渡りの歌W

「――渡り、だから?」
「――貴方に、笑っていてほしいんです」
 被った言葉は、言葉としてはまったく別のものだったが、どちらも意味は同じことだった。そうだ。渡りだから。流は静かに、黙って頷く。
 特別な想いを残したとしても、自分が渡りであるという現実は変わらない。変わらず、尚鳴のことも、彼女に抱いた想いも忘れていく。この身の中には何も残らない。あとに残されるのは、尚鳴だけだ。
 彼女一人が、すべて抱え続けることになる。それが悲しくなどないなんて、どうして言えるだろうか。
「……そんなことは、とっくに考え尽くしたと言ったら?」
「尚鳴?」
「寂しくならないわけがない。そんなことは分かっています。でも、何も残されなくたって、私は勝手に覚えていて、同じように寂しくなる。同じことなんです、あなたがここで背中を向けようと、私に向き合ってくださろうと」
 尚鳴の手は、月明かりの薄くなった闇の中でも分かるくらいに震えていた。だめだ、と頭の奥では叫んでいたのに、その手が伸ばされるのをどうしても拒めなかった。
 逃げることも、避けることも、叩き落とすこともできなかった。それは今この瞬間、流にとってもこの世で最も欲しいものだった。
「後悔などしません。どうせ忘れられないのなら、あなたの中に今ある私への気持ちの、少しでも多くが欲しい」
「……っ」
「お願いです、そのほうが――私は確かにあなたの心をもらったのだと、寂しくてもそれ以上に、幸せで笑っていられますから」
 そのための思い出をと、ここまで伸ばしておきながら、最後の一歩を怖れるように宙で震えている小さな手を。取っても後悔に苛まれるのは分かっていたが、取らなければもっと、忘れても忘れきれない深い後悔に呑み込まれる気がした。
 心臓の音が体中を支配している。身を焦がすような喜びと後悔がそこから溢れて、口を開いたら愛も憎も綯い交ぜになってしまいそうで、流は何も言わずに尚鳴の手を引き、涙で濡れた唇に口づけた。記憶の、五感の、どんなに深い淵のその先でもいい。一片でも構わないから、彼女を自分の中に留めておきたかった。
 それが、覚えているのに思い出せないもどかしさに変わってもいい。
 自分は一体誰を想ってこんなにも空虚な気持ちがしているのだろうと、旅の合間にふと抱く虚しさという傷口がほしい。この手に甦る温もりは何だろうと、正体に戸惑う苦しみがほしい。
 手のひらの熱、瞳の行き先、心の一部をどこかに置いてきたような、漠然と満たされない戸惑いがほしい。
 それこそがきっと、渡りであるこの身に残せる、最大の記憶だ。
「貴方が、愛しいんです」
 例え忘れてしまうとしても、この今が。
「ええ、流……私も」
 今は、紛れもなく本物で唯一だ。そこには嘘も後悔もない。
 微笑んだ尚鳴を腕の中に刻みつけるように抱きしめて、流は躊躇いを捨てた。あとはただ、彼女に触れる一瞬一瞬の記憶のどれかが、一つでも大きな傷となってこの胸の内に刻まれるようにと。
 そればかりを祈って、口づけを交わした。

 黄土の海を渡る風は朝の日に照らされて、どこからか浚ってきた土と草と麦と水の匂いを纏い、温く進む。足元にあった緑は次第に少なくなりつつあり、地面をつく杖は一歩、また一歩と深く沈むようになってきていた。
「本当に、ありがとうございました」
 杖を持たずに進めるのはちょうどここ、水黎村の入り口の、看板が立った辺りまでだろう。足を止めた村長が名残惜しげにそう言うのを、振り返った流は笑顔で返し、砂よけの布を風に広げて口を開いた。
「こちらこそ、三日間お世話になりました。おかげで良い休養になったと思います。皆さんと過ごせて、楽しかった」
 村長の後ろについてきていた村人たちが、口々に返事をする。見知った顔、思い出せない名前、見知らぬ顔、誰かの名前。有と無が混在し始めた記憶では、一人一人に礼を言うことはかなわない。流は深々と一礼し、皆に感謝を告げた。
「では、そろそろ行きます。また歌のことで何かあれば、この辺りを回っていると思いますので、歌枯らしの通ったあとを頼りに見つけてください。……それじゃあ」
「あ、あのっ」
 また、と別れを告げかけたところで、村長の後ろからか細い声が飛び出してきた。村人の視線が、一斉にやや下を向く。
「そこの、一番高い丘まで。お見送りします」
 村の男たちをかき分けて、尚鳴の顔が覗いた。
 していいですか、ではなく、します、と言っている辺り、断っても聞かなそうだ。見れば片手にしっかりと杖も握りしめている。
 ちらと窺うと、村長は小さく頷いて見せた。
「では、そこまで一緒に」
 流が応えると、尚鳴は力の入っていた顔を途端に綻ばせて、砂に足を取られかけながら急いで駆け寄ってくる。流はそれを待って、片手を彼女に貸した。村人たちがおやという顔をしたが、構わずもう一度礼をして、空いたほうの手で杖を持つ。
「さようなら」
 挨拶を交わし、流は今度こそ、村人たちに背を向けた。頭の奥を回るのは、機織りの音と村の歌。
「ついていくって言ったら、どうします?」
 前を向いて歩きながら、尚鳴が訊ねた。流はふむ、と被った布の下で少し考える。
「話し合いのない旅立ちは、ただの家出ですよ」
「……」
「貴方がいなくなったら、悲しむ人がたくさんいます。旅人になるのなんて、いいことばかりでもありませんし」
「あなたがそれを言うんですか?」
「大切な人には、守ってくれる家と家族のあるところにいてほしいと思うものです。そんな顔をしないでください。ね、……さらさ揺れる水面の」
「……白き花は流れゆく」
 脳裏に聞こえる歌を口ずさめば、最初は押し黙った尚鳴もやがてくすりと笑って、続きを歌った。里心を揺さぶろうとするあからさまな歌だったが、ついていくと言ったのはあくまで例え話でしかなくて、実際のところ尚鳴は労働力としても村を離れるわけにはいかなかった。
 旅人になるのは楽ではない。捨てなくてはならないものがたくさんある。
 流もそれを分かっているから、行こうとも帰れとも言わなかった。言わなくても、尚鳴が行けるのは約束した丘の上までだ。そこから先は水黎村が見えなくなる。丘は村まで一人で帰れる距離の、最も遠い場所にあたる。
 黄土の海を、流は取り留めもなく歌いながら歩いた。話すことがないわけでもなかったし、話ができないわけでもなかったが、村の歌であれば尚鳴がはにかみながらも一緒に歌うので、このまま彼女の声をずっとずっと聴いていられるような気がした。
 洗いたての布と、その下に着た服を眺める。
 襤褸だが袖や帯を繕ってもらったおかげで、多少は綺麗になった。川べりで針仕事をしながら話したときのことを、真新しい髪結い紐に込められた願いを、繋いだ手の先にある横顔を。尚鳴という少女のことを、自分はあとどれだけ歩む間、覚えていられるだろう。
 後悔はないと今朝、出立の前に顔を合わせた彼女は言った。笑顔で、きっと忘れないと言うので、思い切って訊ねてみたことがある。
 忘却が怖くはないのかと。
 彼女とより深い想いを交わしたあと、後悔はしなかったが、忘れるのが怖いと思う気持ちは一層大きくなっていた。特別なものほど忘れたくはないし、特別な相手と交わした言葉ならば、一つだって失うのは悲しいことに思えてしまう。
 家族や村人との関係だってそうだ。顔を覚え、名を覚え、共に記憶を積み重ねるほど親しくなって、些細な出来事を忘れることが怖くはならないのか。
 訊ねると尚鳴は、まず普通の人は忘れるということに対して、期限が明確でない分そこまで意識していないと正直なことを言った。それから、つけ加えるならばともう一つ。
 意識はしていないけれど、忘れてしまうことは悲しくて、だから私たちはより時間を重ねて、忘れていく記憶を補うように新しい記憶を創り上げていくのではないかと。そう語った。
 人は忘却が怖くないのかもしれないと思っていた流にとって、この考えは少し目の前の雲を取り払った。大切な誰かとの記憶を忘れてしまうことは寂しい。けれどそれは止めようがないから、接して補おうとする。忘却の空白に、次の思い出を入れて箱とするのだ。
 だから私が全部忘れてしまう前に、きっとまた会いましょうと彼女は言った。
「着きましたね、尚鳴」
「……はい」
「ここから先は、村が見えなくなります。貴方は、ここで」
 緩やかに登り続けてきた丘の、頂上から見える景色は広い。正面には黄土の海と、その果てに霞んだ村が見え、右を見れば彼方に湖が、左を見れば遠く立派な山が、振り返れば水黎村と村の先の小さな山が見える。
 尚鳴はかすかに瞳を潤ませたが、泣かなかった。にこりと口角を上げて、繋いだ流の手に口づけ、静かに離した。
 櫻色の髪に指を通して、流も尚鳴の額に口づけを返す。数多の言葉を代弁してくれることを願った。瞼を閉じれば昨夜の月が、まだぽっかりとそこに浮かんで見える。
「お元気で」
 どちらからともなく同じ別れの挨拶を選んで、流は丘を下り始めた。
 水黎村の側から登るときは緩やかだったが、反対側は急だ。勢いのついてしまう坂道のようなそこを、下る歩みは速い。頂上はどんどん遠ざかり、視界は低くなった。
 麓と思われる辺りまできて、ようやく振り返る。まるで崖を一つ下りてきたかのようだった。頂上ではまだ尚鳴がいて、流に気づいて大きく手を振った。
 青天の下、髪がふわりと広がって、青を埋め尽くす。さながら一本きり、満開の櫻だ。
 振り返そうとして片手を高く上げたとき、横からふと、風が流の頬を撫でた。あれ、と思う間もなく、一陣の強い風は体中を包み込み、砂煙を巻き上げる。
 それは、ごく小さな歌枯らしだった。
「――――」
 被った布が膨れ上がり、大きく広がって収縮していく。一瞬の風の中に、流は見た。
(これが、私の……)
 歌を。
 生まれ、育ち、歩み、流れ、出会い、今日まで積み重ねられてきた流自身の歴史の歌を。いつもは思い出すことなどかなわない、遠い記憶の数々を。
 誰かが手を引いている。そうだ、これは水黎村の歌を記憶していた先代の渡りだ。もう歳だからというので、旅の途中で出会った流を村長に会わせて、水黎村の歌を継がせた。七年前の話だ。二十歳だった自分の声が甦ってくる。覚えたばかりの水黎村の歌を、確かめるように歌っている。
 景色が七年前の自分の目のものに変わった。そこに、尚鳴の姿があった。村長と父母と並んで座って、新しく来た渡りの声に耳を傾けている。櫻色の髪はまだ肩までしかなく、じきに十五を迎えたら伸ばせるようになるのを心待ちにしていた。
 そうだ、このときに初めて出会った。初めて出会って、そうして。
 流、と呼ぶ声が幾重にも重なる。そうだった。七年前、彼女と出会い、恋をした。昨日の話ではない。七年前の記憶だ。七年前と昨日のあいだに、いくつもいくつも彼女の記憶がある。渦巻く歌の奥へ手を伸ばし、櫻色の断片をかき集める。
 一つ、二つ、三つ。
 ああ今は、何度目の恋だった? ――七度目だ。
「尚鳴!」
 戸惑うほど鮮明だった記憶の数々が、再び色を消していく。歌枯らしが完全に通り過ぎたのだ。声を張り上げ、呼んだ彼女は今の歌枯らしを浴びてはおらず、喉が破れそうなほどに叫んだ流を見て驚きに目を瞬かせた。
 流はすべて、思い出していた。轟音のごとき歌の尾が消える前にと、咽びそうになるのも構わず丘へ向かって叫ぶ。
「七度出会って、七度とも。伝え合えたときもそうでなかったときも、私は貴方が好きでした」
 尚鳴の瞳が、はっとしたように見開かれる。
「何度出会って、何度忘れても。私はきっとまた、貴方を好きになる。――だから、覚えていて。待っていてください」
 丘の頂上で尚鳴が頷くのが見え、広い袖が覆うようにその目を擦って、また頷いた。響き渡っていた歌の気配が、急速に失われていく。自分が今、何を思い出して何を叫んでいたのかさえ分からなくなりながらも、流はとても大切なことを伝えられた気がして、微笑みを浮かべていた。
 黄土の海を、歌枯らしの渡っていったほうへ向かって、流はゆっくりと尚鳴に背中を向けて歩き出す。
 杖の先が柔らかな砂に沈み、足は重く、一足ごとにまとわりつく砂粒は多くなった。
 青年はそれでも、構わず杖を抜き、一歩一歩着実に歩き続けていく。頭の中に呼び起こした土地の歌から地理を探り、歌枯らしの吹き抜けたあとを追いかけて。
 渡りはまた、旅を続ける。



〈渡りの歌/終〉
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