白雨の館編X

 真昼の光の明るさは、時の止まった感覚と似ている。
 静かで、破りがたい沈黙のような。あるいは侵しがたい聖域のような。温かさを知っていても、触れることを躊躇う静謐がそこにある。煙草の煙ひとすじ、立ち入ればたちまちかき消すような、厳かな静けさが。
 そう思うのは、自分が昼を遠ざけて、かれこれ十年は経つせいだろうか。
(……春の気温、ねェ)
 昼食のあと、一人遅くにリビングを出て、長い廊下をゆっくりと歩きながら、キーツは前方に横たわる光の眩しさに目を細めた。廊下に窓はない。光をこぼしているのは、開け放たれた一枚のドアである。
 その奥から、聞き慣れた声が漏れ聞こえてくる。
「――で、――して……こうですか?」
「そうそう、で、――……」
 問いかけに、答えた声はこの邸の弟子か。次いでお嬢様、と二羽の鶫のように世話を焼く煌の声がして、二言三言かけ交わし、わっと笑い声が上がった。
 その中に、かすかながらイズの声が交じっているのを聞き取り、珍しいものだと思わず笑みを浮かべる。昨夜の食事の席で言っていた通り、今日は四人で集まって、薬を作ったり料理を作ったりしているらしい。
 お暇でしたら、と誘いはかけられたが、遊びは若いのだけでやれと形式的に断った。もっとも、声をかけてきたのも、最初から断ると分かった上での礼節のようなものだろう。相手の年齢に関わらず、物怖じせず自分なりの礼儀を踏まえようとする、この邸の弟子の青年を思い出し、キーツは緩やかに進めていた足を反対へ向けた。
 音を立てず、その場を離れ階段を上がる。今、この家にいる人間の、六人のうち四人が一つの部屋に集まっている。
 好機だった。誰にも悟られずに動くには、どれだけ広くとも、一つの邸に六人という人間は多すぎる。機会を掴みあぐねていたが、あのウィータという弟子には感謝しなくてはなるまい。あれのおかげで、人目を気にせずに済む。
 真昼の静寂に、会いに行く。
 キーツは二階の廊下をまっすぐに歩き、貸し与えられた客室とは反対の、最奥に立つ一枚のドアの前で足を止めると、三度のノックをした。
 中から、わずかな間のあとに「入れ」と声がかかる。
「よう、悪いな。仕事中に」
「……わざわざ訪ねてくるとは、何の用だ?」
 取りつくしまもなく――というほどのあしらいはしないのが、この男の、見た目の無機質さと異なる一番の印象ではないだろうか、とキーツは思った。かといって、歓迎されているわけでもないことは分かる。
 アンクはペンを手に持ったまま、手にしていた書類を軽くどけると、ぴんと張っていた姿勢をわずかに崩した。どうやら少し、時間を要する用件だと察したらしい。
「本当の仕事部屋でな。君に貸す椅子もないんだが、場所を変えるか?」
「いや、いい。用のない限り、近づく奴のいない部屋がいいんだ」
「ならばここで聞こう。どうした」
 ドアのほうにちらりと視線を向け、ひとけのないことを確かめたアンクが、話を促す。内鍵が静かに回る音を聞き、キーツはポケットから、小さな瓶を二つ取り出した。
「頼みがある」
 アンクが訝しげに、単刀直入に告げたキーツを見上げる。
 一つの瓶は透明で、中には何も見えない。もう一つは焦げた金属のような、破片が入っていた。
「それは、鱗だ」
「鱗?」
「アストラグスに生息する、魔物の鱗。それと、そっちの瓶は」
 すいと、何も入っていないように見える瓶を指す。
「イズの張った結界の、断片が入ってる」
「君の弟子の……?」
「照合してくれ。どの程度の適合率か、教えてほしい」
 アンクは初め、何を言われたのか分からなかったように、二つの瓶を持って黙り込んでいた。だが、やがてその目が困惑に見開かれる。レースのシャツに覆われた首が、愕然としたように、ゆるゆると左右に動いた。
「君は……、何を言っている。あれは、君の弟子なんだろう。適合率も何も、人間の魔力と魔物の魔力は別物だ。照合したところで」
「だったら、あんたはどうして今、焦った?」
「……それは」
「人間の魔力と魔物の魔力は、照合しない。それくらいのことは知ってるさ」
 だが、とキーツは机に置かれた無色透明な瓶を一撫でして、眉間に小さな皺を刻んだ。
「重々承知で頼む。アストラグスじゃ誰にも頼めねえ。ここにいる間に、最初からあんたに頼むつもりで来た」
「……仕事ではないのか。君たちのいう、本部からの」
「これは違う。ごく個人的な、俺の確かめておきたいことだ」
「……」
「できるだろう、あんただったら。自分でできりゃ楽だったんだが、何せ、ものを調べるような細かい魔法はからっきしでな。……どうか、頼まれてくれねェか」
 ニィ、と癖のように唇の端を上げてみせるが、目の奥は笑っていない。沈黙に、時計の音が降り注ぐ。薄いカーテンを引いた窓から入り込む光に、二つの瓶は無垢な影を落としている。
 アンクはキーツの灰色に燻る目をじっと見つめ、長い逡巡の後に、ため息をついた。
「……分かった。少し集中するから、外に誰か来ないよう気を張っておけ」
「いいのか」
「何を驚いている。頼んできたのは君だろう」
 むっとしたように顔を上げたアンクに、ああいや、そうなんだが、とまだ少し呆気に取られた調子のまま、キーツは言葉を濁した。髪をかき上げ、ドアの前に立ち、薄紙の上に鱗を置いたアンクを眺めて声を潜める。
「あんたは、俺が嫌いだろう」
「……」
「大多数のことはどうでもいいのかもしれねえが、その枠からも外れて、嫌いだ。違うか?」
 かすかな、魔物の魔力が部屋に満ちた。それが漏れ出て、一階まで行くことはおそらくないだろうと知りながら、アンクは片手をドアに翳し、見えない鍵をかけるように動かす。
 そうしてキーツと視線を合わせ、億劫そうに、首を傾げた。
「君は、いつの話をしている」
「は?」
「印象は変わるものだ。君を見る目なら、昨日からとっくに変わっている」
「昨日……?」
「何も、君の印象を変えるのは君だけではないということだ。あの子にとっては――どうやら君は、師と呼ぶに相応しい人間のようだからな」
 ぱきん、と透明な瓶の蓋が開いた。

 港に着いた船の前で、乗客が次々と切符を手に、海風にコートの襟を立てながら乗り込んでいく。チェックを済ませて戻ってきたボストンバッグをそれぞれの手に、私たちは桟橋の入り口へ立って、後ろを振り返った。
「本当に、何から何までありがとうございました」
 お礼を口にすると、マフラーに顔を埋めたアンクさんとダブルボタンのコートを着込んだウィータさんは、それぞれ小さく微笑み、いいんだってと笑い。寒さに白い息を吐きながら、手袋を外した。
「あの二人にも礼を言ってくれ」
「ああ」
「世話になったな、色々と」
 師匠とアンクさんが、短い挨拶と共に握手を交わす。その手が私にも差し出されたので、慌てて手袋を取った。またな、とだけアンクさんは言う。少し驚いて顔を上げれば、しなやかな、白い手が私の手を軽く握って、離れた。
「またね、イズちゃん。楽しかったよ」
 入れ替わるように、ウィータさんがしゃがんで私の手を取る。また小さい子扱い、と思ったが、その顔が純粋に優しく笑っているので、仕方ない、これがこの人の良いところなのだろうなと、私も大人しく頷いた。
「いただいた種、育ててみますね」
「そうだね、ちゃんと育つといいけど……分からないことがあったら、いつでも手紙ちょうだい」
「はい」
 両手で、包むような温かい握手。ウィータさんはそれから師匠とも二言三言の挨拶をして、笑って握手をした。
「行くか」
 乗客が一通り乗り込んだのを見て、師匠が告げる。私も頷いて、二人に今一度お礼を言い、背中を向けた。
 復旧して最初の汽車で帰る私たちを、アンクさんとウィータさんはここまで見送りにきてくれたのだ。ドーさんとルーさんは留守をまもるため、お邸の入り口まで。道中も長いでしょうからと、焼き菓子をたくさん持たせてくれた。苺味も入ってますから、とドーさんは最後まで、何かを誤解している。
 プレレフアに見送られて抜けた雪の森は、神孵りの春に馴染んだ身には凍えるような寒さだった。冬だったんですね、冬だったんだよ、なんて当たり前のことを話しながら歩く私とウィータさんの前を、アンクさんが木々の様子を眺めながら歩き、師匠が煙草を手に、時々会話に加わった。
(……楽しかったな)
 先刻はなんとなく、ウィータさんに言われるままに頷いただけの言葉を、今度ははっきり、自分の胸の内に自覚する。楽しかった。汽車が出ないと聞いたときはどうなることかと思ったけれど、過ぎてみれば柔らかに後を引く、そんな三日間だった。
 甲板に上がり、桟橋のほうを見てみる。二人が気づいて、ウィータさんが大きく手を振る中、蒸気船は碇を上げた。
 煙をあげて遠ざかっていく船を、港で多くの人が見送っている。その中に立つ二人に向けて、私もしばらく手を振っていた。ふと振り返ると、そんな私を師匠がじっと見下ろしている。
 珍しいところを見られたような、何とも言えない気恥ずかしさから、私は何かを思い返すようにわざとらしく嘆息してみせた。
「なんだよ」
「いいえー? ただ、アンクさん、きちっとした人だったなあと思って。同い年くらいの魔法使いなのに、師匠と違って格好もお部屋も綺麗でしたしー」
 小さくなった二人の姿は、水面に光る太陽の鱗に弾かれて、もう見えない。帽子をとって、まっすぐにこちらを見送っていたアンクさんの姿を思い出して言うと、師匠は咥えていた煙草を落としかけて、呆れたように私を見た。
「馬鹿かお前、あれが同い年なわけがねえだろ」
「え?」
「優に二百か三百は上だぞ、ありゃ。……下手すりゃ千……、いや、それはさすがにねえか……?」
 ぼそりと、後半はほとんど独り言のように呟かれて聞こえなかったが、そんなことは関係ない。二百か三百。桁が一つずれていて、すぐには理解ができなかったが、分かった瞬間、私はええっと裏返りそうな声を上げていた。
「なん、えっ、え? 二百? 三百?」
「稀にいるんだよ。俺たちみてェな、人間の体に魔力が流れてるのとはわけが違う、根っからの魔法使いってやつが」
 呆然として、ろくな言葉が出てこないままふるふると首を横に振る。
 気づかなかったのか、と怖いもの知らずを見る顔で言われて、何も言えないまま、脛を目がけてボストンバッグを振った。いい音がした。
「大昔の人間が書き残した神様なんてのは、大抵ああいう奴のことだ。人里離れたところで暮らしてて、力の桁も違うが、使い方も違う。魔法使いとはいっても、アストラグスでいうところの魔法使いとは全く別のもんだ。人間の生活に深く干渉はしないが、直接的な協力も滅多にしない」
「はあ……」
「あの弟子はそういうわけでもなさそうだったけどな。あれは、どっちかっつうと人間寄りだろ」
 脛をさすりつつ、師匠が一応、珍しく真面目な説明をしてよこした。ありがたいが今さらだ。もうとっくに、アンクさんに師匠と同い年くらいと仮定した態度を山ほど取ってしまったではないか。無論、多少は客人として大人しくしたが。
 蒸気船は、私の事情など知らずにどんどん港を離れていく。遅すぎた事実にやり場のない呻き声を上げた私を見て、何がおかしいのか、師匠はふと笑った。
「ま、いいじゃねえか」
「何がいいんですか、もー……」
「何者でも一番重要なのは、敵じゃねえってことだ。それさえ知ってりゃ、素性がどうだなんてのは二の次でいいんだよ」
「また、そうやって適当に」
「なあ、イズ」
 海風が煙草の煙を運んでくる。煽られ、飛ばされそうになった帽子を片手で掴んで、師匠は顔を上げた私にそれをばさりと被せた。
「なんっ」
「魔法使い、辞めんなよ」
「――え?」
 目深に引っ張られた帽子の下から見えるのは、無精髭を湛えて笑った口許だけ。ようやく手が離されたとき、私を見下ろす目はいつもと変わらない、からかいを込めたもので、けれどその唇が聞かせた言葉は、いつもの調子とはどこか違った気がした。
「……辞めませんよ、別に」
 何となく、返事をしておかなくてはならないように思えて、正直に答える。
 そうか、と師匠は笑った。そうして唐突に、私の脇腹を突いた。
「ぎゃっ、なんですかいきなり!」
「仕返しだ、仕返し」
「はあー、ちょっと何のことか思い出せないですね。てい!」
「バーカ、お前の狙いは見え見えなんだよ」
 仕返しの仕返しに、臍を狙った手を掴まれる。帽子が飛んでいきそうになって、結局二人、掴み合っていたことなんて一瞬で忘れて、慌てて手を伸ばした。
 甲板に、船内販売のワゴンを押した乗務員が回ってくる。人々がぱらぱらと集まって、温かい珈琲や紅茶を買って思い思いに散らばっていく。私と師匠も連れ立っていって、珈琲とレモネードを手に、風のないところを求めて階段を下りた。
 琥珀色の水面から漂う湯気が、神孵りの丘の雪を思い出させる。
 マドレーヌを食べよう、苺味の。私はそう決めて、珈琲を啜っている師匠の手にも、可愛いピンクの焼き菓子を押しつけた。



〈フラインフェルテ・白雨の館編/終〉

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