1 旅立ちの子


「ユーティアさん」
 こつこつと板張りの廊下を追いかけてきた足音が、前を歩く背中を呼び止め、革靴がぴたりと立ち止まった。肩を覆う、緩やかに波打った胡桃色の髪をひるがえして、濃紺のジャンパースカートに身を包んだ少女が振り返る。
「先生」
 その髪よりも明るく、金色を帯びた茶色の飴色に近い眸を丸くして、ユーティアは自分を追いかけてきた人に頭を下げた。
 小麦色の豊かな髪を太い二本の三つ編みにして、後ろで一つに括った、知的な印象の女性である。ユーティアのクラス担任、メアリーだった。
「まだ残っていたのね」
「日直だったので」
「そうだったわね、遅くまでありがとう。もうおしまい?」
「はい。掃除も終わったので、あとは職員室へ日誌を返しに行くだけです」
「あら、じゃあ一緒ね。私も職員室へ行くところなの」
 行きましょう、と微笑んで、メアリーは教科書や資料の入ったかごを抱えて歩き出した。ユーティアもそれに並んで、古びた深い色の木の廊下を歩いていく。
 夕日がゆっくり沈んでいく初春の黄昏に、窓の反対側の壁は橙に染まっていた。足元から伸びた影が、その壁に当たって折れる。生徒のほとんど帰宅した学校は、昼間の喧騒が幻のように静かだ。
「あなたに日直をやってもらえるのも、今日が最後だったわね」
 ユーティアの視線を追って同じく影を見ながら、メアリーが少し寂しげに言った。はい、と頷いて、ユーティアもどこか切ないような、それでいて瑞々しいような、妙な気持ちになる。
 ユーティア・ハーツ――父グラム・ハーツと母シャーリー・ハーツの間に生まれた彼女は、今年で十五歳になる。早生まれのため、誕生日はもうすぐで今は十四だが、この三月で卒業が決まっている学年の生徒だ。
 六歳から通い続けたこの学校を、もうすぐ出る。そう思うと、胸に迫ってくる思いは少なくない。サロワで生まれ、周辺の村の子供たちと共にサロワの学校で学んだ九年間は、十四歳のユーティアにとっては人生の時間の大半である。
 多くの思い出と、時間を築いたこの校舎をもうすぐ出るのだ。卒業後は高等学校へ進学することが決まっている。そこはサロワから汽車で一時間ほど離れた場所にある、ロメイユという小都市の学校だった。サロワの周辺は人口も少なく、古くからの農村地帯で高等以上の学校はない。ユーティアは四月から、ロメイユで下宿する。学校と同時に、家からも地元からも離れることになる。
「高等学校へ行って、将来はどうするの? 何かしたいことでもあるのかしら」
 想像しても、想像がつかない。どうなっていくのだろうと不安な表情を浮かべたユーティアに気づいたのか、メアリーは差し迫った春からの話ではなく、もっと先の話題を振った。高等学校では、三年間勉強をする。家の農場を継ぐ子供が多いこの地域では、進学を選んだユーティアは珍しい。
「仕事は、お医者さんになりたいとか、先生になりたいとかいうわけではないんですけれど」
「ええ」
「コートドールに、行こうと思っています。そこで自分の店を開いて、生活しようと」
 メアリーは少し驚いたように、前を向いていた視線をユーティアへ向けた。居心地が悪そうに、ユーティアのほうは目線を下げる。
 メアリーが驚くのも無理はない。コートドールはこの国の首都なのである。
 土地の北端から西にかけて海に面し、東に大国セリンデン、東南部から時計回りに小国レイス、エンデル、リュスと全部で四つの国と接するアルシエ王国は、大国というにはあと一回り小さいが、小国というわけでもない。菱形に近く、それなりに豊かな土壌と海のおかげで発展し、国土のわりには貿易や産業の盛んに賑わう国だ。南西部には鉱山もあり、小規模ながら人々の暮らしを支えている。
 その首都であるコートドールは、サロワから北へほとんどまっすぐ向かった国の北東にあり、町の面積はロメイユの十倍ほどにもなる。ロメイユでさえサロワの人々にとっては、この町のいくつ分に相当するだろうという広さなのに、コートドールは広さも人口もそのロメイユを圧倒的に上回るのだ。
 中心部には大学や研究所、王立図書館や病院といった施設が集まり、医者や学者、あるいはそれを志す人々が多く集まる。そして何より、それらすべての中心には国王の暮らすアルシエ城が建てられている。敷地内には民間に開放されている広々とした公園や、城に勤める兵士たちの詰所があり、名実ともに王国の中心として賑わう大都市だ。


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