9 雪別
コートドールに、今年も雪が降る。
朝から灰色だった空は昼過ぎに雪をちらつかせ始め、夕方を迎えるころには、雨のようにとめどなく降る雪に変わった。例年よりも一週間は早く、激しい降雪だ。
川沿いの古い路地も、石畳の隙間が最初に白く染まり、あっという間に道全体が雪の下になった。川面に飛び込んだ雪は次々に溶けていくが、橋の欄干は重そうに丸みを帯びて、誰かの作った小さな雪だるまがひっそりと乗っている。
家々の屋根も、例外なく雪に埋もれた。人々は窓を閉めて、ガラス越しに白く煙る景色を眺める。川向の人々もそうしているものだから、見知らぬ人同士が今日はやたらと顔を合わせる日だ。彼らは皆ちょっと空を見上げてから、これは夜通し積もりそうですねと、会釈だけでそんな挨拶を交わした。
橙色の炎が、ゆらりと立ち上がる。
二十六歳になったユーティアは、すっかり慣れた手際で暖炉に薪を入れ、冷え込む夜更けに向けて室内を暖めた。少しの雪なら厚手の服を着て過ごしてしまうことも多いユーティアだが、今夜の寒さは芯まで沁みるような、きんと冷たく澄んだ寒さだ。こういう夜に下手な我慢をして体を冷やすと、呆気なく風邪を引いてしまう。
よく乾燥した薪は火をまとって、暖炉の中で静かに燃え始めた。今年はまだ気温の高い日も多かったから、暖炉を使うのは二回目だ。ユーティアはしばらく様子を見てから、大丈夫そうだとスカートをおさえて立ち上がった。
足首まである長いスカートをはくと、裾を踏まないよう自然と動作が柔らかくなり、一つ一つの行動が丁寧になる。冬がゆっくり過ぎていく季節に感じられるのは、春が待ち遠しいからというだけではなく、自分自身が他の季節より静かに動いているからかもしれない。
暖かな空気が、足元をくすぐる。さて少しの間なにをしようか、と振り返ったところで、ユーティアはふと頬杖をついた恋人の横顔に目を留めた。
「サボ」
呼びかけると、彼はのろのろと顔を上げる。翆玉の眸がちょうど前髪の陰になり、いつもより灰色がかって見えた。
夕食のあとから、彼はずっとそうしてテーブルについたままだ。ユーティアが食器を片づけ、薪を取りにいき、暖炉を用意している間中、帰るわけでもなければ手伝うわけでもなく、それどころか一言もろくに言葉を発さないで、ただじっと座っている。
「どうかしたの……、具合でも悪い?」
「え? ああ、いや。大丈夫」
「それならいいけど。なんだかぼうっとしているみたいだったから」
らしくない。
熱を確かめようと伸ばした手を拒絶するように、首を左右に振って微笑みを浮かべたサボを見て、ユーティアはますます違和感を強めた。今の彼はあまりに、様子が違っている。
手伝わないことはいい。サボだって仕事帰りだ。彼はいつも二人分の食事だからと準備や片づけに手を貸してくれるが、疲れている日もあるだろう。
帰らないことはそれ以上に、今さらだ。このところ、週の半分くらいは一緒に暮らしているような状態で、彼もこの家で生活している。わざわざこんな雪の日に限って、帰らせようとは思っていない。
話さないことだって、ユーティアも普段なら気に留めない。沈黙が気まずくて、どうして恋人でなどいられるだろう。共に過ごせば自然と、どちらも口を開かない時間というものも存在する。
ただ、今日はそのすべてが揃っていて、ユーティアの目にはサボがどこか、ずっとうわの空でいるように映った。
「具合が悪くないのなら、お風呂に入ってきたら? 私はあとでいいから」
話しかけたのは自分なのに、影を落とした目にじっと見られているとなぜか居心地が悪くなる。ユーティアは努めていつも通りの声で勧めて、戸棚の中でも片づけようとテーブルの横を通り過ぎた。
その手を、サボがゆるりと掴んだ。
「ユーティア」
名前を呼ばれて、恐る恐る振り返る。どうして首が、錆びた蛇口のようにぎこちなくしか回らないのか。恐れるなんておかしなことだと思う反面、ユーティアには予感があった。
自分を引き留めたサボの声の、静けさと真剣さ。彼が何か、とても大事なことを言いたいと思っているのだということが、掴まれた手首から波紋のように伝わってくる。
「座って。……君と、少し話がしたい」
強い力で握られたわけでも、鋭い目をして睨まれたわけでもなかった。でも、逆らおうとは思わなかった。
ユーティアは黙って頷くと、サボの手を離れ、彼の正面に腰かけた。合わせた眸の奥が、ざわめきそうになるのを堪える。反対に、サボの目はどこまでも静かだった。長く深い沈黙が、ユーティアを捉える。
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