20 君の名を


 戦火は北の岬で吹き上がり、アルシエの海上に突き出した半島を見る間に飲み干して、商業都市モントールを拠点として猛り、南へ下り始めた。これによってアルシエ王国は東の国境と北部と、二方向からの侵略にさらされることになる。
 勢いに乗るセリンデンは惜しみない数の兵士を投入し、北部の鉄道を奪い、首都コートドールと半島の連絡を断絶させた。鉄道の利用により、国境近くからも物資がますます送られるようになる。セリンデンが送り込んだ大量の、真新しい、銀色に輝く武器の数々は、急ぎ防衛に駆けつけたアルシエの兵士たちを恐れ戦かせるに十分だった。
 銀色に照り返す肌を持った怪物が、どうどうと音を立てて迫ってくるようだ――同じ人間と思うには、彼らはあまりに強く、体のほとんどを鋼に覆われている。
 戦地から届けられたこの一報で、王ウォルドはレイスに連絡を取り、四国軍の装備の強化を図った。小国ながら鉱山を有するレイスと手を組み、戦地で捕らえたセリンデンの兵士から敵方の装備を取り上げて分析し、見よう見まねで硬質な装備の製造を推し進めた。しかし技術は遠くセリンデンに及ばず、強度はあっても実地で使うには重さの過ぎる武器が量産されている。
 この間、最前線で戦況の悪化を食い止め続けていたのは、リュスとエンデルの兵士たちだった。一度は岬を守れず敗れたリュスの海軍が、再び海を通って回り込み、北部に取り残されたアルシエの人々をリュスへ逃がしつつ、最北端に留まって戦い続けている。
 セリンデン軍の南下を阻んでいるのは、エンデルの兵士たちだった。エンデルは小さな農業国ながら、国民は全員が農民であり兵士であるという方針の国家で、有事の際には男も女もそれぞれに武器を取る。百年近く戦争に関わっていない国であったが、その方針は変わっておらず、彼らの働きは城の地下室で埃を被っていた武器を使っているとは思えないほどのものであった。血縁者が寄り集まって五人から六人の小集団で戦うという、古来の狩猟生活にルーツを持つ戦法で、モントールの家々の間を山野のように駆け巡る。ずんぐりとした重い剣と木製の弓と少しの銃で、油断したセリンデンの兵士を着実に足止めしていった。
 二国の挟撃により、セリンデン軍は撃退こそされないが、思うように兵を進められない状態が続いている。陸路で駆けつけたリュスの兵士たちが主要な駅を奪還したこともあり、両軍はアルシエの北の地に足を下ろして、一進一退の長い攻防に入った。
 季節が巡り、また春が過ぎて夏になる。
 四十七歳になったユーティアは、変わらず牢と調合室を行き来する生活を続けていた。ひそやかに歳を重ねたこの春は、サボが母から届いた手紙を誕生日に合わせて持ってきてくれ、牢の中でささやかな「おめでとう」を口にしてもらった。囚人に食べ物を差し入れることは許されない。内通者の協力による、毒での自害を防ぐためだ。
 彼は新しいペンを一本、ユーティアに贈ってくれた。そして、ちょっとインクのつけ方に工夫がいるんだ、ノートを貸してごらんと言い、日記帳の隅にこう記した。
 ――封筒の中に、新聞の切れ端を隠してある。
 驚くユーティアに目配せをして、彼は「見つかってはいけないよ」と微笑んだのだった。ユーティアが北部の状況を詳細に知ることができたのは、七割がこの新聞記事のおかげだ。母から送られてきた手紙の間に挟まった、サボからの命がけの贈り物を、彼は読んだら手紙に入れて返してくれれば始末すると言ったが、ユーティアは慎重に保管すると決意した。使い切った古いノートに挟み、書き物机の下に滑り込ませる。念のため同じ色のノートを一冊、その日記が元あった場所に差し込んでおくのも忘れなかった。
 ノートは日記帳として使うと、ちょうど一季節に一冊ほど使ってしまう。これでもソリエスにいた頃より、日ごとの記録は疲労のせいもあって短くなりがちだ。加えて最近、ノートやインクを頼んでも以前より用意してもらえるのが遅くなっており、残りのページが少なくなるとつい文章を端折ってしまう。
 簡易的な記録が並ぶここ一週間を振り返りながら、ユーティアは一人、夕食のパンをスープに浸した。
 冷めて、ベーコンの脂が浮いたスープはお世辞にも美味しいとは言い難い。牢に入った当初に比べて、食事の質は明らかに低下している。戦争で作物が穫れにくく、玉子や肉といった食品も高騰しているせいだろう。パンの代わりに豆を大鍋で茹でて、わずかな塩味をつけたものが出されることも増え、今日はスープに野菜も入っていることを思えば豪華なほうだ。塩辛い干し肉や、押し麦に少量のトマトソースを和えたものが出されることも多い。
 城の中はいつも慌ただしく、兵士たちは日によって殺気立っていて、話しかけられたものではなかった。夕食も今日のように、ユーティアが調合室から戻ると部屋の前に置かれていることが増え、温かい食事にはしばらくありつけていない。


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