Ouverture


「まあ、見てください。元気な女の子ですよ」
 アルシエ王国の南東部にある、小さな農村サロワ。羊飼いが羊を小屋へ追い立て、農夫が一日の仕事の終わりに口笛を吹きながら歩く黄昏、村の中心部に立つ古い病院の一室で、一組の夫婦に子供が誕生した。
 産婆が夫のグラムに産湯から上げた子供を抱かせ、グラムが妻シャーリーの枕元まで、よく見えるように近づいていった。呼吸を知ったばかりの赤ん坊は、泣きながら母の目の前に差し出された。
 そのとき、肌着の間から何か、四角いものがグラムの足元に落ちた。
「これは……」
 母の腕に赤ん坊を渡し、グラムがマッチ箱ほどの大きさのそれを拾い上げる。小さな小さな、鍵のかかった本だった。シャーリーが目を丸くして深く息を吸い込む。産婆がまあと声を上げ、口を両手で押さえた。
「グリモアだ。この子はグリモアを持って、生まれてきたのか」
 驚きとも感嘆とも、あるいは困惑とも――すべてに通ずる声で言って、グラムは生まれたばかりのわが子の頬に手を当てた。シャーリーが夫の指先に収まっている、小さな本を仰ぎ見る。
 高貴な紫色の、額縁のように金で装飾の施された本だった。タイトルはなく、背表紙には獅子の目のような透明の石が一つ嵌め込まれている。
「ユーティア」
 シャーリーがもう片方の頬に手を滑らせ、ぽつりと呟いた。グラムはそれを初め、妻の生まれた地方に伝わる祈りの言葉として聞いたが、やがて彼女の真意に気づいてぱっと顔を上げた。
「ユーティア。そうだな、それにしよう」
「ええ」
「この子の名前だ」
 意味は、〈祝福あれ〉。遠く旅立つ人へ贈る言葉で、シャーリーもグラムに嫁いでサロワへやってくるとき、家族から贈られた。例え体は離れても、互いに幸せなとき、互いの幸せを望もう。温かい食事と、清潔な衣服と、愛する家に恵まれていることを願おう。そんな意味のこもった、祈りの言葉である。
 本を持つ子供は、旅立つ人と通じ合うものがある。大きな何かに導かれて、細い糸の上を生涯かけて歩む。
「例え、あなたが何もののために生まれたのだとしても」
 シャーリーは、生まれたばかりの娘の頬に口づけをした。
「私たちの愛は、あなたのために」
 夕日が金色に輝いて、窓枠のむこうに落ちる。グラムはユーティアの額に、それからシャーリーの頬に口づけをして頷いた。

 グリモア。それは生まれながらに道を示す、運命の書。さだめを抱えて生まれくる、数百人に一人の少女たちを、ひとは魔女と呼ぶ。


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