26 移りゆくもの
苗木はゆるやかに生長を続けて、いつしか色づいて、葉を落とす。
秋、川辺のプラタナスが淡い黄金色に変わる今日この頃、五十四歳になったユーティアは穏やかに、慎ましい生活を送っていた。
「ねえ、ミルクが切れそうだって言ってなかった?」
とんとん、とベレットに背中を叩かれて、市場を歩く足を止める。ざわめきの中、ああと思い出したように帰ってきたユーティアを見て、店主が人当たりのいい笑みを浮かべた。いらっしゃい、新鮮だよ。通り過ぎる人々にも聞こえるように、声を張り上げて手を叩く。一人二人、足が止まった。誘われるように隣の店でも、客寄せの声が上がり始める。
「誰かさんがホットミルクばかり飲みたがるからよ」
「え、私だけ?」
「あら、私ベレットだなんて一言も言っていないけど。そんなに飲んでいる自覚があったの?」
くすりと笑って返すと、ベレットはばつが悪そうに唇を尖らせた。鮮やかなオレンジのストールの下で、黒髪が、そっぽを向いた彼女に合わせて靡く。瓶に二本のミルクを買って、ユーティアは古い銀の硬貨を手渡した。
偉大なる王、を象徴する仮面の獅子が浮き彫りになっている。これは、セリンデンの硬貨だ。アルシエの紙幣と硬貨が廃止され、すべてセリンデンのものと統合されて、早一年になろうとしている。
「毎度」
明るい声色で礼を言って、店主はユーティアたちを見送った。乳製品と卵を扱う店の並んだ一角を抜けると、次のところでは野菜、向かいでは果物が売られ始める。途中の細道を入って一旦、日用品を眺めてから、ユーティアは林檎や洋梨などを少量ずつかごに入れた。どうも、と日に焼けた肌をした店主がそっけなく帽子を取る。どうやら果樹園の人間が、自ら手売りに来ているらしい。
「いい林檎ですね」
思わず漏らしてしまってから、ユーティアはあっと思って口を噤んだ。半ば育てていた経験があるもので、つい口をついて出た感想だったが、尊大な言葉に聞こえただろうか。
懐かしみが込み上げただけなのだ。庭はハーブや花を手入れして、小さな菜園を造り直してずいぶん綺麗になったが、かつてのように果樹をいくつも育ててはいない。樹は、新たに育てるには手間と時間がかかるのだ。自分も結構、歳を取った。今から昔と同じように、根気強くあの庭を取り戻す力は残っていない。
「分かるかい。甘いよ」
店主は幸い、気を悪くはしなかったようだ。気難しそうな顔を少しだけ弛めて、紙袋に入れた果物を差し出した。礼を言って、それをかごに入れる。バターを買うのを忘れたな、と思い出したが、もう荷物が重かったのでまた今度、ベレットに頼むことにした。
市場の屋根の下を抜けると、秋の澄んだ青空が真上に広がる。商店街のある大通りへ出てすぐに、ユーティアは「少し寄らせて」と雑貨屋のドアをくぐった。
「あら、日記帳がもう出てる」
「本当。もうそんな季節なのね」
入り口の近く、棚の上に並んだ色とりどりの日記帳を見て、足を止める。ベレットが面白いデザインの日記帳を見つけて指さし、ユーティアもつられて笑った。シンプルなもの、お洒落なもの、他にも色々と豊富に揃っている。去年に比べて、全体的に華やかになった。今年も選びがいがありそうだ。
「買わないでいいの?」
「ええ、いつもの店も見てから決めるわ。今日はこっちを見に来ただけだから」
棚を離れ、ユーティアは店内の奥へと足を進めた。ついてきたベレットにかごを預けて、一巻きのリボンへと手を伸ばす。
「何、ラッピング?」
「ええ、ちょっとね。花束を作ってみようと思うのよ」
「花束って、自分で? 誰かにあげるの」
「上手くできたら、だけど。叔父のところへ送るのと、マルタさんに供えようかと思って」
二人とも、もうすぐ一年だから。リボンの色を比べながら付け加えたユーティアに、ベレットもああと頷いた。サロワで世話になった叔父、ゴードンと、コートドールの母マルタ。二人は共に、去年の冬にこの世を去った。
戦争を乗り越えて、長く生きたと言える生涯だったのではないだろうか。安らかに息を引き取った二人を想い、ユーティアは知的な、落ち着いたカーキのリボンと、太陽のように明るいオレンジのリボンを選んだ。前者はゴードンに、後者はマルタに似合う。
マルタの墓は彼女の夫と共にコートドールにあって、普段からたまに顔を出してはいるのだが、如何せん冬は花が減る。ゴードンに関しては手向けたくても、サロワまで送る前に枯れてしまうだろう。だから、普通の花束ではなく、ドライフラワーの花束を作ろうと思うのだ。木の実やハーブも取り混ぜて、この冬の挨拶としたい。
「こっちの、細い銀色も合わせたらどう? せっかくなんだし、華やかにいきましょうよ」
「あら、いいわね。一緒に結んだら綺麗かも」
買い物はそれほど長くかからない。二人とも、傍で長い時間を過ごした相手だ。何が似合うか、どんなものを贈りたいのか、考えなくても心の中で決まっている。
エプロンスカートの若い店員にリボンを切ってもらい、支払いを済ませて店を後にした。行き交う人の波が肩を浚っていく。昼下がりの温い風が頬を打つ。
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