13 暗雲


 ポストに新聞の投げ込まれる音が、開け放った窓から聞こえてくる。ユーティアはフェンネルの種を取り出していた手を止めて、柔らかな芝生の上へ足を踏み出した。チリリン、とベルを鳴らす自転車がソリエスの前を通り過ぎ、アパートの壁に沿って吹き抜けてきた風が林檎の花の香りを運ぶ。
 春、裏庭は溢れんばかりの花の季節だ。ユーティアは今年で、四十二歳になった。
 ペンキを塗り直した鮮やかなポストから新聞を取って、飛んでいく蝶々を見送り、店へ戻る。裏庭は相変わらず、正面からでは全体が家の陰になってほとんど見えない。だが、一年ほど前に両隣を囲むアパートのうちの一棟が取り壊され、工房を兼ねた家具店になった。
 木材を運ぶ都合のおかげで家と家の間に隙間ができて、わずかな幅ではあるが、通路の突き当たりに裏庭を見ることができる。なんの偶然の繋がりか、ちょうど無花果の木が見えるのだ。
 三本に増えた無花果は、夏が来るころ実をつける。アパートがなくなったことは寂しかったが、ユーティアはこの新しい風景が気に入っていた。
「雨、降らなかったわね」
 リビングのドアから顔を覗かせたベレットが、瓶を片手に言った。
「そうね、いい天気よ」
「朝は曇ってたから、降るかと思ったんだけど。洗濯物、出してくればよかった」
 ためいきをつくベレットに相槌を打ちながら、ガラスのトレーに散らばったフェンネルの種を小瓶に詰める。葉は葉で別の容器に入れて、こちらは料理に使うためキッチンの戸棚へしまった。種は店で売るハーブティーの材料になる。
 残ったフェンネルを一旦どかして、ユーティアは椅子の上で新聞を広げた。昔はあまり読まなかったのだが、ここ数年は毎日届けてもらっている。ちょうど午後の三時ごろ、仕事が一段落して休みたくなった頃合いに届くのが嬉しい。ベレットはあまり興味がないようで、読むかと聞いて頷いた試しがない。案の定、彼女は今日もちらりと目をくれただけで、再び薬づくりの作業に取りかかった。
 一面記事は最近話題の女優の結婚を報じるものだったので、心の中で祝福を送りつつ、流し読みして次を開いた。ユーティアはあまり、芸能事などの華々しいニュースには関心がない。ただ、結婚はめでたいことだ。良い報せを知った日というのは、ベールが一枚剥がれたような、明るい気分でそれからを過ごすことができる。
 見るともなしに、しがないニュースにいくつか目を通したところで、ふと一枚の記事に視線が留まった。
「レイスの使者、内密に訪問……?」
「え、また?」
 マシュマロウの根をすりつぶしていたベレットが、顔を上げた。ええ、と頷いて、ユーティアは記事の続きを読み上げる。
 ――先月二十日の会談に続き、レイスの使者がまたしてもアルシエを訪問していた可能性が高い。記者が今月二十五日の未明、南の国境からわが国の軍隊に護送されて首都へ向かう車を目撃した。車は一台で、乗り込んだのがわずか三名であったところを見ると、レイスの国王が乗っていたとは考えにくい。おそらくは使者であろうが、城へ入っていったこの車に関して、アルシエ国王は一切の情報を開示していない……
 記事はその後も続きがあったが、主な内容はそこまでだった。ベレットが難しい顔をして、ふうん、と眉間に皺を寄せる。写真はなく、記事といってもあまり大々的に書かれていない。根拠がないのかもしれない。だが、だからといってこれを真っ赤な嘘だと言い切る人も、今のコートドールにはあまりいないだろう。
「この前も、レイスからこそこそ人が来てたわよね」
「こそこそって、あなた。でも、確かに先々月くらいかしら。そのすぐ後に、正式な会談があったのよね」
「そうそう。今回も、約束を取りつけにでも来たのかと思って」
「でも、それならもっと堂々と来てもいいんじゃない? 何か、公にしたくない話でもあるのかしら」
「先月や先々月に限ったことじゃないものね。このところ、何だかしょっちゅうレイスの名前を聞いてる気がするわよ」
 思い思いに口に出したことが、自然と繋がる。皆、考えていることは似たり寄ったりなのだ。
 アルシエと隣接する四つの国の一つ、アルシエのほぼ真南に位置する国レイスが、最近やけに接近してきている。国王と会合したり、文書や使者を送ってきたり。アルシエ王が正式に発表している情報ばかりではないが、今回の記事のような目撃談は今年に入ってから後を絶たない。不審に思う声がぱらぱらと、人々の間で挙がっていた。
「なんで今になっていきなり、近づいてくるのかしらねえ」
 すり鉢を片手に、ため息をついたベレットに同意する。人々が気にしているのは、まさにそこなのだ。レイスは元々友好国ではあったが、その隣のエンデルや、さらにその隣のリュスのような交流はなかった。互いに争いをしないという最低限の条約を結んで、物流はあまりないが、商人や旅人の行き来は自由。
 良くも悪くもそんな薄い関係であったはずのレイスが、一体どうしたというのだろう。
 噂によれば、セリンデンの影響であるという話が囁かれている。レイスはエンデル、リュスとほとんど変わらない小国だが、三国の中で唯一セリンデンと隣接しているのだ。
 どうやら受け入れの厳しくなったアルシエに代わって、セリンデンの魔女が今や次々と、レイスに流れ込んでいるらしい。
「すっきりしないわ」
 マシュマロウの根を苛立ったようにすりつぶして、ベレットがぼやいた。市場は日々、レイスの話題に溢れているが、飛び交っているのはどれも憶測ばかりで真実は分からない。嘘のような本当のような、有耶無耶な話を聞かされ続けて、彼女は元々苦手な政治の話が嫌いになりつつある。だが、それでも気がかりなものは気がかりなのだろう。ベレットはいつも、聞きかじった話をあれこれとユーティアにこぼした。
 ユーティアはそれを頭の片隅に、新聞を読む。新聞にあって噂話にないことと、噂話にあって新聞にないことがある。どちらにもある話もある。それがあるということはきっと、反対に、新聞にも噂話にもされていないこともたくさんある。


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