その掌の舞台裏T

 銀杏の葉がぺったりと、ヒールにくっついた。
 多分、最初からそういう運勢の日だったのだと思う。どうして私の人生には、こういう小さな厄日が溢れている気がするのだろう。銀杏の葉はよく滑るのだ。傾く視界、宙を掻く手。交差点に放り出されたハンドバッグを、自転車が慌ただしく避けて振り返る。
 見なくていいのよ、と心の中で叫んだ。だって、絶対いま、人に見せられた顔ではないから。
「――うぶっ」
 ぎりぎり、車道には飛び出さずに済むかな、なんて思いながら。諦めて目を閉じ、転んだはずの鼻先が温かいものに埋まった。柔らかくはない、けれど覚悟したアスファルトの硬さとは比にもならない。
 なんだこれ、と思って目を開けると、緑の縞模様が飛び込んできた。
「大丈夫ですか?」
 頭の上から降ってきた声に、顔を上げる。ばちりと、かなりの至近距離で目が合ったのは若い青年だった。緑の縞模様は彼のネクタイだったのだ。どうやら彼が抱きとめてくれたらしい。
「す、すみません。ありがとうございます」
「いえいえ。はい、どーぞ」
 慌てふためく私に微笑んで、青年は飛んでいったハンドバッグを拾い、呆然としている私の腕にかけた。それからちょっと親しみの滲んだ声で、気さくに囁く。
「秋は落ち葉が多いですからね。それじゃ、僕はちょっと急ぎますけど、あなたは気をつけて」
 駆けていく青年の背中を見送って、私が我に返ったのは、信号が赤に変わって車が行き来を始めてからだった。対岸に取り残されたまま、バッグを抱えて深く息を吸う。
(……げ、月9の主演か何かかと思った)
 人生でおよそ話しかけることもないくらい、整った顔の持ち主だった。少女漫画の学園ものに出てくる人気者のような、キラキラのオーラを纏った人だった。
 抱きとめてくれた腕の温かさを思い出し、赤面する頬を髪で隠しながら、信号が変わるのを待つ。あんな人に助けてもらえるなんて、たまにはこの無駄に頻発する不運も役に立つではないか。

「おはようございます」
「おはようございます、柏木さん」
 白と灰色で統一された室内に、今日も二十人近くが集まっている。オフィスに着いて一番、年上の後輩と挨拶をしながら、私は自分のデスクに向かってバッグを置いた。
「連絡事項があります、集まって」
 それをきっかけにしたように、部長がぱんぱんと手を叩く。
 どうやら今朝は、私が最後だったようだ。そんなに遅く出たつもりはなかったのだが、行き道の出来事についぼうっとして思い返しながら歩いてしまったせいだろう。ロッカールームで着替え終わって時計を見たとき、始業の一分前で二度見した。
「皆さんいるね? 本日から、新人くんが入ることになりました」
 部長の言葉に、おおっと小さな歓声が上がった。輪の後ろのほうに滑り込んだ私も、思いがけない連絡におお、と背筋を伸ばす。どうせまたボーリング大会のお知らせだと思った。ただでさえ小さなオフィスだ。新人が入ること自体が珍しい。
「松田くん、入って」
「はい」
 それもこんな、中途半端な時期に。一体どんな人だろう、と少なからず興味はあって、全員が首をちょっと伸ばしていた。私も彼らに漏れず、パーテーションの奥から聞こえた若い声に、彼が出てくるのを待った。
 ゆっくりとした足取りで、少し細身の、今時っぽい青年が出てくる。
 え、と思わず声が漏れそうになるのを、ぐっと呑みこんだ。
「松田優です。お世話になります」
 下げた頭を上げ、一同に向けて人の良さそうな笑顔を見せた青年――見間違うはずもなく、今朝の青年だった。まさかそんな嘘みたいな、と思う気持ちと、でもこんな人そうそういないしな、という気持ちが交互に襲ってくる。
 青年は端からにこにこと皆を見渡して、私に気づいた。途端、彼のほうが「あっ」と言った。
「どうした、松田くん」
「今朝の人ですよね? 交差点のところで話した……」
「は、はい」
「なんだ、知り合いか。偶然かい?」
 そうなんですたまたま、と松田くんは部長に頷いている。やはり彼だったのだ、と思うと同時に、「転んだところを助けました」とは言わなかった彼に感謝した。荷物を拾った、とあながち嘘でもない状況説明に、部長もざわついていた周囲も納得している。
 松田くんは私を見て、嬉しそうに笑った。
「そういうことなら、丁度いいな。柏木さん、君が教えてやってくれ」
「私ですか?」
「ゆくゆくは営業を目指しているんだが、しばらくは事務をやってもらう話になっていてね。君なら営業事務だし、元々任せようかと思っていたんだ。頼んだよ」
「は、はあ……」
 松田くんに向いていた周りの視線が再び、私に向く。はいともいいえとも返事をする前に部長は皆を解散させ、デスクへ向かう前に、それぞれ松田くんと自己紹介を交わしていった。
「柏木先輩」
 ひょいと、覗き込むように声をかけられて顔を上げる。
「今朝は慌ただしく別れちゃってすみませんでした。まさかこんな形で会社の人と知り合えると思ってなかったので、正直嬉しいし、ちょっとホッとしてます。これからよろしくお願いしますね!」
 キラキラのオーラ。屈託のない笑顔。この灰色のオフィスのミラーボール、いやそれは例えが悪い、一番星だなと思ってから、私は彼に手を差し出した。
「こちらこそ、また会えるなんて思わなかった。よろしくね、松田くん」
 はいともいいえとも言わなかったのは、驚きすぎて何も言えなかっただけだ。断る理由なんて一つもない、こんな出会い。躊躇いなく握り返してくれる手は、温かくてちょっと大きくて、いかにも男の子という綺麗な手だった。たったのそれだけで胸をときめかせたりなんてしてしまえるのだから、私もまだまだ、十分に女の子というものだ。
「デスク……は、私の隣でいい? 散らかってるけど、ちょうど空いてるから片づけるわ」
「はい、ぜひ。僕も片づけますね」
 女性社員のちらちらという視線を感じながら、デスクへ向かって歩く間、一足ごとに心で叫んでいた。
 神様、今まで信じていなくてごめんなさいね。私の幸運は、きっとこのために取ってあったのね、と。

 一番星もとい松田くんは、一週間と経たずにずいぶんオフィスに馴染んだ。
「松くん! ちょっと」
「はい、何か」
「クッキーあげるよ、さっきコンビニで当たったの」
 わあ、ありがとうございます、と明るい声が隣から響く。離れたデスクから投げ渡されたクッキーの小さな箱を、彼は何でもないことのように片手でキャッチしてみせる。
 クッキーを投げた女性社員は楽しげに笑って、周りの人たちも大きな犬のような松田くんを見て、何となく顔を綻ばせた。当の本人はもうさっそく、もらった箱を開けにかかっている。
(人たらし、って古い言い方かなあ)
 でもこういう人をいうんだろうな、と。隣のデスクで黙々と数字を打ちこみながら、私は思わずにいられない。松くん、とニックネームのついた彼は、すっかり時の人だ。仕事でもそれ以外でも、松くん、と彼を呼ぶ声は引っ切り無しである。
 チャコールグレーのスーツに、ちょっと気の利いたネクタイ。安っぽいけれど飛行機の秒針が可愛い時計と、事務職にしては明るい茶髪。
 おじさんばかりのオフィスには若い男性というだけでも目を惹くのに、彼の見た目と、垣間見えるやんちゃな雰囲気は女性たちの心をあっという間に掴んだ。分かってやっているのか違うのか、書類仕事をするときはたまに眼鏡をかける。それがまた冗談みたいによく似合う。何の変哲もない茶色いフレームが、松田くんの顔にかかっているだけで無敵のアイテムだ。
 ここまでならただの女たらしだろう。彼のすごいところは、そんなふうでありながら仕事ができる、というところだった。
 松田くんは多分、有望な新人だと思う。多分、としか言えないのは、本人があまりできるように振る舞わないからだ。彼はいつも元気にニコニコしていて、見た目にはあまり仕事が速そうなタイプに見えない。けれど気づくと、やるべきことをそつなく終わらせてニコニコしている。私も教えていて、何度かその実力に驚かされた。
 男の人というのは、結局のところ、仕事のできる男が好きなのだ。いがみ合っても妬んでも、できない人よりはできる人を傍に置きたがる。松田くんはそういう意味でも、男から見ても部下に欲しい男だった。いずれ事務職を離れたら自分のもとに置きたいと、営業の男性陣は水面下で様子を探っている。
「はい、柏木先輩」
「へ?」
「おすそ分けですよー」
 もっとも、本人はそんなこと知っているのかいないのか。上機嫌に差し出された、個包装を綺麗に半分だけ剥いたクッキーを前に、私は思わず瞬きをしてしまった。ちらとパソコンの隙間から、離れたデスクの女性を見やる。幸いにも下を向いて、気づいていない。
「あの、これはちょっと」
「甘いもの、好きでしたよね?」
「好きだけど、もらえないと思う。松田くんへのプレゼントでしょうから……」
 小声になって歯切れ悪く断った私の視線を追い、松田くんはああと納得したような顔になった。けれどほっとしたのも束の間。
「じゃあ、内緒ですよ」
 えい、と唇の間にクッキーを突っ込まれて、とっさに咥えてしまった。松田くんはそんな私に満足げな笑顔を向けて、自分も一つ、口の中へ放り込む。
「先輩、集中するとお茶も飲まないですよね。珈琲より紅茶派でしたっけ。淹れてきます」
 ありがとう、と言ったらいいのか、こら、と言ったらいいのか。混乱したままもぐもぐやっているうちに、彼は立ち上がって、紅茶を淹れに行ってしまった。年下なのに気が利いて偉いな、と思いながら、ついていくのもおかしいので、パソコンを見つめて甘いクッキーを飲み込む。
 彼は、私の二つ下だ。私はこの夏で二十四になったが、同じ歳のときどころか、今だって松田くんほど人に気を回していない。先輩と呼ばれるのもなんだか落ち着かなくて、普通にただ名前でいいと言ったのだが、彼はその辺りに関しては生真面目だ。相変わらず、私を先輩と呼びたがる。
(……慣れないなあ)
 後輩がいないわけではないのだが、高校卒業後、進学せずここに就職した私には、年上の後輩ばかりができていた。年上に先輩と呼ばせるのも複雑なので、大体名前で呼んでもらっている。年下の後輩は、松田くんが初めてだ。無条件で慕ってくる懐っこさが、私などに先輩という呼称を何の違和感もなく使ってしまう屈託のなさが、心地よくもありくすぐったくもあり。
 給湯室からカップを二つ持って出てきた彼を見て、散らばった書類をファイルの上に片づけた。

「や、叶恵。そろそろ通る頃だと思ってたよ」
 その日の夕方。定時退社できっちりオフィスを出て、上機嫌に公園を突っ切ろうとしていた私は、真横からかけられた声にぎしりと固まった。
 振り返れば、ベンチに脚を組んだ見覚えのある人が、どこぞの王子よろしく優雅に手を振っている。ただし、その手の先には伸びた真っ黒な爪が覗いているし、恰好は相変わらず影よりも黒い。黒づくめだ。
 秋の早い日暮れに紛れて、すっかり見えなかった。まったくどうしてこの人は、このご時世にこんな恰好でうろうろして、不審者として通報されずに済んでいるのだろう。
「ひ、久しぶりね?」
「会えて嬉しい?」
「全然」
 引き攣った愛想笑いを浮かべたまま即答すると、彼は冷たいなァと言ってけらけら笑った。全然、はちょっと言い過ぎだった――春先までの私なら多分そう思っただろう。けれど今は本心だ。正直に言って、会いたくなかった。
「エイプリルフールに会って以来じゃない……、どこか別の場所に行ったのかと思ってた」
 エイプリルフール、と。明確な日付を口にした声が、かすかに震える。彼はそれに気づいたのか否か、特に答えは寄越さず、唇を上げて笑った。
 もう半年も前になるのか。この公園で、嘘吐きの日の、嘘をついていい時間が終わるちょうどそのときに。好きだ、と言った漆黒の目は、今日も髪に隠れている。
 よもやあれからこんなにも時間が経って、顔を合わせようとは。

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