白雨の館編V
「それでは、お部屋にご案内いたしますね」
楕円形の、応接間にあったものより一回り小さなテーブルに、並んだ食器のほとんどが空になって。最後に出された紅茶のカップも空になって少し経った頃、ドーさんとルーさんがやってきて私たちを促した。
見れば、時計の針はちょうど八時を回ろうとしている。夕食の始まったのが七時前だったから、結構ゆっくりしたものだ。
到着が夕方だったこともあって、私と師匠はあのお茶会の後、結局部屋には戻らず先にお風呂を貸してもらった。邸の中は外観よりもずいぶん広く、来客用の浴室だけで男女に分かれて二つある。どういう造りになっているのだろうと思ったが、これも魔法の一種だそうだ。
お風呂を上がって、先ほどの給湯室の近くで行き合ったウィータさんとそんな話をして。師匠も加わって、煙草を吸ってくるというのでついでに外を見に行ったりして、そうこうしている間にいつのまにか夕食の時間が迫っていた。
夕食は応接間ではなく、リビングになった。広いが比較的質素な、暖炉と写真立て、ソファが並ぶ部屋の中央に、長い楕円のテーブルが置かれている。白ワインと赤ワインで、気が合ったのかそういうわけではないのかいまいち読めないアンクさんと師匠が軽く乾杯するのを横目に、私とウィータさんにはジュースが出た。
人が作ってくれたごはんを食べるのなんて、店での食事以外では孤児院以来のことだ。オニオンクリームスープが特に気に入った私に、ここの食事はみんなドーとルーが作ってるんだよ、あとで教えてもらったらとウィータさんが勧めてくれた。
「こちらです」
そのドーさんとルーさんは、それぞれに私と師匠を連れて、リビングを出て階段を上っていく。
客室は二階の端にあるそうだ。滅多に使うこともないので、アンクさんが昨夜臨時で作った(二人はあっさりそう言ったが、気持ちで部屋が増やせる事実にはまだ少し追いつけない)らしい。二階は普段、ほぼすべてをアンクさんが使っているそうだ。反対の端は仕事部屋なので近づかないように、とだけ頼まれた。
「手前が小さいお嬢様のお部屋、奥がお師匠様のお部屋になります」
「ちいさ……!?」
ドーさんの言葉に、後ろで師匠が噎せた。
爪先を踏みつけようとしたのに、さっと避けられて地団駄を踏んだだけになる。師匠はそれがまた可笑しかったようで、くつくつと肩を揺らしてルーさんにたしなめられた。ドーさんはと言えば、何がおかしかったのかまったく分かっている様子はない。
(悪気がないって、ますます本音っぽくてなんか……)
開けますね、と笑顔でノブを握ったドーさんを見て、はあ、と頷く。確かに――ドーさんは私より、結構背が高い。というか、世間の大抵の人は私より大きい気がしないでもない。子供以外。
「どうぞ」
成長期はこれからだと思うし、とうつむいていると、ガチャッと音を立ててドアが開けられた。ふわ、と微かに空気を染める、柔らかな花の香り。つられるように顔を上げた私は、そこに用意された部屋を一目見て、息を呑んだ。
「いかがですか? とっても可愛くしてみたんですよ、女の子なので!」
息を、呑むというのか何というのか、上げそうになった悲鳴をなんとか飲みこんだといったほうが正しいかもしれない。
そこにあったのは一面のピンク――カーテンからベッドは勿論、机の上の花瓶から活けられた小ぶりの薔薇まで――ひたすら、淡いか明るいか上品か愛らしいかの違いで訴えかけてくる、溢れんばかりのピンクだった。
「お、女の子なので」
「はい、女の子なので」
鸚鵡のように訊き返しても、ドーさんは笑顔で頷く。師匠は後ろで崩れ落ちて、うずくまって笑っていた。
何の冗談かと思うほど、柄に合わない。ピンクなんて、手持ちの服にも小物にも一切ないような色なのだが、一体私はここで何を求められているのだろうか。まさか、試されているのだろうか。
「お気に召しませんでした……?」
「い、いえ。ちょっと、えっと」
まったく、そう思うのに。
「こ、こんな可愛い部屋に泊まったことないので、びっくりしちゃって。ありがとうございます」
客人として行儀よくしなくては、という謎の使命感と、人見知りが発動して、自分でも驚くほどいい笑顔が出た。ドーさんはぱあっと顔を輝かせている。師匠はさらにぐすぐすと笑っている。膝頭を蹴った。
「お師匠様はこちらですよ」
「ああ。じゃあな、イズ。ゆっくり寝て大きくなれよ」
ルーさんに連れられて行きながら、残された捨て台詞に返す言葉がすぐ出てこない。ここがいつもの家だったら絶対にただじゃおかない、と思いながら、私はドーさんに引っ張られるまま部屋へ入った。
ピンクだ。座ろうと思っても寝ようと思っても、何をするにもピンク。頭がおかしくなりそうな感覚に陥って天井を見上げたら、シャンデリアまでピンクゴールドで統一してあって、もう何でもよくなってきた。
「窓際の戸棚に、焼き菓子が少し入れてあります。お腹が空いたら召し上がってくださいね」
苺味ですから、とよく分からない念を押して、ドーさんは部屋を出ていった。
自分の着てきた服を見下ろすと、見慣れた色をしていてほっとする。部屋の片隅に、私の預けたボストンバッグが届けられていた。本でも読もう。ピンクのベッドに寝転がっていう台詞でもないが、少し、ピンク以外の色を目で追ってから寝たい。
「え、運休……ですか?」
翌朝、いつもの癖で六時ごろに目を覚ました私は、着替えてぼんやりしていたところをドーさんに呼ばれた。七時半から朝食の時間だそうだ。リビングに降りてくると、アンクさんとウィータさんはすでに席についていた。
そこで開口一番、おはように続けて聞かされた言葉に、唖然としてしまう。
「夜更けに雪が激しくなってな、線路が埋もれている。プレレフアを行かせて調べたところ、この村から港へ出る汽車は、明後日に復旧する予定だそうだ」
「そんな……」
「近くに貿易都市があるんだ。どうしても、そちらの復旧が優先される。この後、どこかへ行く予定はあるのか?」
アンクさんの言葉に、私はいえ、と首を横に振った。神孵りには雪が積もらないので、朝、部屋の外を見ても一晩でそんなに降ったとは思っていなかった。仕事はこの一件だけなので支障はないが、汽車が出ないとなると、帰る足もない。
「なら、復旧まで泊まっていくといい」
「え……、いいんですか?」
「村へ戻れば宿がないこともないが、それも遠いだろう。君たちの都合さえ問題なければ、こちらは構わない――と、言おうと思って呼んだのだが」
「はい?」
「君の師はどうしたんだ。一向に来る気配がないな」
あー、と私は思わず両手で顔を覆った。
こうなることは予想がついていた。ついていたから、朝、師匠の部屋の前でルーさんと会ったとき、私が起こすと言ったのだが。
大丈夫です、と笑顔で入っていってしまった。ルーさんは知らないのだ。師匠の寝起きの悪さを。寝つきも悪ければ寝起きも悪いのは相変わらずで、あの人の生活リズムはもはや、人の家だからなどという理由で調整できるものではない。
「すみません、今連れてくるので……」
「朝が弱いのか」
「ええまあ、ものすごく」
「そうか。いい、僕が呼んでこよう」
思い立ったように、アンクさんは席を立った。思わず「は」と間の抜けた返しが出そうになってしまって、慌てて飲みこむ。
「あの、私が行きますよ。だって本当に、ちょっとー……」
手におえないと思うので、と言いかけたのだが、アンクさんは首を横に振って、そのまま部屋を出ていってしまった。立ち尽くす私の背中を、とんとんと軽やかに叩く手がある。
「ウィータさん……、すみません、貴方の師匠を守れなくて……」
「落ち着いて、まだ何も起こってないでしょ。ていうか、大丈夫だって、多分」
「そうですかね……? 師匠をこの時間に起こすとか、あたし今でもちょっとできな……うう」
思い出したくないことを色々思い出してしまった。身震いした私を席に座らせて、まあまあ、とウィータさんは笑う。
「君の師匠も大概なのかもしれないけど、うちの師匠のこだわりも舐めちゃいけないよ」
「こだわり?」
うん、といたずらっぽく頷いて、彼は言った。
「団欒が人を作る。食事は一日三回、必ずお邸の全員で。大人も子供もお客さんも、関係なしの決まりなんだ」
その言葉から、間もなくして。戻ってきたアンクさんの後ろに欠伸をかみ殺す師匠の姿を見て、私は心臓が凍ったかと思うほど驚いたのだった。
私たちが神孵りにもう二日滞在すると決まると、ドーさんとルーさんはいたく喜んでくれた。二人には食事を作ってもらったり世話をしてもらったりと、滞在が延びれば面倒をかけることになるのが少し気がかりだったので、受け入れてもらえてほっとする。
特にルーさんには、師匠が手を焼かせていることを詫びたが、彼はきょとんとして思ったほど反応しなかった。今朝の、と言えばああと笑って、朝は大きな子供のようですねえなんて怖れのない発言をする。
ウィータさんの前に暮らしていたお嬢様を思い出しますよ、とも言っていた。彼女も中々に朝が弱くて、この家では寝坊が許されないので大変だったらしい。
旅の疲れが残っていたのか、午前は部屋でぼんやりと過ぎてしまい、昼食をまた皆でとってから、私は一人、庭へ出た。
いつもはようやく起きてきた師匠に任務の手紙を渡したり、昼食の片づけをしたり、崩れかけの本棚から本を探したりしている時間帯だ。誰かが生活の世話をしてくれるという状況に慣れなくて、つい時間を持て余してぼうっとしてしまう。師匠の部屋に行こうかとも思ったが、それも何となく癪なので、一人で散策でもしてみることにした。
邸の庭は広い。門が一応あるのだが、実質、この丘全体が敷地のようなものなのだろう。門柱の脇から木々の間を抜けて、外へ行くこともできた。雪はやんでいる。こうしていると、まるで春のような錯覚に陥る。
(……あ)
少し楽しくなって、くるくると幹の間を潜り抜けて奥へ行ったところで、人影に足を止めた。
日溜りに置かれた小さなテーブルと、細脚のベンチ。紺のジャケットを背もたれにかけてゆったりと腰かけたアンクさんが、静かに本を読んでいた。風の音もない日溜りには、その横顔を上げさせるものは何もない。
「どこに行く」
「っ」
邪魔をしないよう、そろりと背中を向けて歩き出したところで、声をかけられた。振り返れば、視線はまだ本に注がれたまま。栞を挟んでそれをテーブルに置き、アンクさんはやっとこちらを向いた。
白銀の髪も、琥珀色の目も、すべてがここに置くことを計算して作られた人形のように、光の中で淡く透き通っている。
「……すみません、少し庭を散歩してて」
「ああ」
「読書中みたいでしたので、邪魔をする前に戻ろうと思ったんですけど」
結局気づかせてしまって、という意味を込めて頭を下げると、アンクさんはよく分かっていないような顔をした。そうしてそのまま、ベンチの片側を空けて――ここには、私とアンクさんの二人しかいない。
「お邪魔します……?」
どうすることが正解なのか分からなかったが、私は何となく、空気に抗えなくて隣に座った。アンクさんは本を読むわけでもなく、ただそこに腰かけている。
(え、ええと……)
沈黙が苦しい。こういうとき、何を言えばいいのだろう。
私は、決して嫌いだとか苦手だとかいうわけではないのだが――この人に対して、いまいち接し方を見つけあぐねていた。静かで、湖面のように揺らぎが少なくて、感情の在り処がよく分からない。穏やかな人だと思う。親切な面も見た目より強い、と思う。
ただ、どうにも今まで出会ったことのない雰囲気の人で、どうしたらいいのかが分からない。
「君は」
「っ、はい」
「あれの弟子になって、どれくらい経つ?」
黙っていると、アンクさんのほうがふいに口を開いた。あれ、と言われて脳裏に師匠の顔が思い浮かぶ。
「三年くらい……です」
答えながら、そんなに経つのかと考えた。十四だった私も今では十七だ。
ふむ、と何かを思案するようにアンクさんは視線を巡らせる。
「三年の間、どうだった」
「どう、っていうのは」
「いいと思う三年間だったか、そうではないか、という話だな」
意図のいまいち掴めない質問に、はあ、と首を傾げた。いいと思うかどうか。あまり考えたことのなかったものではあるが、それは裏を返せば。