14 アルシエとセリンデン


「あの、マルタさん」
「なに?」
「いつも、ありがとうございます」
 ふと、言いたくなったことが自然と唇から流れ出た。魔女に向けられる世間の目が急速に変化しつつある今でも、マルタは何も変わらない。昔から、まだ若かったユーティアを娘のように可愛がってくれていた頃から、何も。変わらず二、三日に一度は顔を出して、家族のように他愛無い話と、少しの買い物をしていってくれる。
 マルタは両目をいっぱいに見開いて瞬きさせたあと、声を上げて笑った。
「やだわ、いきなり。どうしたのよ。喜ばせたってなんにも出ないわよ?」
 エプロンのポケットをはたいて見せながら、追及はせず、その言葉を受け取ってくれる。マルタにはきっと、察しがついているのだろう。ユーティアが抱える不安も喜びも、彼女の前では隠すことができない。
 魔女という大きな枠組みではなく、ユーティアという一人の人間を、傍で見守って理解してくれる。マルタのような人がいてくれるから、自分はここで「魔女の店」と看板を掲げても、まだ堂々としていられるのだ。世間が変化していっても、身近な人々が変わらずに接してくれるから、隠れるように生きなくてはならない身の上ではないことを忘れずにいられる。
 ラベンダーの石鹸とローズマリーの蜂蜜を包みながら、心からそう思った。

 その翌日、新聞の一面記事が、王が城門を開放して人々に伝えたいことがあると声明を出したことを報道した。

 城門の中は、見たこともないほどの人で溢れかえっていた。ざわざわと絶えず周囲で交わされる声が、風の渦のように耳を包む。太陽はちょうど天頂に昇る時間だ。気温はそれほど高くないのに、人ごみの温度と相まって柔らかな日差しは嫌に暑く感じられる。
 ――芝生がみんな潰れてしまう。
 横から後ろから人に囲まれて押されながら、ユーティアはふと足元を見下ろして、そう思った。青々と整えられた前庭の芝は、人の足が多すぎてほとんど目に入らない。
 前に立つ女性の髪が鼻をくすぐった。むずがゆさに顔を上げれば、金や茶色や黒や灰色の頭がまだらな丘のように続いている。他にも帽子をかぶっているもの、バンダナをしているもの。老若男女に埋もれて、時々子供の頭も見える。両親に手を引かれて、ざわめく人ごみの中で落ち着かなそうに顔を動かしている。
「あっ、失礼」
「いえ、お気になさらず」
 ふいに右足の先を踏まれた。突然のことに顔を顰めてしまったが、こんなことはもう、今日だけで何回目か数えきれない。申し訳なさそうに詫びた男性に会釈を返して、ユーティアはふうと息をついた。どことなく蒸した空気の薄さが、胸に堪える。
 王の声明を直接、自分たちの耳で聞くために、休日のアルシエ城にはたくさんの人が詰めかけていた。ユーティアもその中の一人となって、今日は店を臨時休業してここに来ている。ベレットはいつも通り仕事に出ているので、一人だ。声はかけてみたが、どうせ市場で飽きるほど話題になるだろうからと、彼女はあえて人ごみの中に足を運ぼうとはしなかった。
「なんのお話なのでしょうね」
 先ほどの男性が、落とした声で話しかけてくる。彼も一人で来ているようだった。ユーティアはええ、と頷いてから、同じように声音を落として答えた。
「分かりませんね。……あまり、悪い内容でなければ良いのですが」
「同意です。しかしこのところの状況を見る限り、明るい話ではないかもしれない。一体、ウォルド様は何を発表なさるおつもりなのか」
「そうですね。でも私は、お父上のやり方に倣って、こうして直接話を聞ける場を設けてくださったことは良いことだと思います。そう思われたから、あなたもいらっしゃったのではありませんか?」
 男性はグレーの眸を見開いて、それから少し嬉しそうに頷いた。
 城門の中まで人々を招き入れ、集まった者の前で新しいことや決定したこと、衝突している問題や解決の指針などを自ら発表する――それは先代アルシエ王が、大きな転換点を迎えるたびに取ってきた行動だ。良いことであれ悪いことであれ、直面したときはまず、自分の声で人々に現状を話す。
 実際、聞きに来られるのは、国民全体から見ればごくわずかな人数だ。コートドールの、城の近くにでも暮らしていない限り、そう急には来られない。多くの人は、声明を聞きに向かった記者たちの書く新聞や雑誌で、内容の大筋を知る。だが先代アルシエ王のそのやり方は、地方の町村でも広く知られ、慕われていた。
「あなたはとても、はっきりした意見をお持ちだ」
「え?」
「女性の方で、政治の話をしてあなたのように答えてくる方は、あまりいませんよ。いや、失礼。少し語弊のある言い方をしてしまいました。……あなたと話ができて、浮足立っていた気持ちが落ち着いたと、そう言いたかったんです」
 眉を寄せて、複雑そうに男性は微笑む。照れ隠しの苦笑だと気づくのに数秒かかって、ユーティアもくすりと表情を崩した。


- 56 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -