1 旅立ちの子


 続きは寝る前に書くことにして、リビングへ降りていく。ドアを開けると、ふわりと甘い香りが体を包んだ。
「卒業、おめでとう」
「お母さん」
「それと――お誕生日、おめでとう。ユーティア」
 テーブルの上には、クリームをたっぷり塗ったシフォンケーキが焼き上がっていた。紅茶の香りがする。ユーティアの好きな、紅茶のシフォンケーキだ。
 今日は卒業式であるのと同時に、ユーティアの十五歳の誕生日でもあった。友達や学校との別れにしんみりしていた気持ちが、蝋燭を灯されてほのかに明るくなっていく。新聞を読んでいた父が、ハッピーバースデーの歌を口ずさむと、母が鼻歌をそれに重ねた。
 シフォンケーキが切り分けられる。冬に近くの農場から分けてもらった林檎を、ジャムにしてとってあったのを思い出し、キッチンの棚を開けた。大きな瓶に紙を貼って、ユーティアの字で「りんご」と書いてある。傍には他に、さくらんぼや檸檬などのジャムもある。ユーティアの家は無花果をたくさん作っているおかげで、最も数があるのは無花果のジャムだ。
 ユーティアは林檎の他に、無花果のジャムも一瓶出した。父は甘いものをあまり食べないが、無花果のジャムだけはたくさんつける。
 毎年、収穫の時期になると母と二人で、ロメイユの市場へ卸さなかった分の無花果を甘く煮るのだ。他にも干したり、コンポートにしたりして、とれた果物は一年を通して味わう。ジャムは砂糖を多く入れるほど、保存が利くようになる。収穫から半年以上経った今、手元に残っているジャムはどれも甘みが強くて、誕生日のケーキによく合うものばかりだ。
「さあ、食べましょう。できたてのうちに」
 三人がそれぞれに好きなだけジャムを添えると、ハーブティーを淹れて母がそう言った。お茶に使っているハーブは、ユーティアが自宅の庭で育てているものだ。学校があるので普段は畑の仕事をあまり手伝えなかったが、植物に触れているのは好きで、昔からセージやローズマリーなどよく育てている。
「いただきます」
 ロメイユへ行っても、長い休みには家へ戻ってくる。誕生日はちょうど春休みに当たるだろう。来年もこの家で、誕生日を過ごすことはきっと変わらない。
 だが、それでも今年の誕生日は何か、大きな「区切り」を越えてしまう心地がして、ユーティアは柔らかいシフォンケーキを一口一口、ゆっくり噛みしめた。父の手の先でフォークが無花果のジャムに沈むのを、母の手の中でハーブティーが白いカップに囲まれて揺らめくのを、じっと目に焼きつけながら夜のひとときを過ごした。
 心細くはあったが、ロメイユへ行くことに迷いはない。それはユーティアの望んだことであり、誰に強く言われて出ていくわけでもなかった。
 ユーティアはふと、幼いころに母が教えてくれた、自分の名前の意味を思い出した。
 ――祝福あれ。
 例え体は離れても、互いに幸せなとき、互いの幸せを望もう。十五年間、毎日食事を囲んだテーブルを見つめて、胸の内でその言葉を呟いた。

 それから一ヶ月と経たずに、ユーティアは生まれ育ったサロワを離れ、一人ロメイユのアパートへ旅立った。そこは進学先の学校からほど近い、川沿いの小さなアパートで、煉瓦造りの外観にところどころ蔦が這っていた。
 ユーティアの部屋は二階で、日当たりがよく、窓際ではラベンダーやミントを育てることができた。学校を通り越してしばらく歩けば、坂の下に父と行った雑貨屋もあり、文房具はいつもそこで選んだ。
 高等学校は三年間で、ユーティアはそこで、コートドールで生きていくために必要な多くの知識を吸収した。アルシエ王国の歴史や政治、現在の情勢。近隣の国との関わりや、貿易の状況。また、一人で店を開くにあたって、商業のことも少しばかり学んだ。
 ユーティアは別に、政治に関わったり、成功して大金持ちになったりすることに興味はなかった。ただ、淡々とでもこれからの日々を、過不足なくしっかり生きていきたいという思いは、医者や学者を目指してやってきた周囲の生徒たちよりもはっきりして強かった。

 瑞々しい三年間であった。高等学校を卒業する日、十八歳を迎えたユーティアはロメイユでの日々を振り返って、たった一言だけそう思った。
 サロワの学校を卒業したときのような、嬉しいのか切ないのか複雑な思いはなく、胸にあるのは満足と静かに積み重ねてきた覚悟だった。
 ――コートドールへ。
 校舎を出た足でアパートの鍵を返して、三年間、窓の下に見続けた橋の上に立つ。その川の流れてくる方角が、これからの自分の行くべき場所だった。向かい風が水の匂いを運んでくる。この風の根元が、コートドールに繋がっている。
 その前に一度、故郷へ帰らなくては。
 ユーティアは飴色の目を伏せて、それからゆっくりと開いた。橋を渡って、大きな荷物を両手に、サロワ行きの汽車を探しに向かった。


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