渡りの歌U

 尚鳴は控えめでおとなしやかだが、よく気の利く娘だった。宴の席でも隣をいいかと訊ねて腰を下ろし、自分が望んでそこに来たかのように嬉しそうに振舞いながら、流を気遣って何かと料理を選んだり、周囲の人の話しかけるのをそれとなく抑えたり、決して不器用ではなく動いた。
 適度でさりげない尚鳴の気遣いは非常に心地よく、流は最初の晩の宴で、世話係になったのが彼女であったことを良かったと思った。歌枯らしの話を聞いてから、無心に歩き続けてきた気がする。渡りとしての本能なのだろうか、普段はぼうっと歩いているだけの旅人だが、ひとたび歌枯らしが吹いたと耳にすると、流の足は三日三晩でも休まずに歩くようだと、ずきずきと痛むほどの疲れが物語っていた。
「流さま? もうお休みですか?」
「尚鳴?」
 疲労を癒すように村人たちから贈られた料理と酒の数々を口にして、客室で微睡んでいると、厚い簾のむこうから呼びかける声が聞こえた。返事をすると、そろりと白い手が簾をめくり、尚鳴が顔を覗かせる。
「お休みのところ、すみません。良かったら、これをと思って……」
「枕ですか?」
「ええ、足置きの枕です。宴のさなか、何度かさすっていらっしゃったので」
 幾分か楽になると思います、と遠慮がちにつけ加えて、彼女は枕を置いて早々に下がろうとした。
「待って」流はとっさに、その背中を引き留めた。「……気づいてくれていたんですね。ありがとうございます」
 微笑んだとき、なぜか尚鳴が泣きそうな顔をしたように思えたが、それは一瞬で消えた。
「おやすみなさい、また明日」
 簾を出ていくとき、彼女は明るく笑っていた。

 翌日、村の人々は早朝から起き出して、畑に出たり川へ行ったりと忙しく動き回っていた。歌枯らしのせいでほったらかしになっていた畑仕事や、家事の遅れを取り戻すためだ。
 あちこちから互いの家の具合をたずねる声が聞こえる。鶏が騒がしく鳴き交わすので、流も夜明けには目を覚ました。
 借りてあった衣に袖を通し、帯を結ぶ。客人という扱いだからか、古めかしくはあるが美しい糸で織られた五色の直裾であった。ゆっくりと髪を編む間に、五回は欠伸をしてやっと頭が起きる。あまり朝には強くない。でも、朝の空気は冴え冴えとして心地よかった。
「――――」
 顔を洗いにいこうと客室を出たところで、途切れ途切れに聞こえてくる声に耳が反応する。

“さらさ揺れる水面(みおもて)の
 白き花は流れゆく
 三千三夜の道のはて
 我らが踏みしこの大地”

「水黎村の歌ですね」
 土間を出てそう声をかけると、櫻色の後ろ姿が驚いたように振り返った。
「流さま、」尚鳴は慌てて居住まいを正し、「お早うございます。すみません、起こしてしまったでしょうか」と肩を縮こまらせた。
「いえ、起きたら偶然聞こえたもので」
「お恥ずかしい……、いつからいらしたのか、全然気づかなくて」
 流は彼女の歌声を思い出して、「上手なんですね」と笑ったが、尚鳴は恐縮するばかりだった。
「昨日の、あなたの歌に比べればちっとも……」
「え?」
「思い出していたんです、昨日、あなたが歌ってくださった水黎村の歌を。この歌、普段は村の女性が機を織るときくらいしか歌わないのですけれど、あなたが歌うとまた印象が違ったなと思って」
 なんだか会ったことのない先祖の足音まで聞こえるようでした、とはにかまれて、流は面食らった。渡りはその持ち合わせた性質ゆえか、一般的に歌はうまい――と言われるらしいが、自分では分からない。比べる対象として聴いた歌も忘れてしまうので、自分の歌声について自己評価する機会がない。
「それは……、ありがとうございます」
 尚鳴があまりににこにこと嬉しそうなので、流はそのことには触れずに、礼を言った。歌を思い出させたことではなく、流自身の歌声について褒められたことが、少しこそばゆいような心地でもあった。
「お食事の支度をしてきます。すぐに整いますので、少し空気を吸ってからいらしてくださいませ。水は柵のむこうに汲んであります」
 まくっていた袖をぱっと下ろして、尚鳴は桶を手に会釈し、急ぎ足で家へと戻っていった。どうも、と見送ってから、ふと彼女がいたところに立っている竿を見て、瞬きをする。
 朝日の中に、流の着てきた服が一式、綺麗に洗って干してあった。そういえば、桶にはたっぷりの水が張られていた。
(……こんな襤褸の服を)
 思いかけてから、いや、と首を振る。丁寧に洗ってくれたものだ。おかげで襤褸でも、ずいぶんと綺麗になった。忘れないうちに、戻ったら礼を言おう。

「やあ、流さま。見てってくださいよ」
「どうです、水黎村は。なあんて、何もないところですがね」
 村長からぜひ自由に過ごしてくれと言われ、ひとたび村に出かけると、流の足は家の一軒、畑の一反ごとに引き留められた。鍬を振るっていた手を休め、自分の言ったことばを笑い飛ばす男たちの声を聞きながら、流は土と草と麦と水の匂いでできた景色を見渡す。
 それは確かに、昨日歌った歌の中に描かれていた通りの、素朴だが人間の営みと自然の気配に溢れた風景だった。
「住んだら、きっと居心地が良いのでしょうね」
「そう思われますか?」
 呟きに、口を挟んだのは尚鳴だ。
「ええ、もっともここ数年は歌枯らしが頻繁に通っているようですが……それでも村を引っ越さないのは、新天地を築くのが大変だからという理由だけではないでしょう?」
 流の返答に、柔らかな笑みを浮かべる。彼女は歌でしか村の地理を思い出せない流のため、散策にも付き添っていた。小さな村ですからゆっくり歩いてください、と言っていたが、気にするまでもなく自然と足並みは緩やかになりそうだ。
 人々は流を覚えていることを、あえて明言はしないが、隠さずに親しみを持って接した。流はそのつど、足を止めて彼らと語らった。皆、自分の記憶の表層からは消えてしまっているが、前にもこうして話したことのある知人ばかりのはずである。
「流さま? 何か?」
 ちらと、視線を向けた尚鳴と目が合った。もしかしたら――、ふと口に出かかった言葉を、しかし流は飲みこんで、何でもないのだと歩き出した。
 彼女は、村長の孫娘だ。もしかしたら以前にもこうして、自分を連れて村を歩いてくれたことがあっただろうか。思い出せない。流にとって、自分に関わる記憶ほど常に遠くあって、手を伸ばしても掴めないものはなかった。
 思い出せるのは、数年に一度。偶然にも流が歌枯らしを浴びた、その瞬間だけだ。
 渡りの体は不思議なもので、歌枯らしを受けると普通の人間と逆に、自分の歌を思い出すようにできている。最後にすべてを思い出したのはいつだったか、それさえも忘れてしまったが。その一瞬、脳を貫くようなまばゆさだけは何となく憶えているから、きっと昔、歌枯らしを浴びたこともあるのだろう。
 畑仕事に戻った村人と別れ、あてどなく土の道をゆく。小さな家々の壁のむこうから、パッタントン、パッタントンと機織りの音が聞こえていた。
「――さらさ揺れる、水面の……」
「白き花は流れゆく……」
 流がそうっと口に出すと、尚鳴の涼やかな声が重なった。どこかの家からも同じ歌が聞こえる。水黎村をここに築くときの、最初の礎となった、小さな川。
「川を、見に行っても?」
「ご案内します」
 思い立つままに訊ねれば、尚鳴は頷いて、流の手を引こうとした。あまりに自然に袖を取られたので、流は驚いて、少し目を丸くした。
 尚鳴はその顔を見て、何か思ったのだろう。はっとしたように手を離した。
「すみません、あの……こちらです」
 背を向けて歩き出した彼女の揺れる三つ編みを見つめたまま、流は一瞬、布ごしに触れた手の温もりを思い出して、遅れがちに足を踏み出した。

「おお、そうですか。川の上流まで」
 夕食どき、川魚をほぐして青菜と塩で炒めた料理を、麦粉の皮で包みながら、村長は嬉しげに言って頷いた。一口で半分ほど頬張り、ちょっと噎せかかって、薄い豆のスープに手を伸ばす。
「いい水だったでしょう。濁りがなくて」
「ええ、本当に」
「官吏も村を見にくるたび、しょぼいところだ、もっと税になるものは出せないのかと言いますが、水源だけは褒めていくんですよ。村の名に恥じない、都に引きたいくらいの水だって」
「もっとも、大本は小さな湧水ですがね。ご覧になったでしょう?」
 村長に代わって、かわるがわる、席を囲んだ男たちが杯を片手に話へ入ってきた。三日のもてなしのあいだ、宴は毎夜開かれる。昨夜は村の年長者を招いて、今日は若い衆を招いて。
 女性は炊事場に集まって談笑しながら料理を作っている。自然、男ばかりが集まった食卓はわいわいと話し交わす声が大きく、村長が息子に背中をさすられていることにもほとんどの者が気づいていなかった。
「ええ、拝見しました。あれが川になるとは、にわかには想像できないくらいの湧水でしたが、勢いはありましたね。透明で、手の中で見えなくなるほどで……皆さまの祖先の方が、あれを見て村を作ろうと決めたのも頷けます」
 流も気持ち、普段より大きな声で話した。炊事場から誰かの妻たちがわらわらと五、六人出てきて、新しい料理を一皿、笑いながら置いていく。少し酔っているのだ。
「よかったら、一口召し上がってください。この宴のための料理ですから」
 尚鳴がそれとなく小皿を取り、流に一箸めを勧めた。
「ああ、そうですとも。遠慮なく」
 回復したらしい村長が、場を仕切り直すように言う。
 一応、この宴の来賓であったことを思い出して、流は有難く一箸めを戴いた。主役が手をつけないままでは、この場の誰も食べにくい。塩と数種の木の実で味つけされた鶏肉は、特別な日の食事であることが窺えた。普通、川べりの村ではできる限り魚を食す。家畜は貴重品だ。
 美味しい、と素直に感想を漏らすと、あとは宴の喧騒に料理も飲みこまれていった。宴席の男たちもほとんどが陽気に顔を赤らめている。塩気の強い肉は、進み始めた酒をさらに煽った。
「尚鳴」
「はい、何か」
「貴方は飲まなくていいのですか?」
 頼みごとをされると思ったのか、背筋を正した尚鳴は、一瞬なにを言われたのか分からなかったようで間の抜けた顔をした。それから慌てて頬をおさえ、私は、と口ごもる。
「その……、お酒はあまり、得意でなくて」
「ああ、本当だ。もう顔が赤いですね」
「え? ……あ、これは……」
「だったら、せめて料理を。あなたのおかげで、楽しく過ごせました」
 尚鳴の小さな声は、席の端でどっと湧いた笑声にかき消されて流には届かなかった。流は小皿を伸ばし、あっという間になくなりそうな鶏肉を少し取って、尚鳴に差し出した。
 彼女が傍についてくれているおかげで、不自由のない滞在をさせてもらっている。宴の席でくらい、自分の世話をするばかりでなく、一緒に楽しんでもらいたかった。
 美味しいですよ、と彼女の躊躇いを打ち消すように、自分が先に一切れ頬張る。尚鳴は少しの間、客人と同列に食事をしていいものか戸惑っていた。しかしやがて、ふわりとその顔を綻ばせ、箸を伸ばした。
「優しい人ですね、流さま。やっぱり……」
「はい?」
「……やっぱり、半分だけ。お酒をいただいてもよろしいでしょうか。この宴を、私も皆さまのように、あなたと楽しみたいです」
 遠慮がちにそろりと、杯が差し出される。流は驚いたが、申し出は嬉しかった。勿論、と答えて自分も杯を手に取る。
 酒は苦手だと言っていた尚鳴の言葉を思い出して、半分よりほんのわずか、少なく注いだ。深い、古木のような色味の杯を支える彼女の手は白く、焼き物の酒瓶を傾けて返礼の酒を流の杯に注ぎ、微笑むさまは一本の櫻の木を彷彿とさせた。ほんの一口か二口を、ゆっくりと飲み干す。
 心地いい。
 これは何の宴だったかな、と思いかけて、流はかぶりを振った。
 忘れるにはまだ早い。けれど、すでに薄れかかっている。この身は本当に、己が記憶を留めておくことに関しては縁なしの盆だ。

「尚鳴、本当に大丈夫ですか」
 んん、と肯定とも否定ともつかない、掠れた返事が返る。
 宴の盛り上がりが頂点に達してから一時間。ようやく人々の中に明日の話や欠伸が見え始め、お開きになった廊下を、流は尚鳴に肩を貸しながら小さな部屋へ向かって歩いていた。
「へいき、です」
「そこ、段差が」
「へ、ひゃあっ」
「っ、とと」
 よろけた尚鳴を支えて、片手を壁につく。得意ではなくて、とは言っていたが、まさかこれほど弱いとは思ってもみなかった。
 結論から言うと、尚鳴はあの半分の杯で、呆気なく酔った。彼女が杯から顔を上げた時点で分かった。目がとろりとすわっていて、頬が真っ赤だった。
 あれ、と困惑した流に気づいて、教えてくれたのは村長だ。曰く、水黎村では子供でも酒を飲む子は飲むが、尚鳴はいくつになってもこの調子で、舐めるくらいで酔いが回ってしまうのだと。
 知らずにしたこととはいえ、彼女の申し出を断らなかった流は焦った。だが、驚いているのはむしろ、村長たち、尚鳴の家族のほうだった。酔った姿をさらすのが恥ずかしいと、普段はどんなに内輪の宴でも頑なに酒は断るこの子が、よほど楽しかったんだねえ、と言っていた。
 流は責められなかった。でも、もう少し用心すべきだったと反省していた。お開きと同時にせめて部屋へ送り届けると申し出て、人々の見送りは村長たちに任せ、眠り込んだ尚鳴を抱えるようにして部屋を出た。
「尚鳴、ほら。着きますよ」
「どこ……?」
「貴方の部屋です。ここであってますか?」
「ん……」
 薄い簾をかけた部屋の入り口は、月明かりにぼんやりと中の影が見える。寝具と箪笥、鏡台が置かれた部屋は、おそらく村長に訊いた彼女の部屋で間違いないと思われた。
 ほら、と促して部屋に入れようとするが、足元が危ういのか、尚鳴は一人で歩こうとしない。参ったな、と火照った背中を軽く叩きながら、ため息をこぼす。
 責任感の強い子のようだ。きっと明日、目を覚ましたら今晩のことを後悔して、誰が部屋へ帰したのかと家族に訊ね、知ってしまうだろう。そうして青ざめる彼女を思うと、廊下まで連れていっただけで手はかかりませんでしたよ、と言ってあげられるこの場所で、できれば部屋へ戻っていってほしいのだが。
「……仕方ない、か。すみません、失礼」
 うとうとと、このまま悩んでいてはまた寝入ってしまいそうな尚鳴を見て、流は諦めて簾をめくった。薄い布地で隠されていた室内の色が月明かりに現れる。質素な部屋のところどころに、差し色のように赤や桃が使われていた。色褪せた緋の刺繍が入った寝具に、尚鳴を横たわらせる。
 薄墨色の瞳が、布団をかける自分の仕草の一つ一つを見つめているのに気づいて、流は苦笑した。
「あまり見ないで。忘れていいんですよ」
「……?」
「貴方に謝られたくありません。どうしてでしょうね……」
 昨晩は失礼を、と、泣きそうな顔で謝る彼女が目に浮かぶ。流は渡りだ。渡りには、歌は分かっても歌の大切さはよく分からない。ゆえに、歌を取り戻したというだけで、知っている歌を歌ったというだけで、三日三晩も持て囃される意味だって、本当は分からない。
 自分は、旅人だ。何も分からず、あてどなく歩き、ただ歌枯らしの通ったところを巡ってはこうして食べ物や寝床を借りる、どの村でもない大地の生き物だ。
 そんな生き物に、目の前の少女の頭を下げさせたくなかった。生真面目で愛らしく、優しく――この子は笑っていてくれればいいのだと、ふとそう思った。
「……行かないで」
 なぜ、と自問する己の心臓がひどく痛んだのを感じて、立ち去ろうとする。その背中を、弱々しく掴む手があった。
「……尚鳴、」
「やだ、行かないで。ここにいて」
 見れば先ほどまで眠そうにしていた彼女は、今にも泣きそうな顔をして流の帯を掴んでいた。力の入っていない指を、振り切るのは簡単だ。けれど痛切な声が、流の足を止めさせた。
 よいしょ、と自身も勧められるままに酒を飲んで、少し頼りない足に力を入れて膝をつく。
「お父様か誰かと、勘違いしていませんか」
「え……?」
「いくら招かれた立場とはいえ、長居をしては、貴方のおじい様に怒られてしまいそうです」
「……流、」
「ええ。……おやすみなさい、尚鳴」
 また明日、と言葉を続けて、流は今度こそ立ち上がった。尚鳴はまだ何か言いたげにしていて、目を合わせたらまた「行かないで」とぐずってしまいそうな寂しさを湛えていた。
 母親か誰かを行かせてやったほうがいいだろうかと考えながら、流は廊下を歩く。壁ごしに、家を出たばかりの人々が騒ぎ合いながら帰っていく声がしていた。虫の音が唱和するように響いている。
 一体、何を?
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