渡りの歌T

 どこまでも続く黄土の海を、一人の旅人が杖をついて歩いている。青年はまだ踏みしめられておらず、草の根も埋まるような砂の上を、杖に体重をかけて足を抜いてはその足に力を入れて杖を抜き、かれこれもう三時間も歩き続けていた。
 のたうつ緩やかな丘陵の上から風が吹きおろし、青年の周りに黄土を舞い上がらせる。ばさりと、彼は砂よけにかぶった布で目を覆った。赤茶色の、焦土の石のような、あるいは朽木のような目だ。
 瞬きをして睫毛に絡んだ砂埃をはらい、青年はまた歩き続ける。そうして彼がいくつめかの丘を越えたとき、ふとその足下に、しばらく見ていなかった緑が見えた。
「ああ……」
 青年の目が、ゆるりと細められる。記憶の中にある歌の地理を辿り、ようやく探していた村に着いた。水黎村――乾ききって砂を被った薄い木の看板が、緑の生え揃い始めた村の入り口に立っている。
 青年は慣れた手つきで荷物の留め具をはずし、杖と共に入り口で下ろすと、被っていた布も外して飛ばされないように下へ挟んだ。そうして身を隠すものがほとんどない、できる限り警戒のされない格好になって、村の看板をくぐった。
 木板と漆喰で作られた質素な家のあいだを通り抜けて、まっすぐに村の中心部へ向かう。さりさりとした砂を踏む足音は青年のものしか響かないが、村には人がいることを彼は知っていた。それも一人二人ではない。
 全員が、おそらくそこにいるだろうことを分かっていた。
「誰じゃ……」
 畏れを振り絞った老人の声に、顔を上げる。青年の前には一軒の家の柵があり、生い茂った豆の蔓が干からびながら絡みついていた。
「渡りの者です。歌枯らしの被害に遭われたと伺ってまいりました」
「渡り……!」
 老人の声が、はっきりとしたものに変わる。次いで、それまで息を潜めていた大勢の人々が安堵のざわめきをもらすのが聞こえた。
 青年は一歩、彼らの目の前へと進み出た。
 黄土と同じ、乾いた砂の色をした髪を一本に編んで、背中に長く垂らしている。素朴な面立ちの中に目の色だけが一際深く、他にはこれといって語るところを持たない、普通の青年だった。
「来てくださると信じておりました。ああ確か、あなたは」
「流(リウ)です。貴方が村長ですね」
「ええ、そのようです。それだけは何とか分かっておるのですが」
 村長は流に歩み寄り、安堵と悲しみ、戸惑いや焦りの混じった顔で深々と頷いた。見れば後ろに、板きれや藁で作った簡素な塀を建てて、女子供を中心に村の人々を集めている。
 彼らを守らなければ――ずっと、何十年にも渡って根を張り続けてきた彼の意識が、辛うじて自分は村長だという記憶だけを繋ぎとめたのだろう。此度の歌枯らしは酷いものだったと聞いた。広場の中には、渡りである流の姿を見ても、まだ現状が把握できていないようにぼうっと呆けている者も少なくない。
「元に戻れますでしょうか、我々は。いえ、戻らねばなりますまい。どうか力をお貸しくださいますよう、お願い申し上げる」
 懇願するように、村長が言った。
「無論です。そのために私はやってきました」流は迷わず頷く。「還しましょう、貴方たちの歌を、貴方たちの中へ」

 流が入り口へ戻って荷物を取ってくる間に、村長は広場の中心に村人を集めて、目を瞑るよう言った。歌は目を開いていると上手く戻らないことがあるので、できればそのように、と流が言い残していったためだ。
 戻った広場で人々が静かに、目を閉じて待っているのを見て、流は無事に受け入れられたことに一安心した。
 疑いを向けられたままで、儀式を行うのは互いに危険だ。この歌は途中で妨害されると、彼らの記憶にも、流の中にある歌そのものの記憶にも欠落や相違をもたらす。
(……水黎村)
 目を閉じ、頭の中で強く念じて、流は人々の前に両手を広げた。湧水のようにふつりと、体の芯から流れが立ち昇ってくる。
 流はそれを、歌った。

「――――」

 水黎村は古くから、李一族とその子孫により構成されてきた村である。祖となる父は北方、遊牧民の出自を持ち、母はこの地に流れ着いた移民の娘。遡ること千二百年、二人を太祖とし息子の息子、娘の娘、そのまた子供たちにより、水黎村は築かれてきた。帝国の支配、興亡、また支配を経て、ひとときは文明の末端に栄えたが、今は静かな地方の農村として細々と続いている。
 農耕、牧畜、北方由来の染織、騎馬術、弓術、移民の婚礼風習、料理、人の系図。
 連綿と続くそれらの歴史は、ひと繋がりの長い〈歌〉に記録されている。水黎村だけではない。この世界にあるすべてのものは、皆、自分たちの歌を持っている。個々人の歌であったり、それを結集した一族や村といった共同体の歌であったり、統括する国の歌であったり。
 人は昔から歴史を語り継ぐために、歌を利用してきた。古には口承で伝えられていたとされる歌だが、今では命の中に生まれつき受け継がれるようになり、人々は誰しも記憶の中に、自身に関する長い歴史を携えている。
 しかし、その歌は時に、抗いようのない力によって奪われてしまう。
 それが〈歌枯らし〉と呼ばれる存在だ。歌枯らしとは大陸全土、季節や地形に関係なく唐突にやってくる風である。荒れ狂う暴風でもなければ、雷雨を伴う嵐でもない。ただ一陣の強い風なのだが、それが吹き抜けたとき、人々は自分の歌を忘れてしまう。
 原因も発生源も不明の歌枯らしは、古くから人々の前に現れては歌をさらってきた。歌をなくすと人々は、自分たちがなぜ、どうやって、どんな毎日を送っていたのかを忘れてしまう。酷いときは家族の顔も、自分が何者であるのかも分からなくなってしまうため、古来より自然による人間の淘汰ではないかと言われ、怖れられてきた。
 歌枯らしに遭った地区は悲惨だ。皆が生活の何たるかを忘れてしまう。畑は荒れ、家はどこが誰の家だか分からなくなり、料理もできない。家畜は飢え、人は呆然と本能の求めるままに生の麦を食んだりする。
 千年前は、対応する手立てが何もなかった。村は歌枯らしによって潰えることが珍しくなかった。王朝が滅びることもあった。だが、そんな時間を果てしなく繰り返す中で、人々の中に、歌枯らしに対処することのできる血統が生まれたのである。
「――――」
 それが、渡りと呼ばれる一族だった。渡りがいつ、どうして生まれたのか、正確な記録は残っていない。始祖の名前も分からない。ただ、人々が歌枯らしで命を落とさなくなってきたのは、今からちょうど千年近く前のことだ。
 渡りは二つの特異な性質を持っていた。一つは、歌枯らしに抵抗する不思議な力を持っていること。彼らは体の中にまじないでも流れているかのように、歌枯らしを浴びても何ら記憶を奪われない。
 そしてもう一つは、膨大な数の歌を記憶できるということ。他の一族の歌を、渡りはほとんど無限と言っていい数で覚えることができる。一度聴けば忘れずに、いつでも引き出して、歌うことができる。数十年の歴史から千年の歴史まで、生まれ持ったわけでもない他者の歌を、記憶することができるのだ。
 渡りが現れたことによって、人の歴史は長くなった。村は予め、馴染みの渡りを定期的に招いて歌を聴かせる。そうすることで歌枯らしに遭ったとき、噂を聞いた渡りに出向いてもらい、記憶を取り戻す。近隣の村が歌枯らしに吹かれたと聞けば、住民たちはすぐにその話を広めた。渡りの耳に、一日でも早く伝わるように。
 かくして、渡りは人々の歴史になくてはならない存在となった。彼らは畏敬と愛敬の対象となった。だが、そんな渡りにはもう一つ、大きな特徴があって――ときにそれは、特異な力を持ったことによる代償とも言われた。
 彼らは、自分自身に関する〈歌〉を持てないのだ。
 つまり、自己の歴史――どこで生まれて、誰が家族で、今まで何をしてきて、誰と関わったのか――を記憶しておけない。何百、何千という数の村の歴史を歌い上げる記憶力を持っていながら、渡りはなぜか、自分のことだけは次から次へと忘れてしまうのだ。手のひらから砂のこぼれるように、とめどなく忘れてしまう。
 彼らが常に覚えているのは、自分が〈渡り〉であることと歌枯らしのこと。それくらいだ。その他のすべては、頭の中に長く留まることがない。せめて自分が何者であるのか忘れてしまわないよう、二文字か三文字の、短い名前を持つ。姓はない。

「ああ、思い出した……思い出したぞ……!」
 長かった歌がゆっくりと尾を引いて終わったとき、村長はしゃがれた声を振り絞って天を仰いだ。すべて頭の中に還ってきていた。
 他の村人たちも、皆それぞれに自分たちのことを思い出していた。家族を探して抱きあう者、歌枯らしのせいで酷い目にあったと文句を垂れる者、突然記憶がよみがえったことにまだ呆然としている赤ん坊。
 反応は十人十色だったが、取りこぼされた者は一人もなさそうだ。ほ、と息をついて微笑んだ流に、村長が近づいてきて、両手で手を包んだ。
「ありがとう、今回もあなたに助けられました。畑仕事の仕方も、牛や豚の世話もみんな忘れてしまって、このままでは村が飢えて干からびてしまうところだった。偶然の雨でふやけた麦粉を食べて、どうにか空腹を凌いでいたところでした」
「そうでしたか。それはまた……」
 労りの言葉をかけようとしたが、それよりも早く、村長は我に返ったように広場を見た。
 広場はまだがやがやと人の声で溢れている。親しい者同士の無事を喜びあう声にまじって、雨で風邪を引いたまま、看病の仕方を忘れて子供を放ってしまった母親の泣き謝る声なども聞こえてきた。
 村長が注目を集めるように、ぱん、と手を叩く。
「ほれ、皆、いつまでそうしておってもきりがないぞ! 畑に水をやらんか。体を壊した者は私の家へ。大鍋を出そう。女は女房に手を貸してくれ。老いも若きも、まずは腹を満たさねばなるまい」
 人々が一斉に、役目を思い出して動き始めた。彼らは去り際、流に向かって口々に礼を言った。
「今回も、盛大にもてなしますんで」壮年の男が自慢の畑を指して言う。「楽しみにしててください。息子のこと、思い出させてくれてありがとうございます」
「その通り。こうして三日のもてなしの準備ができるのも、すべて歌を思い出せたがゆえだ」
 村長も深く頷いて同意する。流は次々とかけられる大げさなほどの感謝や賛辞が、有難くも気恥ずかしくて、一人一人に返事をするのも追いつかなくて、曖昧に微笑んだ。
「また三日間滞在していただきたく思いますが、何か予定はおありですかな?」
「いえ、何も。お言葉に甘えさせていただきます」
 礼を述べると、村長は目尻の皺を深くして喜んだ。三日のもてなし――これはどんな華々しい都でも素朴な村でも変わらない、渡りに対する一つの儀式だ。歌枯らしで失われた歌を、修復した渡りへの礼として三日間、渡りを客として格別にもてなす。
 昔ながらの風習であり、人々が始めた渡りへの感謝の行為であり――同時に、ひとたび旅に出てしまえば仕事を覚えることもままならず、物乞いのような生活に落ちることもある、貴重な渡りの一族を絶やさないようにするための工夫である。
 いくつもの村が歌枯らしに襲われる。渡りをひとところに引き留めておくことはできない。せめてこういう機会を設けて、彼らにたっぷりの栄養と休養を。それが三日のもてなしに含まれる真意だった。
 自分たちは〈渡り〉であり、渡りとは〈そういうもの〉らしい、と漠然とした認識は持っている。流は申し出に甘え、水黎村に滞在を決めた。
「村のことは歌を手繰ればお分かりになるのやも知れませんが、三日間、ずっとそうして過ごされるのも手間でしょう」
 村長は言って、辺りを見回す。「尚鳴(シャンメイ)、」豆の粉を運んでいた女たちの輪の中に、櫻色の髪をした少女を見つけて、手招きをした。
「滞在中、この方のお世話をなさい」
「はい、おじい様」
 少女は小走りにやってきて、村長をそう呼んだ。孫娘だ。小柄でどこかあどけなさが残っているが、纏う空気には落ち着きがあり、幼くはなさそうだった。
「尚鳴と申します」
 少女が頭を下げ、そうして上げる。
 流れるような仕草の最後に目があったとき、流はその薄墨色の目の中に、途方もない時間を見たような奇妙な感覚を覚えた。引き込まれ、彼女と自分のあいだに満天の星をいただく空を映した深い河が流れているような、そんな感覚だった。
(錯覚か?)
 瞬きをする。尚鳴はじっと流を見て、柔く、とらえどころのない優しげな笑みを浮かべた。唇の端をきゅっと上げて、娘らしい、軽やかな口調で言った。
「よろしくお願いします、流さま。行き届かないところもあるかと思いますが、三日間、お傍につかせていただきますので、何でも気軽に仰ってくださいませ」
 その言葉を境に、奇妙な感覚はなりを潜めた。あまりにじっと見つめられたせいだろうか。流はそう納得して、こちらこそ、と返した。
「では、任せたぞ尚鳴。私は少し、村の畑を見てくるから」
 村長が流の相手をさっそく任せ、広場を出ていった。孫である彼女はしばらくその背を見送っていたが、祖父の姿が見えなくなってもまだ、こちらを振り返る気配がない。
(……もしかして)
 気詰まりな沈黙が気になりだしたところで、流はふと、気づいて横顔に目をやった。
 頑なに首は正面を向いたまま、少女の眦がかすかに震え――薄墨色の目がちらりと、流を盗み見る。
「!」
 視線が合ったことに驚いたのか、彼女はぱっと顔を上げて、気まずそうに目を逸らした。あの、と口ごもって、言葉を探しては開きかけた口を閉じる。
 流はするりと、自分の背中に手を回した。
「お揃いですね」
「えっ?」
「ほら。三日間、よろしくお願いします」
 手繰り寄せた自分の三つ編みを、少女の前に差し出して、お辞儀のように揺らして見せる。彼女は呆気に取られたように目をみはった。それから恐る恐る、自分の長い櫻色の髪の、両側にあつらえた細い三つ編みをひとつ握って、花の咲いたように笑った。
「……はい!」
 村長の孫とはいえ、どこにでもいる若い娘だ。よそ者の、ましてや放浪の渡りの世話など任されて、緊張していたのだろう。
 尚鳴はそれから気を取り直したように、食事の支度が整うまでと言って流を自宅へ案内した。村長の家でもあるその建物は、他と同じで質素だが広々とし、奥には来客用の部屋も設えてあった。
 流はそこで寝泊りを勧められたので、有難く申し出に従った。

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