その掌の舞台裏W
ラーメン屋のときと、別人のような用意の良さだ。あれはあれで良かったけれど、最初にあまり恰好のつかないところを見せておいて、後から本気を見せるだなんて、策略だと見え透いていても翻弄されてしまう。
(……幸せだろうな。この人が恋人だったら)
注文の品を待つ間にワインを傾けながら、私はそう思った。その気持ちを自分の身に染み渡らせるつもりで、グラスを飲み干した。
「先輩、大丈夫ですか? 掴まってください」
一時間が経ち、二時間が経ち。お喋りをしつつの食事はつい長くなって、お酒も進んでしまって、私は店を出る頃にはすっかり酔いが回っていた。差し出された腕に掴まろうとして、バランスを崩し、松田くんに支えられる。
情けない、こんなに酔いやすかっただろうか。甘口のワインで気が緩んだのか。忘年会でも人に頼るまで飲まないで切り上げるのが、密かな信条だったのだが。
「ごめ、ありがとう」
「平気ですよ。ごめんなさい、僕ペース早くて、先輩にも無理させちゃいましたかね」
「そういうわけじゃ……、ほんと、松田くん全然酔わないわね……」
「あはは、逆よりいいじゃないですか。僕が先輩に支えてもらったら、さすがに恰好つかないですし」
覚束ない足元を気遣って、松田くんは「こっちにしましょう」と自転車の少ない横道を選んだ。うん、とよく分からないまま返事をする。
「恰好、つけたいんだ?」
「……ええ」
白い、古ぼけた街灯が一本、入り口に立っているだけの、あとは明かりがほとんどない細い道だった。シャッターのらくがきを背にして、私の問いかけに松田くんは笑う。にこりと、その顔がいつもより大人びて見えるのは、瞼の裏まで酔いが回っているせいだろうか。
手のひらが、頬を撫でる。
「熱いですね。少し、休んでいきますか?」
「……松、」
「……なんて、こういう言い方は卑怯か」
頭の後ろのほうが、一筋だけ冷静さを取り戻しそうになって。けれど、予感がしていなかったと言ったらそれも嘘になる。
返事を躊躇った私の背中を押すように、松田くんはふいに、私をぎゅっと抱きしめた。
「僕のものになってくれませんか」
「……っ」
「生意気かもしれないけど、柏木先輩が欲しいんです。先輩としてじゃなくて。……言ってくれませんか、先輩の口からも」
「何て……?」
「……僕に、全てくれる、って」
全て。
ふと、その言葉の表す意味が茫漠としている気がして、私は開きかけた唇を二度三度と閉じた。抱きしめる腕の力は、その度に強くなっていく。
「お願いです」
「松田くん……」
切に乞うような声を出されて、ああ今どんな顔をしているんだろうなあと、そう考えてしまったらもう駄目だった。
ゆっくりと、その背中に両腕を回して抱き返した。ぼんやりと滲む温もりと心臓の音が、期待に震えているみたいに私を急かす。
「全部、あげるわ。……松田くんに」
ついに唇が、迷いを振り切って紡いだ。言ってしまってから、羞恥に松田くんの顔が見られないと気づく。
私は松田くんが何か言ってくれるのを待った。それか、キスをするなり手を引くなりしてくれるのを。けれど彼の反応は、想像のどれにも当てはまらないものだった。
「……おかしいな、どうして何も……?」
「松田くん?」
「あ、ああ……いや、すみません。……先輩、今のもう一回言ってくれませんか? 僕の目を見て」
「えっ!?」
まさかのおかわりに、唖然とする。
「お願いしますっ、やっぱりちゃんと顔見て聞きたいなと思って。ね、言ってくれたら僕、同じこと先輩に言いますから」
「ええ……、そ、そう」
正直、一回でもだいぶ恥ずかしかった。こんな台詞、言うのも言ってもらうのも一生に一回もなくたっていいものだと思ったが、ここで口論をするのも気が引ける。
仕方ない、と覚悟を決めて、私はもう一度、今度は松田くんの顔を見て言った。
「……貴方に、全部あげる」
「……」
「……何か言ってよ」
無言になられると辛い。私はそもそも、こんな台詞が似合うような美人ではないのだ。顔なんて見つめ合わせないほうが、むしろ雰囲気が出ていたのではないだろうか。
冷めたのかな、と思って様子を窺っていると、松田くんがのろのろと口を開けた。そうして私の肩に置いた手に、びっくりするほどの力を込めて――ぎりっと、奥歯を軋らせた。
「おかしい、どうして何も起こらないんだ……」
「ま、松田く……?」
「もう一度! もう一度だ、早く試せ!」
私の肩に爪を食い込ませて、叫び散らす。この人は、一体誰だろう。
松田くんの突然の豹変に、私は呆然として、揺さぶられるままになるしかできなかった。がくがくと頭が揺れている。その目の中で、大きな二重の目を獣のように吊り上げて、松田くんはまだ早くと怒鳴っている。
「無駄だよ? 何度言わせても」
ふいにその顔が、黒い、影のようなもので覆われた。ここにいるはずのない人の声に、驚いたのは松田くんだけではない。
「その子、俺の契約者じゃないもん。変更の言葉を言わせたところで、何も起きないって」
影はそのまま松田くんを引き剥がし、するすると入り込んできて、私の肩に掴みかかった指も外していく。
そうしてどさりと、地面に倒された松田くんの向こうに、夜より深い黒づくめの男がこちらを向いて、唇を吊り上げていた。
「や、叶恵。いい夜だね」
「どうして、ここに……っ」
「……へえ、酔ってるじゃん。ちょっと休んでれば」
「え?」
言うが早いか、彼は私に手をかざす。
ぐにゃりと大きく視界が歪んで、私は二本の影に支えられながら、壁際にずるずると座り込んでしまった。意識の濁っていくような、奇妙な眠気が襲ってくる。手足が怠くて、重くて、思うように動かせない。
「なんの、つもりなの……」
ほとんど開かない唇から、呻くように言えば、彼は私を見下ろして感情の読めない笑みを返した。
こんなところまで来て。
また私が、普通の恋愛をするのを邪魔しにきたの。
言いたいことはたくさんあるのに、意識が朦朧として何一つ言えない。影が音もなく、アスファルトの上を戻っていって、彼の足元に収まった。
「さあねえ。何だろうね」
聞こえないくらいの、小さな声だった。
「お前……、どういうことだよ。契約者じゃないって?」
かき消すように、松田くんの声が静かに響く。柔らかな声は憎悪に満ちて震えていて、お前、と今視線を向けられたのは私でもないのに、背筋がひやりとした。
知らない人間が立っているみたいだ。けれどその背中は、紛れもなく映画館から私の手を引いてきた、松田くんのもので。
「そのまんまの意味だよ。俺は……、っていうか、その子誰とも契約とかしてないんだ。普通の人間」
「……冗談だろ? だったらなんで、お前みたいなのが傍にいる」
「発想が貧困だね。君、人間を契約者とそれ以外でしか、考えたことないんだ?」
松田くんが爪を食い込ませそうなほど、ぎいっと拳を握りしめる。対する彼は笑っていたが、声には嘲るような棘が含まれていた。
何がなんだか、まるで分からない。
私は襲ってくる眠気に必死で抗って、夢の中の光景でも見ているような気分になりながら、目の前の出来事を見逃すまいとして目を開けていた。ごう、と視界が明るく爆ぜる。
松田くんが、かざした手から青い炎のようなものを放ったのだった。
「こんな狭いところで、考えなしだよなあ。これだから下級は話になんなくて、嫌いだよ」
その火を、絨毯のように広がった影が受け止めて包み込み、風船のように丸くなる。もぐもぐと咀嚼するような動きで揉み消したかと思うと、口を開け、空に向かってバフッと煙を吐き出した。
その煙が、松田くんの首に絡みつく。息を呑む間もなく、体が宙へと浮かされた。
「大方、自分より上位のヤツの契約者を食べて、力を上げようと思ったんだろうけど」
「ぐ……っ」
「動くなら今日だと思ったよ。ハロウィンとか、エイプリルフールとか――こういう日は魂が甘くていいよねえ。より力になる」
「おろ、せっ」
「せっかく一度、顔見せてやったのに。見逃されたことも分かんない馬鹿じゃあ、どうせこの先も生きてはいけないよ」
もがく松田くんの足元に立って、彼は笑った。
「だったら、どうする。殺すか?」
苦しげな声で、それでもまだ挑発的に松田くんは言う。脳裏に会社で「先輩」と声をかけてくるときの松田くんが甦って、同じ人の口から殺すなんて言葉が出てきたことに戸惑って。ぼやけた頭でもはっきりと分かった。
松田くんは、松田優くんなんかではなかったのだ、最初から。
「殺したって、死なないでしょ。そんな生温いことするくらいなら、何もしないね」
普通の、男の子などではなかった。
神様が巡り合わせてくれた、優しい恋人などではなかった。
視界が滲んで、牡丹雪のような涙がひとつ、投げ出された脚に落ちる。それがどういう感情なのか、自分でも上手く整理がつけられなかった。
それじゃどうするんだ、と首を絞めあげる煙の帯を掴んで、松田くんが哄笑する。しかし、彼はふと何かに気づいたように、その笑いを失った。
「一つだけあるだろ。君が二度と生き返れない、生まれ変わることもない方法が」
「まさか……っ、おい、気色悪いこと言うなよ」
「悪いね、長く生きてると、美味しいものばかりが食べたいわけでもなくてさ。ちょうど久しぶりに、苦いだけの食事がしたくなってたところなんだ」
「この、悪食……!」
苦しげに言い放った、その一言で断ち切られたように、煙が松田くんの周りから消えた。落ちてきた体が、派手な音を立ててシャッターに押しつけられる。影が絡みついていた。半透明の、夜の空気を固めたような、ゆらりと伸び上がる影が。
「悪食で結構。人の皿に手を出そうとしたガキに言われても、ねえ」
影を一歩、一歩と踏みしめるように松田くんへ向かって歩き、彼は嘲笑と共に手を伸ばした。
蜘蛛のような指が松田くんの首にかかり、黒い爪が、肌を抉るように食い込む。瞬間、私は見た。
二人の背に、真っ黒な翼が現れるのを。
「あっちはちょっと、今は食べる気にならないんでね。せっかくのハロウィンには物足りないけど――共食いといこうか」
意識がぐるりと、黒に覆われる。
私が起きていられたのはそこまでだった。傾く体をおさえることもできなくて、地面に横たわり、そのまま目を閉じた。
ガラス越しに触れる、冷めかかった白湯のような。体温が低くて、細い背中に揺られていた。こつ、と靴音が響くたびに、浮き出した肩甲骨が当たる。痛いなあ、と思って身じろぎをしたところで、意識がようやく、すとんと戻ってきた心地がした。
「ん、え?」
「起きた? おはよ」
「おはよう……? え?」
振り返り、私の顔を見て笑った人の姿に、何がどうしてどうなったのか分からなくなる。
私はなぜ、こいつにおぶわれているのだったか。
「暴れないでね。どうせあんた、まだ立てないと思うから」
ありえない状況に悲鳴を上げるより、一拍早く。私の反応を先回りして、彼は忠告した。その言葉をきっかけにして、眠りに落ちる前の記憶が夢を思い出すように甦ってくる。
街灯、パスタの味、火を呑んだ影。抱きしめた温もりと、松田くんの声と、松田くんの。
「……人間じゃないかも、なんて。考えろっていうほうが無理よ」
「うん」
「最初からそんなこと、思えっこないじゃない」
松田くんの、本当の姿。
ぎゅう、と黒髪に顔を埋めて鼻を啜ったけれど、彼は何も言わなかった。林檎のような、ただの秋の風のような、かすかに甘い香りがする。人でなしの匂いを嗅ぎ分ける力など、私にはない。松田くんだって、この人だって。私と何一つ変わらないとしか思えないのに。
「ばか」
「え、なんで」
「もっと分かりやすく言ってよ。傷つく前に」
「あんたねえ……」
「優しくしてよ。じゃなきゃ、……分からないんだもの」
口当たりばかりいい酒を、ずいぶん飲まされたものだ。眠ったのに、まだ酔いが残っていて、頭の奥が熱い。
ぐるぐる、まとまらない思考が回っている。それが時々、胸を締めつける。私は悲しいのだろうか、怒っているのだろうか。寂しいのかもしれない。それは、誰に対して、なのだろう。
はー、と、重いため息が聞こえた。
「分かってないのは、どっちなんだか」
「何よ、それ」
「まあいいよ、もうすぐ着くからさ。酔いが醒めたら、自分が何させたのか、よーく考えてみてくれる?」
諭すような、馬鹿にした口調にかちんときて顔を上げる。思わず忠告も忘れて手を振り上げようとしたとき、両脚を抱える腕がわずかに力を入れた。傾きかけた私の体が、よいしょ、と元の位置に戻される。
あ、と思った私の沈黙を破るように、いつもの調子でけたけたと笑って、彼は言った。
「悪魔に子守させたのとか、あんたが初めて」
「こも……っ!?」
「ホント、面倒くさいね。人間って」
そう思わない、と。返答を求めているが、私こそがその人間だ。しかも、妙齢の女を捕まえて言うことが子守だと。優しくしてと言った傍から、この対応だ。
面倒くさいのはどっちだ、と言おうとして、かすかに漂ったハーブの香りが私の口を閉ざさせた。ああこれは、と脳裏に浮かんだ顔を思って、目を瞑る。あのあと何があったのか、最後までは見ていられなかったが、多分もう二度と私の前に現れることのない人の香り。
「鍵、どこ?」
「バッグの、内側のポケットの……左のほう」
するりと伸び上がった影が、彼の腕にかかった私のバッグを開けて、鍵を取り出した。器用なものだ、と何も言わずにその様子を眺めてから、辺りを見回す。
公園の脇の道を抜けて、アパートがもうすぐそこに見えてきていた。
月がぽっかりと、空に明るく浮かんでいる。その縁にかかる煙のような雲を見たとき、私はようやく、ああ夢じゃなかったんだなと思った。生きている心地がした。今夜もまた、当たり前に朝へ向かって時間は進んでいくのだと。
ぬるい背中に頬を寄せて、鍵穴の回る音を聞く。
彼がドアノブに手をかけたとき、私は初めて、ありがとうと言った。
〈その掌の舞台裏/終〉