渡りの歌V

「これを貴方が、自分で?」
 翌日、昨日と同じ明け方に鶏の声で目を覚まし、朝食からしばらくのあいだを村長と過ごして歌の書き換えや追記などを行っていた流は、昼を目前にして尚鳴から外へ誘われた。
 昼食の支度は彼女の母がしてくれるとのことで、散歩に行かないかと言われたのだ。歌の仕事もちょうど区切りがついたところだったため、村長と挨拶を交わして外に出た。青藍の海を乳白色の粉で溶いたような、淡く晴れた空である。この辺りは雨が少なく苦労もしてきたが、天気がいいので、作物を挽いた粉は湿気ないと村人が言っていた。
 そんな話をとりとめもなく思い出しながら歩いていた折、あの、と差し出されたものを手に、流はまじまじとそれを日に翳していた。
 一本の、緋色と菫色、そして草木染めの大地の色で作られた紐である。尚鳴は「さっき急いで作ったので」と消え入りそうな声で出来栄えを弁明したが、そんな必要はないくらいに、きっちりと作られた丁寧なものだった。
「器用なんですね、貴方は」
「いえ、そんな。髪結い紐ですから、もしよかったらお使いいただけないかと思って……」
「私に?」
 訊ねると、尚鳴はこくりと頷いた。思いがけない贈り物だ。流は胸が安らぐのと同時に、なぜ自分がこんなものをもらえるのだろうかと戸惑いを感じて、思わずどうしてと口にしていた。
「気持ちは嬉しいですが、私以外にも、これを喜ぶ人はいるのでは?」
「それは……、贈り物の相手は数え上げれば尽きません。でも、それは流さまに作ったものですから」
「十分、良くしていただいているのに」
「……なら、言い方を変えます。昨夜のお詫びです」
 尚鳴がいかにもな理由を取りつけたので、流は言葉に詰まって苦笑した。
「その件については、今朝、もう話が終わったではないですか。私が起きた瞬間に」
 半ばからかうように返せば、尚鳴も苦笑いと共に「そうですが」と認める。
 昨夜の宴の一件については、今朝、彼女のほうから謝罪があった。忘れていればそのほうがいいと思っていたのだが、酔っても記憶はしっかり残る性質らしい。
 起き上がって、欠伸と一緒に伸びをした瞬間に、簾のむこうから声をかけられたときの驚きといったら中々だった。そんなところに控えているとは思ってもみなかったので、はあ、と気の抜けた声を出して腕を伸ばした流は、危うくそのまま腕が攣りそうになった。
 申し訳ない、とんだ失態だったと詫びようとする尚鳴を何とか押し留めて、気にしていないと宥めたのが今日の朝一番の話だ。実際、流は本当に気に留めていなかったし、何より尚鳴にも不調なところは見えないので、ほっとしたくらいだった。
 一点の落ち度もなかった彼女のお客様扱いが、宴の場を借りて少しだけ弛んだのが、歳相応に見えて愛らしかったのかもしれない。彼女に感謝だけでなく、親しみが湧いていた。
 だからこそ。
「ご迷惑でなければ、受け取ってください。あなたの息災と安寧を願いながら作ったんです」
「……狡いですね。そう言われてしまっては、気に入らないふりはできない」
 だからこそ、受け取るのに躊躇いがあったのに。綻ぶように笑った尚鳴を見て、流は自分の三つ編みを引き寄せ、結んでいた紐をほどいた。古い、今にも擦り切れてしまいそうな色褪せた紐だ。
「そちらはどうされますか?」
「荷物をまとめるのにでも使いますよ。捨てはしません」
「そう、なんですね」
「ええ、だって私は渡りですから。自分で作ったり、買ったりしたとは思えません。きっとこれも、いつかのどこかで、誰か、貴方のような人がくれたものに違いない」
 紡錘も機織りもやり方を知らない。継続する仕事を持たないから、金銭も持っていない。そんな自分が身につけているものは恐らく今のように、たまたま出会った誰かにもらったものばかりなのだろう。
 洗って干したら明日には乾くだろうか、と失くさないよう手首に結びつけておく。同じような古い紐が、流の荷物の中には他にも何本かあった。多分、かつては髪を結んでいたのだと思う。今では傷に当てるよう書かれた紙を添えた薬草や、丸めたままの地図をまとめている。
 尚鳴のくれた新しい紐で髪を結び直して、流は小さく礼を言った。
 きっとこの紐をくれた人のことも、じきに忘れてしまう。彼女がかけてくれた願いが、自分の頭からは抜け落ちても、癖のように結び続けるこの髪を伝って身を護るのだろう。それを思うと、もらったことが嬉しくもあり、切なくもあった。
 人間は皆、遅かれ早かれたくさんのことを忘れるものだと言うが。ならば普通の人々は、忘却の虚しさをどう慰めているのだろう。
 流は不思議でならない。人と触れ合い、親しみを覚えると――忘れることが恐ろしいと思う。歌を持っていれば、そんな恐怖はないのだろうか。だから村人たちは、誰かを記憶からこぼしてしまうことを恐れずに仲良くしていられるのだろうか。歌に記録されたこと以外の、そう、こんな些末な日常の連なりは忘れていくとしても。
 些細な一瞬を忘れたくないと思うことは、渡りだからこその心理なのだろうか、それとも。
「……あ、元気になってる」
 考えながらぼんやりと歩いていたとき、隣にいた尚鳴が急に足を止めて言った。引っ張られるように、流も踏み出しかけた足を止める。
 いつの間にか村の中心部にある、広場まで来ていた。尚鳴はその近くに建った家の、柵の周りに絡みついている豆の蔓を指にまとわせて、明るい表情で言った。
「これ、村の役場として使っている家で。畑は私とお父さんが面倒をみているんです。歌枯らしのあと、ここのことも忘れてしまって、水をやっていなかったからすっかり枯れかけてしまったんですけれど……よかった、大丈夫みたい」
 へえ、と返事をして流は屈み込み、小さなさやをつけた豆を見た。と、頭の中で何かが騒ぎ立てる。小さな足で走り回り、降り積もっていく砂を毛羽立たせて、その裏に見えてきたものは――
(……嗚呼、そうだ)
 自分は、この豆を最初に見たではないか。水黎村に着いて広場へ向かう途中の、消えかかっていた記憶だった。覚えている、見たのだということは思い出せる。けれど枯れかけていたのだったか。その景色はよく浮かんでこない。
 消失がじわじわと追い上げてきているのを感じた。荷物を持って広場へ来て、歌を歌ったことは覚えている。けれど、それ以前のことが曖昧だ。どこから水黎村を目指してきただろうか。天気は? 道筋は? ……最初に会った顔は?
(……分からない)
 これこそが、〈三日のもてなし〉が古くから三日である理由だ。渡りが記憶を留めておけるのは、長くて三日。期限が近づくごとに曖昧になっていき、三日も過ぎれば完全に思い出せなくなる。
 自分がなぜそこにいるのか、分からなくなってしまう。だから三日で村を出る。次から次へと物事を忘れていく身で、ひとところに留まって生きていくことは苦しい。誰に押し出されなくとも、渡りは自然と村を出ていくのだ。そこに来た経緯、知り合った人々さえも忘れてしまう、その前に。
 水黎村での三日のもてなしは、今夜が最後になる。
 頃合いだ、と一人思って、瑞々しく膨れたさやを指でなぞった。何もかもを忘れていく姿など、人に見られたいものではない。予定通り、明日には出立するのが良いだろう。

さらさ揺れる水面の
白き花は流れゆく
三千三夜の道のはて
我らが踏みしこの大地
水よ 我らに恵んでおくれ
水よ 天まで育てておくれ
遥か彼方へ繋げておくれ
まだ見ぬ子らへ我が日々を
草 枯れることのなきように
人 果てることのなきように
歌 絶えることのなきように

――歌 絶えることのなきように。

「我らの歌に、すべての人々の歌に、幸あらん」
 その晩、宴は杯を掲げた村長の一言で始まり、同じ一言をもってお開きとなった。老若男女すべての人が招かれた宴だ。入れ替わり立ち代わり、全員はとても入れないので人は常に動いていたが、終わりの時間が近づくと皆集まってきて、部屋は足の踏み場もないほど人でいっぱいだった。
 肩を組んだり足をよろめかせたりしながらも半数くらいは帰っていって、残ったのは村長の一家と、飲みすぎて寝入ってしまった者たちだ。彼らのことは寝かせておくらしい。宴のあとなんてそういうものだと言って、半分はただ起こすのが面倒だったのだろう、村長も今は部屋の隅で枕を並べて眠っていた。
 人がごろごろと転がっているので、片づけも明日に回されている。女たちは多くが家に戻っていき、数人が村長の妻や、息子の妻の部屋を借りて眠るらしかった。
 今宵は大所帯だ、と見回して、飲みかけて残っていた杯を傾ける。渡りとしてあちこちの村を回り、こうして歓待を受ける身の慣れゆえか、流は眠りこけるほどの酔いは回っておらず、立ち上がる足もしっかりとしていた。
「流さま」
 寝息といびきの中に、ぽつりと呼び声が響く。
「尚鳴。眠ったのかとばかり……」
「すみません、少し見送りに出ておりました。皆さま酔っていらしたので、きちんと家のほうへ歩いていくか心配で」
「はは、確かに。平気そうですか?」
「ええ、何とか」
 くすくすと、袖で口元を隠して尚鳴は笑い返した。よく眠っていますね、と誰ともつかぬ足元の人々を眺めて小声で囁く。
 彼らを踏まないようにして、流は尚鳴の立つ土間のほうへ行った。ひんやりと涼しい夜の空気が、足元の土に染み込んで、立ち昇ってくる。
「あの、流さま」
 尚鳴が流の来るのを待って、躊躇い気味に口を開いた。
「お疲れでしたら、無理にとは申しませんが……少し、外へ行きませんか? 空気が澄んでいて、すっきりします」
 流はその誘いに、迷わず応じた。宴の熱にあてられたせいか、最後の夜というせいか、眠気が訪れそうになくてぼんやりしていたところだった。少し歩けば、気分も変わるかもしれない。
 木戸をそっと、音を立てないように押し開けて夜の下へ出る。りりりと鳴き続ける虫の声が大きくなって、尚鳴が戸を閉め、では、と歩き出した。

 この三日間、彼女とこうして並んで歩くのは何度目だろう。
 月明かりに白く照らし出された土の道を、どこへともなしに歩きながら、流は夜風に髪を靡かせている尚鳴の横顔を見下ろして思った。花の散るごとくにはらはらと、彼女の髪は一足ごとに背中で跳ね、時おり流の背や腕にも近づいては、触れそうで触れない気配だけを残す。
(私は、この感覚を)
 知っているのではないだろうか。そんな疑問が流のなかに舞い戻ってきて、静かに腰を据えようとしていた。
 どうしてだかは分からない。村長の孫娘であるからだとか、前にも水黎村を訪れたことはあるはずだからだとか、そんな理屈の通ったものではなく、ただ自分がここにいて、彼女がここにいて、間に蒼くたなびく夜の静寂があって――この肌の震えるような穏やかで、静かで、かすかに熱い空気を自分は知っている。そんな気がした。
 破りがたい沈黙がずっと間にあって、問いかけて真実を確かめる気持ちにはなれなかった。見上げる空に星が点在している。月は白々と大きく、すべての答えがその裏側に隠れているような気分にさせる。
「髪紐、とても似合っていらっしゃいます」
 思わず手を伸ばしかけたとき、尚鳴が何の兆しもなしにそう言った。魂が引き戻されるように、流は月の世界から帰ってきて、隣を見た。
「元の紐も、明日には乾いていると思います。服はもう畳んでありますので、帰ったらお渡ししますね」
「ありがとうございます、何から何まで」
「いいえ、これしきのこと」
 薄墨色の目を和らげて、尚鳴は首を振る。途中から、足取りがどちらからともなく川のほうへと向かっていた。村の道をまっすぐに進むと、流れる川に行き当たる。
 流の足は上流へ向かって曲がった。尚鳴も、同じほうに足を向けた。
 宴で女性たちの歌っていた水黎村の歌が、耳の奥をくるくると回っている。尚鳴も歌っていた。飲まない杯を手に、ゆるり、ゆるりと舞う彼女の姿ばかり目で追っていたように思う。一つ、一つと彼女の動く場所は花が開いていくようだった。裳裾の黄緑色が新緑を思わせ、ああ櫻が、と何度重ねたか分からない花の名を彷彿とさせた。
「私、とても楽しかったんです。あなたの傍にいられて」
 川は上流に向かってゆくほど、縁に緑を増してくる。裾を夜露に濡らしながら歩いていると、尚鳴が独り言のようにそう言った。
「楽しかった、というのは私の台詞では?」
「そうなのですか?」
「ええ。私こそ、楽しかったですよ、尚鳴。不自由なく過ごさせていただきました。部屋は快適だったし、食事も美味しかった。村の人たちにも良くしていただきました。そして、そのすべての場面に、」流は思い返して、無意識に微笑んだ。「尚鳴、貴方がいました。毎朝掃除をしてくれて、枕を貸してくれて、食事の支度をしてくれて、散歩に連れ出してくれた。貴方抜きには、なかった三日間です。私の世話係を引き受けてくださって、ありがとう」
 本当は、こんな言葉は最後の最後にしておこうかと思っていたのだが。今以上に言うべきときは、見当たらないように感じた。別れまでにはまだ少しあるが、この夜はきっと短い。自分の中の、彼女と最初に顔を合わせて挨拶をしたときの記憶が、出立まで必ず残ってくれる保証もない。
 大切な言葉は少し気が早いくらいで、手遅れになる前に伝えるほうが良いのだ。
 微笑みから、そんな心情がかすかにでも伝わってしまったのだろうか。尚鳴は気丈に明るくしていたその顔を、みるみる泣きそうに歪ませた。役目を果たした安堵か――そう見えればよかったのだが、今の彼女の姿はただ、目前に迫った別れを寂しがっている一人の娘にしか見えなかった。
 もう足が湧水に辿り着いてしまう。この先は村の領域ではない。外だ。
 流は立ち止まって、冷たい湧水のもとに身を屈めた。目を逸らす以外の選択を、取ってはいけないだろうと思った。瞼の裏が熱くて瞬きをするのが怖いような、不思議な感覚がする。これが泣きそうということだろうか。ならば自分はきっと今、尚鳴と似たような顔をしている。
「私がお世話係になったときのこと、まだ覚えていらっしゃるんですね」
「辛うじて、ですけれどね」
「この髪をお揃いだって、あなたが笑ってくれたとき、私とても嬉しかったんです。やっぱり優しいひとだって、三日間がとても楽しみになりました」
 やっぱり。
 その言葉に、流は思わず立ち上がった。夜風の静けさに包まれていた胸が、大きく動いたのを感じた。
「尚鳴、貴方はやはり、前にも――」
「流さま」
 口にしかけた問いを、遮る声は細い。月が隠れれば何もかもが見えなくなりそうな暗闇の中で、尚鳴の落とした涙が一滴、草を叩いて羽音のように鳴った。
「もし今、私がこんなふうに、朝が来るのが寂しいと思っている気持ちの半分でも、あなたが私に対して思ってくださっているのなら……」
「尚鳴、」
「……どうかください、時間を。あなたのここでの最後の夜を、思い出を、私に」
 薄墨色の瞳が、星を宿して微笑む。見上げる視線の真剣さ、切なさ、儚さに呑まれて、流は一瞬、彼女の言ったことがこだまのように遠く、理解できなかった。
 分かった瞬間、のたうつ炎と冷水の両方が胸を走り抜けるような衝撃に襲われた。そして悟った。
 自分は、彼女に向かおうとするこの熱を閉じ込めておくために、「寂しい」という言葉だけは使わないように必死だったのだと。一目見たそのときから、呪文のように惹かれている。
 尚鳴。その存在を頭ごなしに拒絶することはできなくて、流は手のひらに爪を食い込ませ、首を横に振った。
「貴方と同じ気持ちです。……でも、それだけは」
「どうしてですか?」
「後悔をさせたくありません。思い出を残したところで、貴方ばかりが辛くなる。尚鳴、私は」
 薄い雲が月の一部を覆った。

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