吸愛衝動U

 入り口に、足元を照らす蝋燭が一本。
 煌々と燃えるその火以外に、室内を明るくするものは何もない。
(当然か。人間、視界を閉じているほうがなんでも素直に思い浮かぶもの)
 キイ、と小さく軋む厚い扉を閉めて、私は全体の形だけが影のように浮かび上がった椅子を、手のひらで探って腰を下ろした。懺悔室――通常、そう呼ばれている部屋だ。礼拝堂の裏側にひっそりと入り口を構えて、内鍵をかけ、一人になれるように造られている。
 掃除の仕事を終えて赤く悴んだ手のまま、私はひとまず、何を祈るともなしに指を組んだ。椅子の背もたれはすぐ壁に沿ってあり、この壁の向こうに、礼拝堂の聖像がある。
 ここに来たのは、いつ以来だろう。多分、まだ子供と呼べる歳の頃に一度入ってみた。あのときも、私は一言もしゃべらなかった。
 神様が聞くというのなら、心の声でも聞こえるはずだ。口は開かない。代わりに、両方の肩へかかっていた髪を、暗がりの中、そっと片側へ上げた。
 向き合って、右利きのジェノの手が触れる、左の首に。点々と、星のように並んだ小さな牙の痕がある。教会で働く女性は、原則として、吸血鬼との関わりを禁じられている。血は穢れであり、それを好む吸血鬼は神とは相容れない存在であり、また異性に肌を傷つけることを許すという行為が、神に近づく者として相応しくないと言われるからだ。
 両親に捨てられ、孤児だった私はこの教会に拾われて育った。修道院でシスター・リィセに勉強を習い、共に畑を耕し、祈りを捧げて大きくなった。
 十六のとき、このまま修道院でシスター・ミラとして暮らすか、別の道を選ぶかと選択を求められた。私は、後者を選んだ。外に行きたかったわけではなく、シスターとなることに迷いがあった。
 シスター・リィセはそんな私に、教会の掃除婦という仕事をくれた。信者たちの中から稀に、貧しい人や目の見えない人などが声をかけられて就く仕事だった。修道院には住めなくなるが、慣れた場所から突然放り出されるよりも、いつか好きな仕事を見つけるまでは馴染んだ場所にいさせてやりたいという、彼女の厚意だった。
 姉妹のように育ったシスターたち。父のようにあった神父様。天に、そして何より私たちの心の中にまします神と、ささやかな光を求めて集まる人たち。
 私は、私を育ててくれたこの場所に感謝している。本音を言えば仕事なんて、花屋でも酒場でも何でもよかった。そうしなかったのは、せめてこの場所に恩を返して、この場所に恥じない仕事に就きたかったからだ。それほどまでに、感謝していた。
 けれど私は、初めて会ったとき、ジェノを拒まなかった。
 あれは彼を助けたいという、慈善だったのだろうか。命あるものとして、ただ純粋に救いたいという、教会の教えに恥じない献身の行為だったのだろうか。
「――ごめんなさい」
 私は懺悔室にきて初めて、たった一言、声に出した。
 神様というものがこの世にいて、私たちを護ってくれたら、と思う。そのために祈るし、仕えるし、修道院を出たと言ったって、大切な教えを胸にいくつも残したりする。
 けれど私は、すべてを神様の言うとおりに捧げたいとは思わない。
 きっともう、ここへも来ない。人間の作り出した神よりも、大切なものを見つけてしまった。

「ただいま」
 靴底についた雪をはらって、玄関のドアを開ける。温かなスープの匂いと、火と、光の気配がこぼれた。
「おかえり」
 革のブーツはもう濡れていない。けれどジェノは変わらず、私を出迎える。コートを脱いで、椅子にかけるのが合図。私たちの間に探り合いや確認はなく、ベッドに腰かけた彼と向き合い、私はボタンに手をかけた。
 髪に、鼻梁に。私という生き物の、一つの形をなぞるようにジェノは口づける。
「それも求愛?」
 くすぐったさに細めた目のまま、訊ねてみれば、彼は驚いたように身を引いた。
「聞いてたの?」
「半分くらいしか、聞こえてなかったけど」
「へえ。思ったほど回復してなかったのかな……相当、意識はぼんやりさせたつもりだったのに」
 くすりと笑って、話しながら。まるで遊びのように私の両手を絡め、拘束する。色違いの双眸の奥に、鋭利な光がちらつくのを見た。ジェノはそれを悪戯な笑みで隠している。けれどすべてを、隠しきれてはいない。
「逃げないわ」
「……!」
「逃げないから、貴方が力を――屋敷を取り戻すのに必要なだけ、吸っていい。……だから、これが終わって私が生きてたら、教えて」
 息を止めたような顔をしているジェノに、私は両腕を伸ばして、笑った。
「……どこからどこまで食事で、どこから、求愛だった?」
 中途半端に外れていたボタンが外され、視界がぐっと引き寄せられる。冷たい指が首筋を探ったが、直後に触れた舌は熱かった。
 逃げないと宣言したのに、押さえる腕の強さに、元気になったものだと感心する。死にかけて、今にも雪の中に溶けて消えそうな顔をしていたくせに、すっかり外見相応の生命力を取り戻した。
(なんて、安心しているときじゃないんだろうな)
 失血で死ぬときは、どれくらいまで意識があるのだろうかと考える。頭が少しぼんやりしてきた。多分この間のような、何か術を使われたわけではない。できれば微笑んでやりたいのだが、そういう余裕はあるのだろうか。ああでも、干上がった姿になるのか。ならば笑っただけ気味が悪いかもしれない。
 両手が背中を滑り落ちる。だるくなって、体からもそろそろ力が抜けそうだ。
 そう思ったとき、ジェノはぴたりと血を吸うのを止めて、私の体から身を離した。
「一緒だよ、どっちも」
 赤い雫を舐めとって、ぽつりと口を開く。その右目が血の赤にもよく似ていることに、今さら気づいた。
「強いて言うなら、まだ全然足りない。だけど今日はこれでおしまい。力は一刻も早く取り戻したいけど、そうしたらあんたは多分、生きてないよ。それは嫌だから、我慢してんの。……それに」
 少しふらつく頭を傾けて、先を促す。
「あんたを全部食べちゃったら、力を取り戻したとしても、俺は死ぬんだ」
「……は……?」
「比喩じゃなく、本当に」
 ますます首を傾けると、空いた首筋に鼻先を埋められたので、今度こそ限界まで取られるのかと覚悟した。けれど、そこに落ちたのは何の変哲もない、ささやかな口づけだった。
 額や頬にするのと同じ、吸血鬼にとっては、食事を目の前にして歯を立てずに触れるだけの、いっそう飢餓するような口づけ。それがいつも血を分けている場所に与えられたことに、頭が真っ白になるほど、ただ驚いた。
「吸血鬼がこんなにも減った理由を、あんたは知ってる?」
 ゆるゆると、首を横に振る。修道院ではただ衰退したとしか、吸血鬼については教えてくれなかった。
「誰かを好きになると、その相手の血でしか満たされなくなるから。その人の血でしか、空腹を抑えられなくなって……その人を失うと、飢えて命を落とす」
「え……」
「これが、求愛行動って言った本当の理由だよ。あんたを食べたいけど、食べ尽くすのは、心中するみたいなもんなんだ。だから可愛がって、遠くへいかないように、精いっぱい生かさなきゃならない。……ミラ」
 つと、顎に指が這わされる。
「悪いね、好きになって」
 目を合わせた彼はそう言って、歪むように笑った。唇の端から、細く尖った牙の先が覗いている。
 八重歯と呼ぶには少しだけ長いその歯を見たとき、本当は一瞬、吸血鬼かもしれないと思った。思ったけれど、その人を部屋の中へ入れた。雪にまみれて寒そうで、一人で、手も顔も冷たくて――けれど本当は、私はそんな彼に、自分の姿を垣間見たのかもしれない。
「謝らないで。知りたがったのは私よ」
 雪の中に捨てられていたという、記憶にほとんどない、小さなころの自分を。
 温かな蝋燭の灯る教会で、体はあれから大人になって、指先にあったという凍傷の痕もなくなった。けれど心がいつも寒かった。集団生活をしても、美味しい食事をとっても、いつも雪の中に埋もれているように寂しくて、飢えていた。
 神様にすべてを捧げ、シスターになれなかったのは、神様が愛してくれるのが私だけではなかったからだ。私は、誰かに必要とされたかった。誰かに強く、何者にも替えられないと思われたかった。
「――ジェノ」
 深く息を吸って、肩に置かれていた手を取る。
 雪の中から冷たいこの手を引いたとき、私はまるで、私自身を掬い上げたような気持ちがした。
 無理かもしれないと思った彼が目を開けて、言葉を交わして、同じ屋根の下で過ごして。そうしていつしか一番望んでいたものを与えられて、温められていたのは、本当は私だったのだ。
 この人と、一緒にいたい。例え首筋にいくつの、隠し事と懺悔を残しても。
「私を、ずっと、貴方の命にして」
 気だるい腕を回して抱けば、冷たい体は火傷を負ったように、私の熱に震えて息を呑んだ。きっと私も、まだまだ足りない。
 求愛を、している。

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