10 赤と青


 季節は滞ることもなく、一足一足着実に巡り、気づけばそれから四度の春が訪れた。早春の朝は水色の空に綿を伸ばしたような雲が流れて、プラタナスの陰で夜を過ごしていた鳥が、開け放った窓の外を高く鳴きながら飛んでいく。
 ユーティアはもうすぐ、三十歳になろうとしていた。澄んで若々しく、どこか少女の頃の面影を残していた横顔にも、華やかさより穏やかさが勝るようになりつつあった。近頃、記憶の中にうっすらと残る、自分がまだ幼い頃の母の面影に似てきたものだと思う。口角を上げたときの頬の形や、唇のあたりが特にそうだ。
 屋根裏の窓から家々の向こうに聳える塔の屋根を眺めつつ、両側で三つ編みにした胡桃色の髪を、後ろで一つにまとめる。このところ、後ろ髪を一緒に上げることはなくなった。顔立ちが変わり、そのほうが似合うようになってきたのだ。町に流れる時間よりも、個人に流れる時間の波は少しだけ速い。
 ユーティアはさて、とレースのカーテンを引いて、階段を下りた。今日は市場が休みの日だ。十時になったら、ベレットが店を手伝いにやってくる。

 裏庭は数十種類のハーブと果樹が絡まるように育ち、色も形も様々な葉が、大気の隙間を埋めるように溢れていた。シネラリアやマーガレットの花がその一角に明るく咲き誇り、行き着くまでの道のりには、白い林檎の花の香りが満ちている。水遣りを終えた土の湿った匂いと、甘い果樹の香り。強い風の吹いたときだけ、仄かに感じるのはブルーベリーの花の香りだ。庭の一番隅にあって、ユーティアが来る前から根を張っているその木は、今年も変わらず溢れるほどの花を咲かせて実をつける。
 中央にある野菜畑の前で足を止めて、ユーティアはエプロンの裾をたぐり、芝生に膝をついた。
 春は色々なものを植える時期であると同時に、収穫できる時期でもある。例年、この畑で採れるものは蕪やセロリが多かったのだが、今年は苺が豊作だ。二日に一回、苺のジャムが作れる。苺はジャムでもシロップでも、果実酒にしても人気があって、たくさん採れるとソリエスの春を豊かにしてくれる。
 採れたてを外の蛇口ですすいで、一つ口にした。酸味も強いが、甘みもなかなか濃い。これなら何に加工しても、文句なしの味に仕上がるだろう。この瑞々しさを最も生かすには、と近くに茂ったパセリを少し収穫しながら考え、甘さ控えめのジャムにすることに決めた。砂糖を少なめにして、苺そのものの味わいをできる限り残す。
「おかえり」
 かごを抱えてリビングへ戻ると、ベレットがテーブルから顔を上げて言った。セージの匂いが室内に漂っている。瓶詰のスターアニスが、閉まるドアから射し込んだ光に照らされて眩しく輝いた。
「何の薬にするの」
「まだ、考えてるところ」
「咳をしている人はこの時期、少ないわよ。鼻風邪とか、眠気をすっきりさせたいとかいうほうが多いんじゃない」
「ああ、確かに。それもそうね」
 小さなすり鉢と計量スプーンを並べて、ベレットは鞄を漁った。ユーティアの作る薬は薬草の形が比較的残り、薬と言ってもあまりそれらしくなく、お茶としてポットで出して飲めるようなものが多い。対して、ベレットは粉末を白湯に溶いて飲む薬をよく作る。
 ハーブティーよりも苦味が強くなってしまうのだが、ベレット曰く、市場ではそのほうが売りやすいのだそうだ。市場には多くの店が集まる。それこそ薬草を扱う店や、茶葉を扱っている商人もいる。そういう店の品物と、薬草魔女の作る薬との境目は非常に曖昧だ。一般的に見ればほとんど違いはなく、似通った店という印象になる。
 薬草魔女という職業が、緩やかにではあるが減ってきている今、市場でお茶は目を惹かない。見るからに薬らしい、苦くて効きそうな薬を売ったほうが、魔女の薬屋として人目につくのだと言っていた。
 キッチンに立って、摘んできた苺を流水で洗う。水しぶきを受けて袖をまくり、ユーティアは足元の棚を開けて、砂糖を出した。
 真新しい袋の口を切って、しっとりと重たく白い砂糖を量る。はかりの針は初め大きく揺れて、次第に落ち着いていった。このはかりは去年、リコットから誕生日にともらったもので、使い慣れた道具で溢れたキッチンの中では、まだまだ新顔だ。店で出すジャムを煮ている鍋は、料理に使っている鍋とは別なのだが、それなどもうソリエスを開いたときからの付き合いになる。
 ――もうすぐ十一年か。
 慣れた手つきで苺のへたをくるくると取っていきながら、ユーティアは小窓から店内を眺め、唇に微笑みを浮かべた。色々なことがあったものだ。この町で、そしてこの家で、この店で。たくさんのことが始まり、終わり、変わり、流れていったように思う。


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