見ていた。――存外、平然と世俗の泥を暴いてくる。薄暗いものには徹底して、関わりを見せない性質かと思っていたが。
 珈琲を飲み干し、キーツはニィと笑った。
「あいつを連れていったのは、錬金施設への侵入のためだ。大物がかかったのは、あくまで偶然だろう」
「……それが、君たちの国での暗黙の了解というわけだな」
「確信があったわけじゃねえ。関与があるかもしれないとは思ったが、まさか当人が出てくるとはなァ。まあ、おかげで一つ分かったこともある」
 組んでいた脚を下ろし、ちらとドアに視線を向ける。そうして唇に笑みを残したまま、声を落として言った。
「テイラー・ファントムは、イズを捜している。お前はそんな状況で、家に一人、半人前を残すか?」
 アンクの視線がわずかに、躊躇うように揺らいだ。物言いたげなそぶりだったが、キーツの手が招待状をポケットにしまったのを見ると、それ以上は何も言わなかった。
 足音が二つ、廊下から近づいてくる。やがてコンコンと、ノックと共にイズがドアを開けた。

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