白雨の館編W
「悪くはない……、んだと、思います」
「そうなのか」
「まあ、師匠はあんなですし。面倒くさいときも、厄介なときも、頭に来ることも色々あるのは事実なんですけど」
「……」
「……うーん」
改めて訊かれると、上手く答えられないものだ。色々と思うところはある。けれどそれでも、そんな毎日が当たり前で、深く考えたことがないということは、それほど思い悩むこともなく過ごしているということで。
「……あれはあれなりに、国家の魔法使いでもあり、師でもあるということか」
「え?」
「いや、納得がいった。君が悪くないというなら、そうなんだろう」
何と言い表したらいいものか、うんうん唸っているうちに、アンクさんは何やら一人で答えを見つけてしまったらしい。私の頭に手のひらをのせて、ぽんぽん、と柔らかに撫でた。驚いて顔を上げて、さらに驚く。……笑った。
「君の師が本当に、師としてやっているのかどうか、少し疑問だった。杞憂ならいい」
「ああ……よく言われます。あの人、師匠っていう雰囲気じゃないですから」
つられて私が笑うころには、アンクさんはもう元の静かな顔に戻っていたけれど、一瞬の表情でも張り詰めていた空気はずいぶん緩んだ。私は少し、この人を勘繰りすぎていたかもしれない。だろうな、とあっさり切り返されたことにも、どこか気が抜けた。
「今朝のことも、ほんとすみません」
「今朝?」
「わざわざ起こしにいっていただいて……あのぉ、大丈夫でしたか? 何か言われたりとか、蹴っ飛ばされたりとかしてませんか」
師匠の話が出たついでに、朝から言いたかったことを言っておく。
まさか本当にアンクさんが師匠を起こせるとは思ってもみなかったので、朝食の席に師匠が降りてきたのをみたときは、心臓が飛び上がるかと思った。多分、何を食べているのかも分かっていないくらい、眠気で上の空ではあったが、師匠は一応朝食を食べた。奇跡的な光景だ。
代償に、部屋でどんな攻防があったのかと想像すると震えてしまう。師匠の代わりにというのは腹立たしいが、ことによっては全力の謝罪も辞さない構えだ。
だが、決意を胸に訊いた私の顔を見るなり、アンクさんはああと軽く頷いて言った。
「確かに、寝起きの悪さは酷いものだったが、君が言うほどではなかったぞ。起き上がろうとしないだけで、部屋を開けた時点で目は覚ましていた」
「へ……?」
「ルージュが声をかけたから、それで起きていたんだろう。結界を張って、ルージュを追い出していた。穴だらけの結界だったがな」
そんな馬鹿な、と私は思い切り、首を横に振る。結界のことではない。師匠の結界が使い物にならないのはいつものことだ。というか、人の家で何をしているのか。
「声をかけただけで、起きる……? あの師匠が……? 一体、どんな声のかけ方をしたら、そんなことができるんですか」
呆然と訊ねる私に、アンクさんは瞬きをした。
「至って普通にノックをして、呼んだだけだそうだ。君がいつも起こすだけで苦労しているというなら、気配の問題だろう」
「気配?」
「慣れた気配のあるところでは、眠りが深くなる人間というのは案外いるそうだからな。君は三年も一緒に暮らしているんだろう? 家族のようなものだ」
当たり前のように言われて、目から鱗の気持ちになった。
家族。とうに縁のないものになって、忘れかけていたような言葉だ。でも、そうなのだろうか。言われてみれば師匠と私の状況はそれに近いような、果てしなく遠いような、不思議なものに感じる。
血縁者ではないが、私は母の顔より父の声より、師匠の顔を、師匠の声を覚えている。傍にいた月日だって、もうすぐ師匠のほうが長くなる。
家族ではないが、家族以上に近しい存在であることに違いはない。そしてそれは多分、師匠にとっても同じことだ。
「アンクさんって、ご家族は」
「今は、ウィータがいる」
返ってきた答えは、半ば予想通りのものである気もした。この人もあまり、家族の匂いがしない。けれど不思議と、小さな灯火のような、一杯のスープのような、孤独ではない何かを抱えている人だ。
「今はウィータだが、以前は別の弟子がいた。気の強い少女で、君と髪の色が似ている」
「その人は、今は?」
「独り立ちをして、別の町にいる。むこうで家族も持ったようだし、もう一人前だ」
その何かを、多分、愛情と呼ぶのだろうと。分からないわけではなかったが、私はまだ、自分の中に同じ灯火が光っているのかどうか、自信がなかった。家族も、恋人も、友人も、正直なところよく分からない。今までの人生に縁がなさすぎて、自分がいつかそういうものを手にすることを想像できなかった。
師匠とのこともそうだ。家族と言われればそれも間違っていないのかもしれないが、家族をよく知らない私には、そういう特別な親しみをこめた枠に、誰かを招き入れることがひどく難しく思える。
(この人は、いつそれを乗り越えたんだろう)
かつての弟子だという少女の話を聞きながら、私はぼんやりと、そんなことを思った。私にもいつか自然と、アンクさんのように、誰かを家族と思う日が訪れたりするのだろうか。今はまだ、うまく考えることができない。
夕食の用意が始まるころ、アンクさんと邸の中へ戻って、お風呂を借りたところでまたウィータさんと行き合った。どうやら彼はこの時間、裏庭で作業を終えて戻ってくるところらしい。タオルを被った私の姿を見つけるなり、ちゃんと乾かさないと風邪ひくよ、と言って給湯室に引っ張っていく。
「あったかい……」
「さっきまで火を使ってたから。ていうかイズちゃん、昨日も思ったけど、なんでそんなに髪濡れたまま出てくるの」
「すいません、ちょっと拭くのが苦手で」
あからさまに、何を言っているのか分からない、と言いたげな顔をされた。仕方ないことだ。誰にでも苦手は存在する。
孤児院にいたときから、どうにも髪を綺麗に拭くのが下手で、いつも足元に水滴を落として叱られていた。師匠と暮らすようになってからは、幸いにも師匠のほうが適当なおかげで誰からも指摘されることがなくなっていたが、今でも下手くそだ。
一生懸命拭くと絡むし、拭かないとくしゃくしゃになる。髪を伸ばさない理由の一つには、戦いの他にそれもある。
「タオル貸してみ」
「え?」
「なんか、濡れた子犬みたいでちょっと。そのままにしておくのも、気が引ける」
「え、いいです大丈夫です。っていうかそれ、憐れみ……」
「まあほら、いいから」
ぺたぺたとやる気なく髪をいじっていた手から、タオルが奪われた。わ、と慌てる私に構わず、ウィータさんは後ろに立って髪を拭いてくれる。
視界を覆う髪とタオルが忙しなくて、私は思わずされるがままに目を瞑った。水気がなくなって軽くなっていく髪と、シャンプーの匂い。
「昼間、師匠と会ったんだって?」
「あ、はい。庭で偶然……」
「ここの庭、広いよね。オレも外にいたんだけど、全然気づかなかった」
「何してたんですか?」
「ハーブの手入れ。裏庭にあるのは珍しいやつばっかりで、普通の、セージとかローズマリーとかは表で育ててるからさ。ドールーとオレと、三人で交互にみてんの」
「へえ……」
他愛無くも滑らかに、ウィータさんは薬草の話や二人の話をあれこれと続けた。髪を拭いてもらっていて頷けないせいで、私も自然と返事をし、いつもより口数が多くなった。
薬学の勉強をしていると言っていた彼は、アストラグスの回復魔法や植物にも興味があるようだ。それらのことが話題に上ると、途端に真剣になって身を乗り出す。
「アストラグスでは魔物が食べてしまうせいで、魔法植物はほとんど育たなくて。薬の原料になる植物は、ほとんど普通の植物ばかりです」
「え、それ効果低くない?」
「どうなんでしょう……、こっちではそれが普通なので」
傷薬も風邪薬も、魔法植物を使ったものなんて希少で、とても常用できる価格ではない。魔法植物自体の研究が、採取に危険を伴うせいで遅れているというのもある。アストラグスでは森に入るという行為は、魔物のテリトリーに入ることと同義だ。
ううん、としばらく何かを考えるように唸っていたウィータさんが、やがて口を開いた。
「家で、魔法植物を育てるのも危険なの? 集まってくる?」
「大量に育てるわけでなければ、そんなこともないと思いますけど……」
「だったらさ、種持って帰る? 育てれば、薬として使えるようになるよ」
思いがけない申し出に、思わずえっと後ろを振り返ってしまった。タオルを手にしたウィータさんに、おや、と瞬きをされてから我に返る。
「で、でも、貴重なものでしょうし」
「まあ、あんまり数はないからね。だから、分けられるのも葉や実じゃなくて、種になっちゃうんだけど」
「薬の作り方も、知らないですし」
「分かってるって。簡単なやつ、教えるよ」
「……で、でも。 ウィータさんだって、忙しいんじゃ――」
言いかけたところで、頭に勢いよくタオルが被せられた。何事かと息を呑んだ向こうで、ウィータさんが声を上げて笑った。
「なにするんですか」
「だってさ、イズちゃん。結構分かりやすいところあるんだと思って……」
見れば、堪えきれずといった様子で眉を下げて笑っている顔が目に入り、私は何とも言えず気恥ずかしくなって、タオルに顔を埋めた。分かっている。自覚はある。
さすがに、今の反応は分かりやすすぎた。
「だって、魔法植物の種なんて、むこうじゃ本当に貴重なので」
「だからあげるって。なんで今、我慢しようとしたの」
「……お礼になるものとか、何も持ってきてないので……」
「律儀だなあ。若いのに苦労しちゃって」
喜びが、素直に顔に出すぎた。きっと、お菓子を目の前にした子供のような顔をしたと思う。
あー、と恥ずかしさに唸っている私の頭をぽんぽん撫でて、ウィータさんは冗談めかした同情と共に笑った。本日二度目の感触。同い年でしょう、と払いのければ、あれぇバレた、と降参するみたいに両手を広げてみせる。
この人は、見ていたわけでもないのに師と同じことをするんだな、と思った。ウィータさんが私と同い年であることを聞いたのは、昼間、アンクさんと話したときだ。
「オレは、君たちがアストラグスで仕事をするところを、直接見たことはないけどさ」
ぽつりと、ウィータさんが口を開く。
「ここの魔法使いとは、ずいぶん立場が違うみたいだし。どうしたって、怪我とかするでしょ?」
「まあ……」
「いい薬を用意しておくに越したことはないよ。一番は、そんなもの必要ない暮らしができればいいんだけどね」
軽く言って、わずかに外された視線の中に、私は彼があの錬金施設の爆発を思い出しているのだろうと察した。あれはさすがに特別な事態で、とは言えないのが私たちの日常だ。たまたま、相手が人間だったから戦ったのが建物の中だっただけ。魔物を相手に、あの程度の戦いは珍しいものではない。
返す言葉を見つけられず曖昧に頷いた私に、ウィータさんは明るい声で「それにさ」と続けた。
「せっかく、明日もここにいるんだし。何もしないのも退屈じゃん」
「そういえば……明日のこととか、特に考えてませんでした」
「オレ、村の人に頼まれた傷薬作るんだよね。一緒にやろうよ、ドールーも呼んで」
頭の中に浮かんだ「明日」が、突然賑やかになる。日常を離れて、いつもと違う環境にいるせいだろうか。日頃なら遠慮したいはずの騒がしさに、躊躇うのと同じくらい、心惹かれた。
すっかり乾いた髪を梳かしながら、私は小さく頷いた。決まり、とウィータさんは笑う。
「あ、小さいお嬢様! ここにいらしたんですね」
がちゃりとドアが開き、耳に覚えのある呼び声が聞こえた。振り返れば今まさに、話に挙がった二人組が顔を揃えている。
「ドー、ルー。ちょうどいいところに」
「お疲れ様です、ウィータさん。夕食の時間ですけれど、何かご用でしょうか?」
「ああ、じゃあ歩きながら話すよ。あのさ、明日なんだけど――」
ルーさんがさりげなく、私のタオルを預かってくれた。時計を見れば、針はもうすぐ七時を指すところだ。規則的な食事の時間に感心しながら、私も立って、彼らに続いてリビングへ向かう。
廊下には一定の間隔ごとに絵や燭台が並べられ、壁紙は染みもなく、掃除が行き届いている。その片隅に一点、小さく残されたらくがきのような文字が、昼間に聞いたアンクさんの弟子だった女の子の名前であることに気づき、私は一人、こっそりと笑った。