吸愛衝動T

 真四角に近い部屋の隅で、かすかな衣擦れの音があがる。二度、三度。それからかすかに、呻くような声。
「目が覚めたの」
 色づきかけた西日の射し込むキッチンで、沸騰しかけていた鍋の火を止め、私はベッドに向かって声をかけた。
 のろのろと、窮屈そうに収まっていた長身の男が振り返る。真っ白い肌に、くしゃくしゃと顎の下までまとわりつく黒い蓬髪。
 左右の目の色が違うことに、今はじめて気づいた。左の目が黒で、右目が赤い。眸の芯まで濃い赤で、石榴のようだ。
「何か食べる? 起き上がれないなら、持ってくるけど」
 まだどこか覚めきらない顔をしている男に、私は身を屈めて訊いた。耳にかけていた髪がはらりと落ちて、男の頬に一筋の影を作る。
「……血」
「……え?」
「血が、いる」
 今度は、私の頬に影ができた。男が探るように、指を伸ばしてきたからだ。
 ゆっくりと身を起こす仕草は、気だるげではあるが、酔っているようには見えなかった。ふうん、と窓の外へ目をやって、エプロンの上に覗いている、シャツのボタンを二つ目まで外す。
「いいけど、加減できる? この町、吸血鬼犯罪に厳しいから。私が倒れでもしたら、貴方、石打ちにされるわ」
「分かってる……、できる」
 話すのも相当にきつい状態らしい。声が切れ切れなのは、単に寝起きで喉が渇いているのか、それとも限界状態に近いのか。分からないが、血を与えれば、どちらも解決するだろう。
 ベッドに片膝をついて襟を広げた私の首元に、男は切羽詰まったように背中を丸め、顔を埋めた。
「悪い、ね……」
 お構いなく、と返事をするよりも早く、ちくりとした痛みが走る。周辺がじわりと熱くなったが、牙の先で肌を破られたのだと思うわりには、痛みは少なかった。
 それよりもうなじや、鎖骨にかかる髪の感触がくすぐったい。振り払おうと伸ばした手が、察知したように掴まれた。その凍るような冷たさに、くすぐったさを忘れる。
(雪の中にいたから? それとも、吸血鬼っていつもこんななのかしら……)
 ちらと目だけを動かして、数時間前、玄関先で見つけたその男を見る。仕事から帰ってきて、アパートの前についたら、雪の中に人が埋もれかけていた。
 声をかけたが反応がなかったので、生きていることだけ確かめて、背負ってきた。足は結構引きずったかもしれない。何せ、階段を二階まで上がらなければならなかったから。
 ――その男が目覚めて今、血を吸っている。
(珍しいことの、かたまりみたいな午後ね)
 この世界には、マイノリティとして吸血鬼が存在している。人間数百人に対して、一人、いるかいないかというくらいで。
 知識としては当たり前に知っていたが、実際に出会ったのは初めてだ。千年近く前に栄華を築いて、今は衰退の一途を辿る彼らの、現存する末裔にこうして触れることなどめったにない。
「血……だけで足りるの? 食事」
「んー……」
「必要なら、パンとスープくらいは出せるわよ。人間だと思ってたから、そのつもりで用意してたし」
 唇を拭って、手の甲についた赤い線をぺろりと舐めた吸血鬼に、キッチンを指してみせる。切りかけの人参と、キャベツとベーコンが見えるはずだ。一応、目が覚めたときに備えて何か作っておこうと思っていた。
 体を温める意味でも、食べられないわけでないのなら何か口にしたほうがいいような気がする。吸血鬼はまだぼんやりと、唇の端を舐めて頷いた。
「一人暮らし?」
 キッチンに立って、料理を再開した私の背中に声がかかる。幾分か、元気を取り戻したらしい。掠れてはいるが、今にも倒れそうな声ではなくなっていた。
「ええ、そうよ」
「あんた、よく俺を拾ったね? 男だよ、それも行き倒れの。なんで?」
 目もしっかり覚めたらしい。人参を鍋に入れ、沸騰したスープが静かになるのを見ながら、私はその質問にしばし答えを探した。
「……寒そうだったから、かしら」
「寒そう?」
「死んじゃうかな、って思ったけど、雪の中で死ぬより、私の布団で死なせてあげようと思ったの。起きたら奇跡、くらいにしか思ってなかった。良かったわ」
 キッチンからでもよく目立つ赤い目が、呆気に取られたように瞬かれる。
 やがて吸血鬼は「そう」と笑い、部屋を横切る日射しを避けつつ、テーブルについた。


「おはようございます、ご苦労さま」
 教会の地下に続く階段を掃除している背に、ひばりの囀るような、透明な声がかかった。
「おはようございます、シスター・リィセ。今日もよろしくお願いします」
 声だけで彼女と分かり、振り返って微笑む。シスター・リィセはそんな私に、穏やかな微笑を返して、礼拝堂へ向かった。
 まもなく十時だ。この教会にいるシスターが全員集まって、今日も日が昇りましたと、神様に祈る時間がくる。
 私はそこへは行かない。十時の鐘を聞いて、そのとき、その場所で十秒間だけ手を組んで祈る。私はシスターではなく、この教会の掃除婦なのだ。町で仕事を始めている信者の人々と変わりなく、ただひととき手を止めて、祈るだけでいい。
 敬虔なシスターであるリィセは、近くにいるのだからいつだって参加していいと言うのだが、私は彼女たちに並べるほど純粋な信仰をもってはいなかった。
 でも、神様はいたらいいと思う。十時の鐘が鳴っている。

 玄関を開けて最初に驚いたのは、靴がある、ということだった。入り込んだ雪で濡れてまだ乾かない、上質そうな革のブーツ。乾いたら、多分ゆがんでしまう。
「ただいま」
 顔を上げ、キッチンに立つ後ろ姿を認めて声をかけた。少し整えられた、黒髪が振り返る。キッチンの前の窓は、見覚えのないカーテンをひかれていた。
「おかえり」
 赤い目をすがめて、吸血鬼は手にコショウを持っている。
 よほど体力が落ちていたのか、今朝は近くで身支度をしていても起きないくらい深く眠っていたので、そのままにして出かけた。朝食は一応、有り合わせだが置いておいた。テーブルの上が更地になっているところを見れば、多分、食べたのだろう。
 いなくなっていたらそれでもいい、と思っていたのだが、律儀に待っていたらしい。家族のような出迎えの挨拶に面食らい、一瞬、ここが慣れ親しんだ自分の家だということを忘れる。
「何か作ってたの?」
「ミネストローネ」
 瞳の奥がきゅっと締めつけられるような、妙な感覚を振りはらい、私は部屋に満ちる美味しそうな匂いの正体を見にいった。
「材料は近くで買ってきた。昨日今日と、あんたほとんど俺に譲って、自分で食べてないでしょ」
 上手くやったつもりだったのに、ばれていたのかと少し落胆する。同時に、ならばこれは私のために作ってくれたのかと思うと、久しく感じていなかった胸の温かみのようなものも覚えた。
 鍋の中にはじゃがいもや人参、ひよこ豆を始め、パスタや蕪など、しばらくお目にかかっていなかった食材がぎっしりと詰まっている。こんなに具だくさんのスープがあるのは久しぶりだ。体が素直に、空腹を訴えた。
 見れば、彼が手にしているおたまも新品だ。私の使っていた、柄が壊れて短くなったものではなく。
「貴方のこと、お金がなくて倒れてたんだと思ってた」
「違うよ。血が足りなくて、死にかけてた」
 どちらがより状況が悪いのかは別として、そういうことらしい。新調されたカーテンを捲ろうとすると、抗議の声が上がる。
 赤いスープの水面が、きらりと揺れた。
「貴方、まだ足りてないんでしょ」
 吸血鬼は答えない。ちょっと笑って、何も言わなかった。
「あげる」
 背中に散らばっていた髪を片側に寄せ、手で押さえる。もう片方の手でボタンを外せば、意図は伝わったのか、襟の下に指が滑りこんできた。冷たい指だった。火を扱っていたとは、到底思えない。
 氷が這うような感覚に、思わず目を閉じる。
「……ジェノ」
「え?」
「あんたが拾った、吸血鬼の名前だよ」
 ふ、と微かに吐息がかすめ、唇を当てられたのは額だった。何ということもない、親愛のような口づけ。
「私は……ミラ」
 思わず開けてしまった目の先で、彼はゆるりと笑む。
(今から貴方の、命になる女の名前よ)
 恩を着せたいわけではないのだ。思ったって、言いはしない。


 ジェノはそれから数日が経っても、私の家で過ごしていた。
 理由は多分、まだ十分に血が足りていないから。
 一度極限まで弱りきった吸血鬼が回復するのに、どれくらいの量が必要なのかは分からないが、彼は毎日、一定の量しか持っていかない。おそらく私の体が血を分けていることを感じない、ぎりぎりの量。お陰さまでこれといって、生活に支障は出ないでいる。
 ジェノはよく食事を作ってくれた。二人分だが、材料は買ってくれるしそれなりに美味しい。金に困っている男ではないようなので、居つかれてもこれといって、追い出す必要に迫られなかった。
「ただいま……」
「おかえり」
 というのは多分、建前で。
 アパートに帰り、階段を上ってドアを開けたとき、明かりが点って人が暮らしている光景に、ほっとしている自分がいる。
「外、すごく寒かった」
 他愛無い報告をしながらコートを脱ぎ、ベッドに座ったジェノの膝を跨いで、彼と向き合う。するりと髪を寄せる私の、シャツのボタンを彼が外した。
 教会から帰ってきて、夕方、こうして血を分ける行為が当たり前になってきている。冷たい指にもずいぶん慣れた。牙の痛みなら、すでにどうということはない。
 ちゅ、と額にごく軽い口づけが落とされた。
「ねえ、なんでじゃれるの」
 彼はよく、額や指先に、噛みつくわけでもなく口づけをする。それから襟を広げて、やっと血を吸う。
 遊んでいるようなその僅かな時間の、意味がよく分からない。困惑に首を傾げると、ジェノはからかうように、反対に首を傾げた。
「だって、怖いでしょ」
「え?」
「あんまり俺が、真剣になったら。あんた、死ぬんじゃないかって怖くならない?」
「……、ジェ」
 冷たい指が唇をなぞり、呼びかけた名前を飲み込んだ。ちくりと、首筋に牙が立てられる。いま血が流れているのだと思うと、なんとなく、口を閉じる。
 じわりじわりと、体中に痺れが広がるような感覚に任せて、私は髪を押さえていない片手でジェノの背中に触れた。
 ――マイノリティになった吸血鬼は、いつの頃からか、数や法で人間に敵わなくなったと聞いたことがある。
 昔は吸血鬼や、魔女や妖精というものがほとんどで、人間は彼らの下で生きていた。けれど時代が進むにつれて、魔女や妖精は姿を消し、吸血鬼も激減して、人間が増えた。
 数を手に入れた人間は無力ではなくなり、集うことで文化を作って、無知でもなくなった。私たちは時代を手に入れた。今この時代においては、力ある少数派の種族より、圧倒的多数を占める人間が強い。
 昔は出会いがしらに適当な人間の血を吸っていた吸血鬼も、今では人間が拒否した場合、無理に奪ってはならないという人間の法律に縛られている。
「保護団体とかいって、俺たちを集めてる人間の団体もいるみたいだけど。絶滅危惧種の珍獣みたいに扱われて、生活を管理されてまで、そいつらから血を譲ってもらうっていうのもごめんだね」
「ジェノ、」
「そう思って、連絡を無視してたらさ。力が弱ったところに、大勢で押しかけられて、種の保存への協力がどうとか言って、屋敷の権利書も奪われちゃって」
 ぴり、と首の傷痕を舐められて、小さな痛みが走った。
「……行くところもなくて、死にそうになってたところを、あんたに拾われた」
 背中に回った腕が、向かい合っていた体をゆっくりと横たえる。いつもより多く血を吸われただろうか。手足が思うように動かず、口も重かった。
 頬に、瞼に、覆いかぶさるように口づけて、ジェノは私の手を取り上げ、指先に歯を立てる。ぷつりと赤く、玉の血が滲んだ。頭が朦朧としている。
 これ以上は多分倒れてしまう、と止めようとしたのだが、呂律が回らなかった。ゆるゆると、振れているかも定かでないがかぶりを振る。しかしジェノは、そこから血を吸うことはなかった。ただ一滴、針を刺したのをなだめるように舐めて、そっと笑った。
「知ってる? 吸血鬼が血を吸うのには、二つの意味があって」
「……?」
「一つは食事。もう一つは、求愛行動だって」
 目の前がぼんやりと、暗く霞んできた。
「……ほんと、悪いね。親切を仇で返すような真似して」
 瞼が重くなる。声は聞こえているのだが、言葉が、知らないもののように頭でばらけてしまい、上手く理解できない。
「おやすみ、ミラ。あんたのおかげで、力はずいぶん戻ってるんだよ。でも……」
 手のひらが降りてきて、カーテンのように私の両目を塞ぐ。途端、堪えていた眠気が意識を引きずりこんで、何もかも一緒に眠りの底へ落ちた。
 私はそのまま、温かい食事の匂いがしてくるまで、深く寝ついて目を覚まさなかった。

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