La fin


 遠く、なだらかな山から吹き下ろす風が家々の間を渡って、足元の乾いた砂を巻き上げていく。石畳の敷かれていない、剥き出しの土に所々、緑の草が生えた道。点々と続く木の柵は数本おきに朽ちながら、小屋のように小さな家と家を仕切って、どこまでも続いている。
「いい天気だ」
 こことはまるで違う故郷の風景を思い返して、今はむしろそちらを懐かしく思いながら、青年は重い鞄を背負って伸びをした。金の髪と緑色の目が、光を吸い込んで淡く輝く。
 さて、と道を歩き出した彼の背中に、慌ただしく駆けてくる足音が聞こえた。
「先生!」
 見れば、民家の一つから顔馴染みの少年が飛び出してきたところだった。黒い髪に黒い目、青年よりも橙を帯びた肌をしている。質素な服に痩せた身を包んでいるが、青年が立ち止ると、大きな目を輝かせて笑顔を見せた。手に、小さな布の袋を下げている。
「どうしたんだい、そんなに急いで。お別れはさっき、ちゃんとしただろうに」
 青年は少年に合わせて、膝を屈めて訊いた。
「そうだけど、渡すものがあるのを忘れていたんだ」
「俺に?」
「そうだよ、これ」
 手にした袋を掲げて、少年は誇らしげに言う。手に取ると軽く、小さなものが擦れ合う音が聞こえた。青年は袋を開けて中を覗く。
「これ……」
「へへ、先生に気づかれないように、こっそり集めてたんだ。先生、今日で国に帰っちゃうんだろ? 向こうでは栽培しないと採れないって、前に言ってたのを思い出したからさ」
 中に入っていたのは、数種類の植物の種や根だった。皆、この東の大陸で自生しているものばかりだ。西の大陸では研究が進められているが、気候が合わないせいか育てるのに難儀しており、まだ数も少ない。向こうに戻れば高価なもので、青年には気軽に手を伸ばせない材料だ。これらは皆、東の大陸の人々が薬として使う植物である。
「いいのかい、こんなに」
「いいよ、足りなくなったら山へ行くから。おれはそれより、先生にこれで、新しい薬を作ってほしいんだよ」
「君……」
「だって先生は、母ちゃんを治してくれたすごい人だからな。きっといつか、もっとすごいことをやってくれるんだろ?」
 な、と笑って少年は返事を待っている。
 青年は、薬師の卵だった。本来ならまだ「先生」などと呼ばれる立場ではない。だが、勉強と研究のために海を渡って訪れたこの村で、少年の母親を治療して、村人たちからそう呼ばれている。彼の母の病は、西の大陸では昔から当たり前に治療がされてきたもので、青年にとっては難しい病ではなかった。だがそれは、偏にこの村の人々が無力だったという意味ではない。
 ――東の大陸は西の大陸に比べて、医学の進歩が遅れている。
 それが真実だった時代は、今からかれこれ二十年は前。世界が大戦時代に突入する前の、古い常識だ。大戦の十年ほど前にこの地へ降り立った一人の魔女が、その常識を変えた。
 彼女の名はベレット。元は青年と同じ、西の大陸の出身でありながら、晩年をこの地で過ごした、東の大陸では最も有名な魔女である。
 彼女は六十五歳という若くはない年齢でやってきた人ながら、この地で魔女たちに薬草を扱う知識を与え、協会を設立して、八十歳で亡くなるまで精力的に活動した。当時、東の大陸では魔女がまだ迫害の只中にあって、書物を持って産まれた子供は生涯、忌まれて生きることが当たり前だった。彼女はそんな魔女たちを自分のもとに集め、ある書物を編纂した。
 それが『薬草魔女手記』。彼女が人生の中で最も長い時間を共に過ごしたと語る、とある魔女の、七十冊以上に及ぶ日記を編集、書物として改稿したものである。
 薬草魔女として暮らした彼女は、今はセリンデンの一部となったアルシエ王国の魔女で、自ら栽培したハーブを利用し、薬を作って人々の暮らしを支えていた。日記に残されているのはそんな一人の魔女の、薬草の扱いを中心とした毎日の生活。それと、自分を取り巻く国の環境の変化について――具体的には、一つの国が戦争に向かってゆく様が、偽りなく記録されている。
 アルシエはその戦争で敗戦し、従軍した多くの薬草魔女を失った。彼女の記録にはそういった、魔女が薬の知識を持っていたからこその悲劇も書かれており、敗戦後の日々からは、民間療法が医学に圧されて居場所を失っていく様子も見受けられる。
 ベレットはそれを魔女たちに与え、彼女たちが堂々と生きられるように、薬を作ることを教えた。東の大陸の植物を分析し、西の大陸の植物を栽培して、薬草魔女のみが知るレシピをいくつも開発したのである。これによって魔女はただ忌避される存在から、人々に必要とされる存在に変わっていった。西の大陸で断絶した薬草魔女という文化については、この時点でほとんど、復活を遂げたと言っても過言ではない。


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