その掌の舞台裏V

 いつになく、知人であるはずのその男を異質な存在に感じた。
 私は言えなかった。松田くんに、このどことなく異常な人を、自分の友人だと紹介することを怖れた。そして同時に、そんな自分をつくづく嫌な女だと思った。
「初めまして、柏木先輩の後輩の松田です。仕事でお世話になってます」
 このところ顔を合わせていなかったとはいえ。数えられないほど会話をし、あの公園で、一緒に食事だってした仲なのに。認めたくはないけれど、友人だった。なのに私は、松田くんがこの友人をどう評価して、ひいては私をどういう目で見るようになるかと想像して、濁した。
「そう、ヨロシク。こちらこそ、叶恵が世話になってるみたいで」
「ご友人ですか?」
「それ訊くの? 君」
 嫌悪に陥っている私をよそに、二人は卒のない会話をして、松田くんが軽く笑った。すみません、と彼は言う。いいけどね、と笑う――この黒ずくめの友人の名前を、そういえば私はまだ、知りもしない。
(私たち、は)
 どういう関係なのだろう。松田くんの質問に、今さら答えが見つからなくなってきた気がして、戸惑う私の肩を冷たい手が引き寄せた。黒くて長い爪だった。骨ばって長い、蜘蛛のような指。
「世話かけたね。あとは俺が送ってくから、君も帰っていいよ」
「へ……」
「……そうですか。それじゃ先輩、また明日、会社で」
 空いた片手で、ばいばいと松田くんを見送って、勝手に話をまとめた男は私を見下ろし、いつもの笑みを浮かべた。目元の見えない、いかにも人を馬鹿にしたような、そんなわざとらしい笑い。
「……なんで貴方に送られなきゃいけないの」
 横断歩道を越えて車の波に見えなくなった松田くんの背中を見送りながら、ぼつりと呟く。我ながら本当はずいぶん低い声が出るものだと、先刻までの浮かれた声を思い出して、少し恥ずかしくなった。
「ああいうのがタイプ?」
「……嫌いな人は少ないんじゃない?」
「わお、認めるんだ。趣味悪いね、叶恵」
「あのねえっ、この間から貴方、松田くんのことあれこれと……!」
「それに、性格も悪い」
 ぐいと、肩に回された腕に力が入る。
「俺の告白を保留にしといて、他の男とデート? やるじゃん」
 身長差を考慮せずに引き寄せられて、爪先が道路から浮いたかと思った。悪戯に片手の指を絡め取って、ダンスのように彼は私の顔を覗き込む。
(い、痛……っ)
 覆い被さられて、思わず仰け反った背中が痛い。足元も不安定だ。ぎし、と掴まれた指が強く握られて軋んだ。
 なぜだかこのとき、いつも見ているはずの目の前にある微笑みが怖くなって。無性に、どうしようもなく怖くなって。
「……れは」
「何?」
「それはっ、貴方のことだもの! どうせ、また冗談とか、嘘なんでしょう!?」
「叶、」
「本当に、本当に私を好きで言ったんだったら、半年も答えを聞きに来ないはずなんてないって分かってるから!」
 怖さを跳ね除けるように、私は怒ってしまった。
 離して、と掴まれた手を振り払う。冷たい指の温度が染みついてしまったみたいに、体がそれを押し返そうとしているみたいに、握られたほうの手だけが熱かった。
「一人で帰れる」
 ついてこようとする足音を止めるように、ぴしゃりと言い放って私も足を止める。少し離れた横断歩道の赤を見て、次の青信号で渡ろうと決めた。
「さっき、松田くんのことタイプなのかって言ったけど」
 聞こえても聞こえなくてもいい。そう思って、振り返りもせずに口を開く。
「かっこいいと思うわ。何より、自分に優しくしてくれる人を好きになって、何がおかしいの?」
 恋愛の経験値は高くなくたって、もう何も知らない鈍感な子供ではない。好きと断定してしまうには早いが、今日までのような日がまた続けば、私はきっと、松田くんを好きになるだろう。そう遠くないうちに。
 そしてこれも、断定するには早いが――松田くんもまた、私を測っている。そうでなければ、会社を出て食事に行ったりなどしない。
(……そうよ、分かりやすく愛されたくて、何が悪いの)
 曖昧な関係は、苦手だ。こんな、どこの誰とも知らず、恋か嘘かも分からないような関係より、確かな相手を好きになることの何が悪い。
 信号が青になる。私は振り返らずに渡った。そうして一目散に、何も考えないで、まっすぐに家へ帰った。

「松田くん、これお願いしていい?」
 コピーと電話の音が交互に響くオフィスで、書類の束をクリップでまとめ、隣へ差し出す。受け取った松田くんは返事をしかけて、おやと瞬きをした。
〈今夜、ごはん食べに行かない?〉
 書類の上に貼った付箋に目を落とし、驚いた顔をする。返事はできあがった書類と共に渡されてきた。
〈喜んで。大きな駅の近くなんですが、今度は洋食屋に行きませんか?〉
 私は受け取って、その場で頷いた。構わないのではないかという気がしてきていた。誰かに見られたとしても、噂が囁かれたとしても、それならそれでいい。
 ラーメン屋に行った日の一件から、一週間が過ぎようとしている。松田くんを教えながらの仕事にもだいぶ慣れてきて、松田くんのほうもずいぶんと、私の仕事を助けてくれるようになった。なかなかいいコンビだと、仕事上の関係でも思う。プライベートでは連絡先を交換し、また食事に行こうという話もすでに挙がっていた。
「柏木さん、コピー機空いたよ」
「はい、どうも」
 資料を持って席を立つ。首筋からふわりと、今朝も今朝とて手を滑らせた香水が香った。
 公園にはあれから一度も顔を出していない。行きも帰りも道を通っていくので、ベンチの上も見ていない。
 元々街中で行き合ったことなど一度もなかった人だ。偶然が二度続くこともなく、私たちはあの公園という場を介さなければ、あっという間に疎遠になった。思えばどうして、会ってしまうと分かっていながら公園を歩き続けていたのだろう。会って、純粋に楽しい思いだけをしたことなんて、多分一度もなかったのに。
(……親しかった、のかしら)
 考えると、胸の奥が小さく痛む。私は結局のところ、彼にとってどういう位置づけの人間だったのだろう。好きだと言ったのは、本当にただの冗談や嘘だったのだろうか。分からない。確かめるにも、どんな言葉で訊いたらいいのか、ひどく迷ってしまった。
(でも、冗談よね。だって本気だったら、半年も放ってないわ)
 コピー機に資料をセットして、枚数ボタンを押しながらかぶりを振る。
 すべてはもう、終わらせたことではないか。私はもう、あんな名前のつかない付き合いに振り回されるのは止めるのだ。私を大切にしてくれる人と、明確な恋がしたい。
 そう決めたのは、私だ。
 スタートボタンを押す背後で、電話が鳴る。松田くんがとって、滑らかな口調で話し始めた。
「――はい、はい。……えっ?」
 声が、ふと凍りついたような気がして。どうしたのだろうと振り返る。
「はい……、も、申し訳ありません!」
『――、――――』
「はい、はい……今日中、ですか? あの、それは……あっ、もしもし!?」
 受話器のむこうから漏れ聞こえていた怒声が、ぴたりと止んだ。嫌な予感がして松田くんを見ると、彼は青白い顔をして受話器を握りしめている。
「切られたの?」
「柏木先輩……、すみません! 僕のミスです。昨日書類を送ったK社の人からだったんですが、不備があったみたいで」
「松田くん……」
「今日中に直して、明日には届くように再送しろと。すみません、やってみますが、今日これから全部の仕事を後に回しても間に合うかどうか」
 震える手で受話器を下ろし、松田くんは私に頭を下げた。それから急いで、机の上からファイルを取りだし、控えの書類を抜く。
 ざわめく周囲を目で黙らせて、私はコピーの終わった資料を手に、隣へ座った。
「どこが違うって?」
「ここと、このページ……」
「分かったわ、先にそこだけ直してて。残り貸して、こっちでチェックするから」
 え、と松田くんが驚きに目をみはる。私はほら、と促して手を差し伸べ、小さな声で言った。
「ここにきて初めてのミスじゃない、頑張ってると思うわ。手伝うから本当に明日着かせて、びっくりさせてやりましょう」
 K社の事務員も人が悪い。確実にできないと分かっていて期限を言ってきたり、あえて二つ気づいたミスを一つしか指摘しなかったりというような、人を試す節のある人なのだ。もう何年も付き合いがあるので、知っている。
 私は急ぎの仕事だけ片づけて、あとはひたすら、今日は松田くんの手伝いに回ることにした。二人分の缶ジュースを買ってきて、デスクの下でこっそり気合の乾杯をした。

 すっかり人のいなくなった夜のオフィスに、プリンターが紙を吐き出す音だけが響いている。
 ゆっくりと出てきた最後の一枚を念入りに確認し、速達の宅急便で出す用意をして、封筒を糊付けしたときには肩の力がどうっと抜けた。
「終わったあ……!」
 どちらからともなく椅子に倒れ込んで、だらしない姿勢のまま、松田くんとハイタッチを交わす。時刻はすっかり夜の十時を回っている。こんなに残業をしたのなんて、いつ以来だろう。
「本当にすみません、ありがとうございました」
「いいんだって」
 何度目か分からない謝罪とお礼を、笑って遮る。どうにかなったものはどうにかなった。もう、謝る必要も焦る必要もない。
 デスクの上に転がった栄養ドリンクの瓶を、松田くんが片づけにいく。私は散らかったファイルを整えて、パソコンの電源を切った。そうこうしている間に、しばらくあって給湯室から出てきた松田くんは、ちょっとくたびれていたけれど悪戯っぽい顔で笑っていた。
 その手に、二杯の紅茶がある。
「夜のオフィスでティーパーティーなんて、なんか遊んでる気分」
「先輩でもそんなこと思うんですね」
「もっと真面目だと思ってた? ごめん」
「いいえ、可愛い発言だなって。ね、実はこんなのも持ってきたんですよ」
 不意打ちの「可愛い」に噎せかけている私をよそに、松田くんはポケットからチョコレートの包みを取り出した。どうやら給湯室の茶菓子置き場から、たくさんあるのを持ってきたらしい。
 ありがたく共犯になって、包みを広げた。ミルクチョコレートの柔らかな茶色が、見ているだけでも心をほっとさせてくれる。
「残業させたのも、もちろん申し訳ないとは思ってるんですけど」
「ん?」
「今日、せっかく誘ってくれたのに、僕のせいで行けなくなっちゃってすみませんでした」
 もぐもぐとチョコレートを噛みしめながら、私は一瞬考えて、ああと頷いた。仕事のことですっかり忘れていたが、そういえば食事に誘ったのだ。今からではもう、居酒屋くらいしかやっていない。約束はまた別の機会に持ち越すのがいいだろう。
「……あの、お詫びと言っては何ですが」
「なに?」
「映画の無料券があるんです。お礼も兼ねてってことで、良かったら土曜日、行きませんか? 食事も、今度は前よりお洒落なところ見つけておきますよ」
 仕事中の名残りを感じる、眼鏡をかけたままで松田くんは言った。ほんのりと砂糖の利いた紅茶を傾けて、私はカレンダーを思い浮かべる。
「土曜日って」
「三十一日ですね」
 松田くんが携帯のカレンダーで確かめてくれた。三十一日。その日付にどきりとしてから、かぶりを振る。
「先輩?」
「ごめん、大丈夫よ。用事は……何にもないから」
 迷う理由なんて、ないはずだ。去年もその前も、たまたま空いていただけで、ハロウィンだからといって予定を入れておけない理由なんてない。
 約束なんてない。
 私は紅茶を冷める前に飲み干して、松田くんの分もカップを洗った。コンビニへ行って、二人で書類を出して、送ってくれるという言葉に甘えて帰った。

 約束の土曜日は、それから指折り数えてあっという間に訪れた。
 昼過ぎに駅前で待ち合わせて、軽くお茶をしてから映画館に向かう。映画なんて久しぶりで分からない、と言った私に、松田くんはそこそこ話題の洋画を選んだ。ライトな恋愛ものをベースにした、人生って素敵ね、とでもまとめられそうな、お洒落で気さくな映画だった。
 ハードなアクションほど好みも分かれず、語り合うのに恥ずかしくなるほど甘くもない。食事の前に観るにはとてもちょうどいいチョイスで、もしかしたら彼は最初から、これを選ぶつもりだったのかなとも少し思った。
「先輩、こっち」
「あ、うん」
 映画館を出るとき、暗がりに一瞬はぐれかかった私の手を、松田くんが繋いだ。夕暮れに吸い込まれるように、そのまま駅前の大通りを歩いていく。
 食事の場所は元々予約しておくと言ってもらってあったので、私は何も考えずについていくだけだった。映画の話をしながら、十分くらい歩いただろうか。何度か角を曲がって大通りから離れたところに、松田くんの指さす看板があった。
 花を飾ったテラスが印象的な店構えの、イタリアンレストランだ。
 こんなところに店があったなんて、と素直に驚くと、松田くんはちょっと得意げな顔になる。店員さんに名前を告げて、私を伴って席につくと、最初にワインだけ頼んで、ゆっくりと乾杯がてらメニューを選んだ。
 慣れた手際で、それとなく良いものを選ばせてくれる。
「なんか、ずるいわね」
「何がです?」
「振れ幅」
 松田くんは意味が分からなそうに首を傾げたが、私はそれ以上答えるのが恥ずかしくなって言わなかった。

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