その掌の舞台裏U

 つくづく冗談だと言ってほしくて、頭を抱えたくなった。どういう顔をしたらいいのか分からない。大方からかわれたのだろうとは思っているが、あの一件以来、会わない時間が長すぎた。今度会ったら普段通りに接しよう、気にせずにいこう、と覚悟を決めて歩いていたのが、一ヶ月過ぎ、二ヶ月過ぎ。私は心のどこかで、もう会うこともないのかもしれないと思い始めていた。
 その矢先の再会だ。
(完全に、気を抜いてたわ……)
 視線のやり場に困って、ぐしゃりと髪をいじる。風がうなじに残った香水の匂いを運んだ。何の変哲もない、安い花の香り。
 けれどそれが流れ去ったとき、ふと、彼は組んでいた脚をといた。
「え、何。ちょっと」
 立ち上がりざまに腕を引っ張られて、私のほうは屈むような格好になる。すんすんと首の後ろに鼻をくっつけて、彼は、
「えふっ」
「ちょっと。失礼にも程があるわよ」
噎せやがった。
「しょうがないじゃん。つけすぎ」
「煩いっ、手が滑ったのよ! いつもはこんなじゃない」
「あと趣味悪くない? もうちょいすっきりしたヤツ使ったら。っていうかさ」
「何! まだ何かあるっていうの」
 信じられない。これだからこいつに会いたくなかったんだと、少し前までの緊張も忘れて、私はじたばたと暴れながら怒鳴った。言いたいことがあるのならさっさと言え。どうせ私のセンスは中学生レベルだ。
「あんた、最近誰かと会った?」
「……はい?」
 もがいていた腕をぱっと離されて、勢いでばんざいの格好になりながら――私は腕を下げることも忘れて、眉間に皺を寄せた。
「誰かって、そりゃ毎日仕事だもの。色んな人と会うに決まってるじゃない」
 人を引きこもりか何かみたいに、誤解しているんじゃないだろうか。別に貴方と会わなくたって顔を合わせる人間くらい他にもたくさんいる、と言えば、彼は「あー」と面倒くさそうに言って、ベンチに腰を下ろした。
「そういうんじゃなくてね。誰か、新しい相手と親しくならなかった?」
「新しい?」
「そ、今までの交友関係にはいなかった、まーったくの新しい相手」
 組んだ膝の上で器用に頬杖をついて、唇を吊り上げる。
 まったくの……、と考えて、頭の中に松田くんの顔が浮かんだ。同時に出会ったときのことと、今日のクッキーの一件が過ぎってしまい、かあっと顔が熱くなる。
「さ、さあ? どうだったかしら。別にいないと思うけど」
 職場に新人の男の子が入ったくらいかな、と。口にするとしたらそれだけの話なのだが、多分、この反応でそんなことを打ち明けようものなら、大いにからかわれるだろう。
 親しい、というほどの間柄ではない。思い出したシーンがダイジェストすぎただけだ。けれどそれを一から説明してやるのも煩わしく、私は質問をごまかして、視線を逸らした。
「ふうん、そう? ま、あんたが言うならそうなのかね」
「……何よ、なんか引っかかる言い方。機嫌悪くない?」
「べっつに。ただ、そいつちょっと臭うよ。気をつけたほうがいいんじゃない」
 じゃあね、と手を振って、ひらりと立ち上がる。彼はそのまま、公園の木々の落とす影に紛れるようにして、あっというまに見えなくなった。
「……いないって言ってんのに」
 うなじを押さえて、ため息まじりにこぼす。
 久しぶりに顔を見たと思ったら、これだ。香水の趣味も交友関係も、口を出される筋合いなどない。一体どんな目をしていたら、他人の近況など見通せるのだろう。

「柏木さん、これ今週中でよろしく」
 ぱさりと、デスクに積み上がったファイルの上に書類の束が置かれていく。昼下がりの欠伸をかみ殺して奥歯に力を入れていた私は、一拍遅れて部長の背中に「はい」と返事をした。
 手を伸ばして、枚数と大まかな部分だけ確認をする。毎月決まってやっている書類なので、これはそんなに急がなくてもいい。契約に関する書類のほうを先に仕上げてしまわないと、と、ファイルに挟んで再びパソコンに向き直った。
 画面の右上に、メールの受信を報せるマークがつく。
(社内メール? こんな狭いところにいるのに、誰から……)
 開いてみて、私は思わず瞬きをした。
〈お疲れ様です、松田です。先輩、今夜お時間ありませんか?〉
 首を動かさず、目線だけ隣へ向ける――松田くんは黙々と与えられた仕事をしている。でも、アドレスも名前も、間違いなく彼のものだった。
〈社内じゃあまり話せないので、少しお話聞きたくて。よければ食事に行きませんか。〉
 後輩からこんなふうに、一対一で誘われたのは初めてだ。仕事に行き詰っているようには見えないが、そろそろオフィスのことで気になることでも出てきたのだろうか。私はあまり迷わず、その場で返事を送った。
〈いいですよ、週中だしどこか近くで食べましょう。帰りに裏口のコンビニで待ってるね。〉
 送信しました、とメッセージが点灯し、消える。松田くんを見ると、彼もこちらを向いた。そうして書類を片手にパソコンをチェックし、いつものようににこっと笑った。

 松田くんとコンビニで六時に待ち合わせをし、駅まで歩いた。大きな駅だと社内の人と鉢合わせてしまいそうだということで、少し離れた私鉄の駅である。私は普段行かない場所だったので躊躇ったが、松田くんはどうやらその近くに住んでいるそうで、おすすめの店があるんですよと楽しそうだったのでお任せした。
 着いたのは仕事帰りの人たちで賑わう、中華料理屋だった。
「いらっしゃい、どうぞ座って」
 カウンターの端に通され、並んで腰かける。
 壁にはりだされたメニューの中からそれぞれにラーメンと餃子を注文し、古びたガラスのコップに入った水で乾杯して一息ついた。
 中華料理屋、と表現したが、実際には広めのラーメン屋である。一人の客からサラリーマンまで、女性は少なく、男性客が八割くらいを占めていた。
「すみません、こんなところで」
「えっ? あ、いいのよ全然」
「先輩を連れてくるには、ちょっと違うかなって思わなかったわけじゃないんですけど。でも僕、ここのラーメンが一番好きで」
 水を飲み干して、ふう、と息をついたのがため息にでも聞こえたのかもしれない。すみません、と苦笑する松田くんに、私は首を横に振った。
 意外でなかったと言ったら嘘になる。正直、もう少し気取った店を想像もしていた。でも、ラーメン屋なんて一人で入る機会はなかなかなくて、久しぶりだ。何より、隣に座った松田くんの年下らしい店選びと、注文の品をそわそわと待っている様子はちょっと可愛くて、悪くない。
「お待たせしました、醤油ラーメンです」
 店員さんが手を伸ばして、二杯のラーメンを私たちの前に置く。松田くんのおすすめに従って、私も同じものを頼んでいる。すぐに餃子が出てきて、私たちはいただきますと箸を割った。
「ん、美味しい」
 一口目はあっさりしているが、結構ボリュームのあるラーメンだ。でも醤油の香ばしさが効いていて、すぐにもう一口食べたくなる。
「良かったあ」
 オーソドックスだが、美味しいラーメンだと思った。松田くんは私の反応を窺って、まだ箸をつけていなかったらしい。ほっと破顔して、自分もスープを一口啜る。
「よく来るの?」
「はい、ちょっと気分を入れかえたいときなんかに」
「ふうん……」
「今の会社に初めて行く日の前の夜も、ここでラーメン食べて、明日から頑張るぞって思ってました。面接の前にも食べに来ましたし」
「ふふ、何それ。ゲン担ぎみたい」
「そんな気持ちもあります。あと、それとは逆なんですけど、落ち込んだときなんかも食べに来ますね」
 さらりと言って、松田くんは麺を啜る。酢醤油を小皿に作りながら、私は思わずその横顔を見る。
(落ち込む……かあ)
 ラーメンを啜っているだけで、これほどまでに輝く人もそうそういないだろう。まして仕事も順調に見える。人付き合いも文句なしの出来だ。
 松田くんのような恵まれた人でも、落ち込むことがあるのだ。否、もしかしたらそんな人だからこそ、たまにどっと疲れたりするのかもしれない。私はなかなかうまくできたと思う酢醤油を松田くんにあげて、自分の分はまた新しく作った。ラー油を傾けてやると、彼は小皿を差し出してくる。
「私は、大して歳も変わらないし、先輩としてはあんまり頼りにならないかもしれないけど」
 ラーメンのスープに、白髪ねぎを沈める。
「味方になりたいとは思ってるから、安心していいよ」
 言葉がすんなりと、口をついて出てしまった。こういう感覚を、絆された、というのだろうか。
 松田くんのことはまだそれほど知らない。けれど彼が、頑張りたいとき、落ち込んだときに一人で来るという店に連れてきてもらえたことが、素直に嬉しい。私もこの店のような相手になりたいと思ってしまった。松田くんの支えに。
「……ありがとうございます。何があったってわけじゃないんですけど、僕、本当に上手くいってるのかなって、ここ二三日ちょっとぐるぐるしちゃって」
「うん」
「すみません、弱気ですよね。でも、柏木先輩に声かけてみてよかった」
 つくづく、人たらしだと思わないでもないが。そう言われると悪い気はしない。
 一皿の餃子を分け合って、私たちはラーメンが少し伸びるのを見逃しながら、ゆっくりと話をした。

「結構、遅くなっちゃいましたね」
 外に出ると、空はすっかり暗くなって星が並んでいた。秋の夜の涼しい風が歩道を吹き抜ける。お腹がいっぱいだと、寒さはそれほど感じない。
「先輩、家どこでしたっけ?」
「会社のすぐ近く」
「送りますよ」
「え、平気よ。だって松田くん、この近くでしょ? わざわざ悪いもの」
 遅いと言ったって、まだ八時前だ。子供でもないんだし、と思って断ったが、松田くんはそれならタクシーを呼ぶと言って譲らなかった。すでに財布と携帯を出しかけている手を見て、慌てて止める。車代をもらって帰るような、そんな距離ではない。
 結局、送ってもらうことで話がついてしまった。こういうとき、口の達者さというのは顕著に差を現す。
「悪いわね」
「いいえ、全然」
 ニコニコと隣を歩いている松田くんは、鞄を持った両手で夜空に伸びをした。まだ息は白くないですね、なんて、オフィスにいては一生交わすことのなかっただろう会話を交わす。風を孕んだ彼の背広からは、ハーブ系か何かの清涼感のある香りがした。脳裏にふと、別の声が甦ってくる。
『そいつちょっと臭うよ。気をつけたほうがいいんじゃない』
 思い返して、何よ、と少しむっとした。爽やかな香りではないか。到底、汚点になるような匂いだとは思わないが。私も香水なんてやめて、大人しくこういうものにすればいいのだろうか。おすすめがないか訊いてみようか。消臭剤なに使ってる? なんて、いきなり突っ込むのも失礼な誤解を招きそうで躊躇ってしまうが。
 迷いながら歩いていると、遠くにオフィスの入っているビルが見えてきた。
「ここでいいわ、もう明るいし」
「え、だめですよ。ちゃんと送るって言いましたよね、僕」
「だってここからだったら、本当、十分もかからないし」
「それなら尚更です。送っていったって大した距離じゃありません」
 ね、と首を傾げる。仕草は可愛らしいが、松田くんは引かなかった。私はといえば、ここまで来ておいて何だが――知り合って十日かそこらの人に、自宅の前まで送られるのは若干の抵抗があった。大通りまで出てきたら別れようと思っていたのだ。
 でも、それを松田くんに上手く伝えるのは難しい。唸る私に、松田くんはちょっと困った顔になって、手を伸ばした。
「すみません、しつこくするつもりはなかったんですけど。この道の先って、公園があったりして暗いじゃないですか。だから、つい……」
「――叶恵?」
 私の肩に、触れようとした。その手が、ぴくっと止まる。
 顔を上げると、松田くんの目は私ではなく、私の後ろを見ていた。私も振り返って、そうして思わず「あ」と口にする。
「奇遇だね? こんなところで会うなんて、珍しいじゃん」
 その台詞は、そっくりそのまま返したい。公園の外で見かけたことなどほとんどない、真っ黒な男が、片手をひらひらと楽しげに振って立っていた。
「先輩のお知り合いですか?」
「え? あ……っと」
 心なしか声を潜めて、松田くんが訊く。私はと言えば、すぐにうんと言えばいいのに、妙に躊躇ってしまった。
 夜の街明かりを背にして浮かび上がる、細くゆらりとした、黒ずくめの男。ぼんやりと滲む周囲の暗さが一層、そのどれよりも深い黒を浮き立たせ、彼はそこに唇だけをきうと笑ませて立っている。

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